第二撃「白湯」③
ウォーターバッグを15分ほど打ち、蹴り続けた後、鏡太郎は道衣の袖で額の汗をぬぐった。カーテンと窓を開け、窓際に置いておいたマグカップを取る。初夏の午前6時過ぎの透明な日差しと空気の中に、やわらかく湯気が立ち上った。入れてあった熱湯は、ちょうどよく冷めている。
ゆっくりと口に入れ、ゆっくりと飲み込む。温度が、まるで味のように感じられるのが好きだ。朝稽古の後は、真夏でも白湯と決めていた。
「なんか今日、いつもより打ち方ハードめやんか」
横に、パーカーにハーフパンツの鷹邑さやかが立っていた。スポーツ少女! という感じに刈り上げている後ろ髪には寝ぐせがついたまま。切れ長の目をしょぼしょぼさせながら大きな口であくびをかみ殺した。
「昨日の影響? “お神楽”、ずいぶんぶりやったもんな」
麝汞流の隠し言葉で、実戦で技を用いることを「お神楽を舞う」と言う。
「……ひっさびさリアルだったわ、股間の感触…」
鏡太郎は、左のてのひらを見ながらしみじみ言った。
「リアルっつうてもズボン越しやん。それにまいんちジカで触っとるやろ、自前の」
「自前のと他人のは意味合いが違いすぎんの。んなことより……あー最悪…柿星の生徒とかマジかよ…」
鏡太郎は畳にしゃがみ込むと、軽い天然パーマの髪をもしゃもしゃと両手指でかき混ぜた。
「ほんとに同じ学年なん?」
「私服だったから初め気づかなかったけど、間違いないわ。噂の外部生。あーもう、制服着ててくれって!」
「制服着てたって、結局ああしたやろ」
「……。まあ、そうなんだけどさ…」
せめて技を使うところは見られたくなかった。あの女の子が公園から離れることができれば、戦わなくたってよかったのだ。「逃げろ」と言うと気がとがめて逆に逃げづらいかもと考え、だから「出口に走れ」と言った。
金髪男のパンチの威力は、打撃の角度に合わせて身体を捻る体捌きでどうにか殺せていたし(そもそも、そこまでの威力のパンチではなかったし)、もう一発であの男の気が収まりそうなら顔を狙ってこない限り、このまま謝ってりゃいいかとすら思っていたのだ。
男の腕にしがみついてきて目が合った時の、シナモンスティックをくわえた勇敢な表情が浮かんでくる。
「そうだ鏡ちゃんさ、お神楽舞う前にいちいちあたしにお伺い立てんの止めえや。『了解』とか、返事もせんでいいんやから。そのせいで胡蝶鞭の踏み込み、3分の1テンポ遅れたよな?」
「……」
「最後も逃げるように立ち去っちゃってさ。“そそくさ”だったぞ。そそくさ」
さやかは両肘をこすり合わせながら片膝を繰り返しひょいひょい上げて見せた。“そそくさ”の表現らしい。ハーフパンツに隠れていた、陸上部らしく引き締まった大腿部が露わになって鏡太郎は思わず視線をそらす。
「田之上巡査から夜にLINE来てた。事件にはしないって意思確認して、あの子にはすぐ帰ってもらったって。金髪は…まあ未成年だし、住所とか学校名控えて、こってり説諭で絞っといたって」
「シモキタやめて、あのキモい男尾けたの正解やったね」
「あの子が降りてった後、アイツ明らかに後追ったもん。お陰でこっちも用もねえ浜田山で降り…」
奥の襖をノックする音と同時に「おい、稽古長くないか?」という声がした。窓同様、襖の前にも垂れ下がっている黒いカーテンを端に寄せ、掛け金を外して開く。父の博一が、デニム生地のエプロンを着けて立っている。
「朝ご飯、冷めちゃうぜー」
「ごめん。速攻でシャワー浴びる」
「卵割るの失敗したから、スクランブルエッグな」
「炒り卵ね」
「……鏡太郎は、お祖母ちゃん苦手だった割には言葉、影響受けてるよな」
「そっかな?」
「“炒り卵”なんて友達に昭和って言われるぞ」
博一が襖を閉めながら言った。鏡太郎は掛け金をかけ直し、カーテンを戻す。もう朝稽古を終えるのだから意味ないのだが、祖母の叱責が聞こえてくるようで、こうしないと落ち着かないのだ。
男に麝汞流を見られてはならない。決して。
畳とウォーターバッグを濡れ雑巾でざっと拭くと、鏡太郎は廊下に出て茶の間に向かった。炒り卵、父はちゃんと甘くなく作ってくれたろうか。だとしても勝手にケチャップかけちゃってたりすんだよな。
さやかの…初めて「お神楽を舞っ」てしまった5年前の日の夜から、鏡太郎の脳内にだけ存在する妄想の幼なじみの姿は、もう消えていた。
〈第二撃「白湯」/おわり〉
第二話までお付き合いいただけた方、ありがとうございます。
第一話にポイントを付けてくださった方までいらして、感激しています。




