閉ざされた哀願
★この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません★
少しホラー要素、グロテスクな表現があります。苦手な方は閲覧を控えて頂きますようお願いします。
出して…
ここから出して―――
神社を後にして、隣町の北側と西側を回った所で夜が完全に明けた。特に何か起こるわけでもなく回り終えた。あっけなく終わった一柱の神と、一人の依代。もしかしたら、一緒に依代をしていたかもしれない、そんな淡い妄想をする。そして、突如現れた、伏して崇めなければならない最高神の弟君は、ある種多面性の神の名にふさわしい柱だった。色々ある、本当に。
しょぼ神が未だにツボりつつ、南に向かって歩みを進める。途中例の神社を通り過ぎた。倒壊したからか、僅かに人だかりが出来ていた。記者かカメラマンか、大きめのカメラで写真を取りまくっている人もいる。今ではめっきりそういう記事や放送はないが、オカルト的な見出しにして欲しい…などとオカルト好きの血が騒ぐ。…実際オカルト案件だったけど。もう死者が喰われる事はない。
南側に向かって歩みを進めていくと、一匹の黒猫がいた。野良猫のようだが、歩道の隅の陽だまりで座っている。にゃんこ、かわいい。そういえば死んでから初めて猫を見た気がする。見えていないだろうけど、そっと傍に寄って、鼻先に人差し指を近付ける。触りたいなぁなんて思っていると、尻尾をピンと立ててすり寄ってきた。きゃ、きゃ、きゃわわ!…落ち着こう。僕の事見えてるのか?猫は視えてるっていうのは本当のようだ。すり寄って来てくれたのは嬉しいけど、触れない事で黒猫さんも困惑しているようだ。にゃんこ吸えないのが死んでから一番つらいかもしれない。
うろうろと僕の周りを歩いた後、黒猫は歩き始めた。もう行っちゃうのか。そう思った時、僕の方を振り返って立ち止まった。そして少しこちらに戻り、また僕の方を見つめたまま、進行方向に体を向け止まった。
「??」
もしかして付いて来い的な事だろうか。そっと後ろに付くと、それを確認した後また歩き出した。歩いては後ろを確認し、僕を確認してまた歩く。そのまま100mほど付いていくと、古い一軒家に着いた。建物自体は大きいが、朽ち方が酷く、誰も住まなくなって長い時間が経っている事がわかる。辛うじて読める表札には『須藤』と書かれていた。両隣は空き地になっていて、売却の看板が立ててある。両隣どころか、周り全部空き地のようだ。なんとなく異質なのはわかるが、黒猫が何故ここに連れてきたのかがわからない。
「ここは君のおうち??」
「にゃあ」
可愛い事しかわからない。
これも何かのご縁かと、とりあえず家の周りを見てみる。正面から見たよりも更に随分と大きく感じる。エアコンの室外機があるが、これもボロボロだ。…ん?この通気口みたいなのは何だろう。壁の一番下に鉄格子が填めてある。床下の通気だろうか?
「出して…」
え?
「お願い…ここから出して…」
女性の声が通気口から聞こえた。
トマトを買い忘れたとメッセージが来て、仕事の帰りにスーパーに寄った。トマトで何を作るんだろう。サラダかパスタか。肉詰めなら最高。そういえば、トイレットペーパーが残り少なかった気がする。ついでに買って帰ろう。
会計を済ませてスーパーを出た。今から帰るとメッセージを送り、家に向かう。週末だし外食でもよかったかな。明日の夕食に提案してみよう。
途中、閉店時間間際の洋菓子店が目に入り、美味しそうなケーキを買った。夕食の後、映画を観ながら食べよう。その前にお風呂を張らなければ。帰ってからの段取りをしながら、帰路を急ぐ。
家に着いたが、両手に荷物で鍵が中々取り出せない。玄関前でもたついていると、後頭部にものすごい衝撃が走り、目の前が暗くなった。荷物が散乱し、両手と両膝を着いた。遅れて来た激痛に悶えていると、更に衝撃が来た。二回、三回、見つめる地面に赤い水たまりが出来だしたのを確認して、意識が途切れた。
聞こえた声は空耳ではなかった。通気口から聞こえ続ける声にどうしたらいいのかわからず、とりあえず家に入ってみようと壁をすり抜けようとした時、呼び止められた。
「うちに何か御用でしょうか?」
声を掛けてきたのは、線の細い眼鏡をかけた男性だった。…生きてる。僕が見えている?
「いえ、少し気になる事がありまして、ご挨拶もせず勝手に入ってしまって申し訳ありません」
そう言って頭を下げ、足早にその場を去ろうとした。
「もしよろしければ、中でお茶でもいかがですか?」
男性はそう言って引き留めた。この朽ちた家でお茶…?何かおかしいどころじゃない、これは限りない緊急事態ではないか?慌てて離れようとした時、手を掴まれそうになる。まずい!!そう思った瞬間
「シャーッ!!」
とすごい声がして、黒猫が男性に飛びついていた。男性が怯んだ隙に、走って敷地から出る。黒猫も僕のすぐ後ろを付いてきた。
そのまま離れたところまで走り、息をついた。
「何だあれ、怖かった」
はぁーと大きく息を吐き出して、黒猫にお礼を言おうとした時
「何故逃げるんですか?」
背後であの男性の声がした。
翌日のプレゼンの資料の不備を見つけた。何度も確認していたはずなのに、こんなギリギリで見つけて、焦りと安堵が入り混じった。残業が思いの外時間がかかって、あと30分で日が変わるしという時刻。電車を降りて急ぎ足で家に帰っていた。途中何か食べる物を買って帰ろうかとも思ったけど、冷蔵庫に剥いたグレープフルーツが残っているのを思い出して、どこにも寄らなかった。
母と二人暮らしだったが、通勤の関係で無理を言って家を出させてもらった。母が心配ではあったけど、実家を売る事が出来ない以上この選択肢しかなかった。でもこんな時、母がいてくれたらなんて、身勝手な事が頭を過る。
この時間、あまり外を出歩きたくない。治安の悪い土地ではないけど、遅い時間は人が全く出歩いていない。そして、地理的にどうしても通らなければいけない場所があって、そこがあまり得意じゃない。ボロボロの大きい家がぽつんと建っている。周りに家が無いのも、不気味さがより際立っている気がした。
その家の前を通り過ぎる時、走って通ろうとした。パンプスで走り慣れてはないけど、人通りがないこの時間、のんびり通りたくなかった。道路に面した玄関口が目に入らないように、視線を外して通り過ぎようとしたその瞬間、側頭部に衝撃が走り、目の前が真っ暗になった。
背後からの声で硬直した体。逃げなきゃ、離れなきゃという思考だけが高速で駆け巡るのに、全然体が動かない。
「勝手に敷地に入った事は怒っていませんから。逃げないで下さい」
薄ら笑いを浮かべて前まで回り込み、僕の鼻先でそう言った。
まずい、そう思うと同時に意識が遠のいた。
目が覚めると暗い場所だった。何が起こったか状況を整理したいが、体が思うように動かない事に気付いて焦る。体は立っている状態なのはわかるが、頭以外ピクリとも動かない。閉じ込められた。それだけはわかる。動く頭で見渡すと、天井の方から少し明かりが入っているのがわかる。そのおかげで完全な闇ではない。でもその入っている明かりのすぐ下、人がいる…
「な、何だ…」
思わず声を上げてしまった目線の先には、椅子に縛られた女の人がいた。目はくり抜かれ、鼻が削がれ、開いた口からは裂かれた舌が覗いている。痩せ細り、斑に刈られた髪は歪だけど、髪型のせいだけではなく、頭は陥没しているように見える。それに、お腹からは大量に出血しているように見えるし、右足の膝から下がない。
猟奇殺人。そんな言葉が頭を支配しようとした時、その女の人が動いた。
「出して…」
さっき聞こえた声だ。この人、生きてる。動転して気付いていなかったが、纏っている色は間違いなく緑。嘘だろ…?こんな状態で生きていられるのか…?
「君も同じようにしてあげますね」
声のした方に頭を向けると、さっきの男性が直ぐ傍にいた。咄嗟に逃げようとするが、やっぱり動かない。多大な情報量で思考するのを諦めかけた時、奥の方でぎぎぎっと何か軋む音が聞こえて、人の気配がした。暗くて姿ははっきりしないが、色だけはわかる。真っ黒な色にピンクが混じっている。まだ人がいるのか。
呼ばなきゃ、ダメだ。
『アメノさん!!』
…出てこない。何で、何故現れない??何度も心で呼び続けてみるが、何の反応もない。お、落ち着いて考えよう。呼んでも現れないって事は、僕の声が届いてない?神社のような結界があるのか、それともまたアメノさんが神様に助けを求めている?もしくは…僕の依代の役目が終わったか。
ぬっと男の後ろから、女が顔を覗かせた。目は大きく見開かれ、黒目は天井の方を向いている。裂けているのかと思うほど口角を上げ、そして顔中、血が飛び散っていた。
「面白い存在ね、あなた」
そう言って男の後ろから姿を現した女の手には、大きな金槌が握られていた。そんな大きな金槌があるのか…現実逃避でそんな事を考えた。落ち着け、僕の状態は八方塞がり。だけど、あの縛られている女の人だけはどうにか助けられないか。動くのは頭だけ。どうする、どうする…
「あなたはちゃんと綺麗になれるかしら」
振り上げられる金槌、あ、終わった。くそ、くそ。僕はどうなってもいい、あの女の人を…
金槌がこめかみに入ろうかという瞬間、覚悟を決めて目を瞑る。その時、肩が温かくなって、瞑った目でもわかるくらいの光が放たれた。
「うぎゃああああああ!!」
強烈な悲鳴が響き渡り、驚いて目を開ける。金槌を持った女が目を覆ってうずくまり、男は倒れていた。何が起きているか全くわからないけど、身動きが取れる事に気付く。急いで椅子の女性の所に駆け寄り、縛られている縄を解く。…待て、何で触れる…?そう思うより早く、首を締め上げられた。目がない女性が僕の首に手をかけている。一体どうなっている…どうなっている…
「この痴れ者共が」
締まった首が開放され、淡い光が辺りを包んでいる事に気付いた。
「アメ、アメノさん…」
恐怖から解放された事よりも、依代の役目が終わっていなかった事に安堵で涙が出る。目のない女は両腕を上げたまま固まっている。
「また変わった者が現れた」
金槌を持った女がアメノさんに向かって歩み寄りながら、その手を振り上げた。その瞬間、ピタッと動きが止まった。
「小賢しい手を使い続けおって。玲奈、引導を渡してやろう」
アメノさんが男に言うと、倒れていた男がすっと立ち上がりにやっと笑うと、中から女が出てきた。何だ、何だこの状況は。
「生きている時に殺めた者達を、死んでからも使役し続け、おのが欲望を満たし続けてきたこと、何ぞ申開きは有るか」
「玲奈ちゃんのやる事は間違ってない。玲奈ちゃんがやりたい事をやらせ続けるのが僕の役目だ」
嬉しそうな顔で声を上げる男。死んでからも使役するとか、そんな事可能なのか。というか確実におかしい。
「自分を殺めた相手にもそう言えるとは、随分心酔しておるようだの、蒼太」
アメノさんが蒼太と呼んだ男は、にやにや顔のまま変化がない。事態が全く飲みこめない事はいつもの事だけど、相変わらず情報が多い。考えるのを諦めて、静観する事にした。
「誰だか知らないけれど、上から偉っそうに。あたしがやる事は何も変な事じゃないよね?汚い血と醜い外見、それに中身を全部綺麗にしてあげてるだけだよ?その過程で死んじゃうのは、綺麗な体で生きる資格がないって事でしょ」
きゃはははっと高笑いをした玲奈という女が、アメノさんを見つめた。オレンジ色、初めて見る。
「だから文句を言われる筋合い、これっぽっちもないでしょ」
気付けば生きていると思ってた二人の色は、幽霊のものになっていた。意図的に変えられるという事か。そうか、殺す人を誘うために、見えるようにわざとしていたのか。僕は違う色なはずなんだけど。
「この変わった子を綺麗にしたら、玲奈もっと元気になれるかと思ってたのに邪魔してさ」
聞きたくない、これは聞いたらダメなやつだ。
「綺麗にするのも大変だからさ、前に綺麗にして耐えられなかった子を使ってるんだよね。蒼太はあたしの事大好きだしさ。綺麗にするの楽しくて大好きだから助かるんだよね」
「も、もう、開放して…ここから出して…」
「うるさいわよ穂花。あんたそればっかり」
目のない女性、穂花さんがぽっかり開いた目から涙を流していた。
「綺麗にしてる時もぎゃーぎゃー騒いで、やめて、帰して、出してってそればっかりだったし」
その瞬間何かが切れた。頭に血が昇る初めての経験。怒りのまま玲奈を殴ろうとした瞬間、アメノさんに止められた。
「こんな下衆に触れるな光輝。穂花を任せる」
あの声は間違いじゃなかった。こんな暗いところで、こんな酷い目に遭って、生きたままって…怖かったろうな、つらかったろうな。死んだ後もこんな姿で…涙が溢れてきて、穂花さんを抱き締めた。触れた所から記憶が流れ込んできた。たまたま仕事が遅くなった日に、殴られてここに連れ込まれたのか。ここは、須藤邸だ。
「もう大丈夫だよ、穂花さん」
僕の腕の中で穂花さんは元の姿に戻っていた。しがみついて泣き続ける彼女をぎゅっと抱き締めた。
「だっさいわねほんと」
僕らの方を一瞥して玲奈が吐き捨てた。
「涼華、こいつら綺麗にしてよ」
そう言いつつ金槌を持った女の方を見るが、忽然と消えていた。
「誰だか知らないけど、そう申しておったが、我は神だ。あの者はもうほとんど消滅しかけておったので消した。次はそなただ」
「え?」
そう発して玲奈は硬直した。今更気付いたけど、今回のアメノさんもだいぶキレてる。
「玲奈よく聞け。望まぬ者の命を嬲り奪う事は、そなたの想像以上に道理から外れておる。そして殺めた者達を使役し、更に殺め続けるのはもう救いようがない。考えもしなかったであろうが、そなたが一番汚れておる」
「玲奈ちゃんは綺麗だ!!」
蒼太が間に入って叫ぶ。
「蒼太、そなたが一番楽しんでおったの。直接手を下さず、ただただ人が嬲られているのを楽しんでおった。妻のやりたい事をやらせると申しておったが、自分が楽しむ為の口実にしかなっておらん。夫婦揃って、今度はお互いが嬲られるのを楽しむが良い」
ふっと息を吐き出し、アメノさんは人差し指を上に向けくるっと回した。ずずずっと音がしたと思ったら、玲奈と蒼太の頭上に黒い円が現れた。この感じ、知ってる。
「冥裂衝」
アメノさんが唱えると、ふふふふふっと女の人の笑い声が聞こえたと同時に、大きな腕が二本、円の中から伸びて来て二人を掴むとそのまま円の中に消えた。一瞬の悲鳴が聞こえたが、円の中に吸い込まれて消えた。
お、終わった…
「一度外に出よう」
そう言ってアメノさんは僕らを抱きかかえた。
一瞬で外に出た。見覚えのあるボロボロの室外機。やはり須藤邸だった。
「にゃー」
あの黒猫さん!しかも香箱座り…?
「よう守ってくれたの」
アメノさんがそう言い頭を撫でるとぐるぐると喉を鳴らして、前足に着けていた顔を少し上げた。
その足の間に見覚えのある物が目に入った。これは…翡紫勾玉?
「穂花、少しは落ち着いたかの」
僕の腕の中で泣き続けていた穂花さんは、はい、と返事をした後、大きく深呼吸をしてアメノさんの前に進んだ。
「助けて頂いて本当にありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げた。
「やらされておった事とは言え、あの者達に手を貸しておったのは事実。しかし、そなたは生前の壮絶な痛みと恐怖のまま数年過ごした。我は十分な罰を受けたと思うておる。よう辛抱したの」
そう言ってそっと穂花さんを抱き締めた。また泣き始めてしまった穂花さんにアメノさんは申し訳なさそうに伝える。
「もっと早う救けてやれなんで、申し訳なかった」
首を横に振りつつ泣きじゃくる穂花さん。僕ももっと早く見つけたかった。
「それからの、そなたに紹介したい者がおる」
すっと黒猫の方を指し示した。
「そなたがよく知っておる者に、生まれ変わったら猫になりたいと言うておった者がおっただろう?」
優しい笑顔で問うアメノさん。はっとして黒猫をじっと見つめる穂花さんが消え入りそうな声で呟いた。
「お父さん…?」
「にゃ」
短くそう鳴くと黒猫が穂花さんに近付いた。
「今回はこの猫殿がおらなんだら、そなたもそこの依代も救けられなんだ。そなたでも触れられる。存分に礼を言うが良い」
「お父さん!!」
黒猫が穂花さんの胸に飛び込んで、抱き締められた。
「お父さん、ありがとう、ありがとう…」
黒猫に透けて大柄なやさしい笑顔のおじさんが見えた気がした。娘さんを救けたくて、僕をここに連れてきてくれたんだな。本当は生きている娘さんを守りたかっただろうな。もらい泣きしている僕に、穂花さんが黒猫を抱き締めたままお礼を言ってくれた。
「あんな状態でも、自分よりも私を助けてくれようとした事、本当にありがとうございました。怖い目に遭わせてごめんなさい」
「にゃあ」
これもお礼なのかな。
「僕の方こそ、何も出来なくて本当にすみませんでした。不安にさせてすみません」
お互いくしゃくしゃに泣きながら、ペコペコしながら謝り合う。
「穂花は我が責任を持って送ろう。名残惜しいだろうがまたいつか必ず会える。猫殿も、此度は本当に助けられた。礼を言うぞ」
穂花さんの頬をぺろっとひと舐めした後、黒猫はぴょんと地面に降りた。そしてひと鳴きすると、その場で座った。
「お父さん、ありがとね!またね!」
アメノさんは穂花さんを抱き締め、すっと消えた。
もう大丈夫とはわかっていても、この場に留まっている事がなんとなく嫌で、足早に須藤邸を後にした。黒猫も僕の後を付いてきた。始めに出会った場所に戻って来て、ようやくひと心地着いた。
「黒猫さん、今日は色々と本当にありがとう」
しゃがんでお礼を伝えると、黒猫も座ってくれた。
「もっと早くお嬢さんを救けられなくて本当にすみません」
ぺこっと頭を下げると、にゃーっとひと際大きく鳴いて、僕にすり寄る素振りを見せた。そしてそのままその場でくるくるっと二回回ると、走って道路脇の茂みの中に消えた。あの黒猫さんがいなかったら、僕はあの蒼太という男に腕を掴まれた時点で多分終わってた。意識が途切れた時も、黒猫さんが何かしら守ってくれてたんだ。本当にありがとう。安心して猫生楽しんで下さい。あ、これはもしや…
「流石にもう慣れたか」
ええ、流石に同じ手は何度も食いませんとも。
「今回の事は、聞きたい事が山程あります。でも、まず言わせて下さい。救けて下さって本当にありがとうございました。あと、依代…クビじゃなくてよかったです…」
言いながら泣けてしまった。
「お役御免にはまだ早い。そなたの力はまだまだ必要だ。我の方こそ、遅れて申し訳なかった」
そう言ったアメノさんも泣きそうに見えた。
「僕の声は…届いていなかったんでしょうか?」
呼んでも現れなかった神様。お役御免でないなら、まずその理由が知りたかった。
「届いてはおった。だが、濃い霧の中のように、声は聞こえるがそなたの居場所だけがわからなんだ。どうすれば良いか思案しておった時に、一筋の光が見えたのだ」
光…あの肩が温かくなった時か?
「あれはの、須佐之男命様のご加護だ。そなた先の件の時、あの方に触られたのではないか?」
「笑いながら肩をばんばん叩かれました」
少し驚いた顔をした後、そうか、と言いながらアメノさんは笑った。
「あの方は気難しい所も有るが、そなたの事が気に入ったようだの。もしくは何かを見越しておったのかもしれぬが…何にせよあんな状況で壊されなんだのは、その加護のお陰だ」
気難しいは絶対嘘だと思う。本気モード以外ただのおしゃべりなお兄さんだった。…何にしても、僕はスサノさんにまたしても救われたという事か。
「居場所はわかったが、今度は穢れが酷すぎて迂闊に入れなんだ。そなたらがおったのは地下室のようなものであったが、あそこだけ異常な穢れだった。まぁ、理由は想像がつくだろうが」
あの場所で惨劇がたくさんあったのだ。あんな、あんな…
「あの黒猫さんは、何か特殊な力があったのですか?」
以前、アメノさんに託された、生命線だという翡紫勾玉。穢れに触れても危険がないように、僕を外に置いてそれを持たせた。
「あの猫殿はの、死んだ時依代を打診したのだ」
笑顔でそう言いながら少し懐かしんでるようにも見える。
「そ、そうなんですか?」
「猫殿、穂花の父親は随分前に病気で死んだのだがの、そなたのようにとても優しく、本当に人の為を思える男であった。遺してきた妻と娘を想うておったが、生きている者に任せると言うておった。依代の打診をした時も、猫に転生する、早く上に連れて行けと言い切りおった」
笑顔で語るアメノさんを眺めつつ、疑問がある。僕、依代の打診とかされてないけど!?
「そなたは少し状況が違っておっての。普通は死んだ後すぐに打診するのだ」
だからあの時僕に謝ったのか。そういえば海音さんの件でもそんなニュアンスだった気がする。スサノさんの語る話しの中でだったけど。
「猫殿は、前世の記憶も、依代を打診した時の記憶も無い。だが、魂というべきものが、娘を救いたい、そう願ったのだろうな。そして、清く優しい心はそのまま引き継がれておった。動物に勾玉を預けるのは初めてだったが、それ以外方法がなかったでな」
よう守ってくれた、そう言って安心したようにふふっと笑った。
「また他の神様にお願いするという事は出来なかったのでしょうか?」
「今回は時間が無かった。最初そなたがあの家の敷地内に入った時、我は察知出来なんだのだ。異変に気付いたのは、そなたがあの家に連れ込まれた後だ。須佐之男命様のご加護がなければ…」
僕も穂花さんと同じようになっていたのだろう。何故今回、察知が出来なかったのだろうか。
「あの者共は殺め慣れしておった。慣れるという事は、その事柄に関して知恵がついてくるという事でもある。あの玲奈という女は、生きている時から死者を感知出来る能力を持っていた。故に、死者もいたぶっておったのだの。自らが死んだ後、その能力は少し変化して残った。生者にも死者にも感知出来るようになったのだ。生者に干渉し、死者は殺せるようになった。それを繰り返しておると、蒼太や穂花などにも生者と死者の切り替えが出来るようになり、目眩ましなども出来るようになったのだの。穂花があの姿になっておったのは、攫った者に恐怖を与える事と、そなたのように助けようとする者を更にいたぶるため、そして、穂花自身の懺悔と抵抗だったのだ」
生前から死者を感知出来たのか。死んで変質する能力と、神様から隠れられるほどの慣れ。そんな中で、穂花さんは自分を罰し続けていたのか。
「消した涼華という女は、玲奈と初めて会うた時は死者だったようだ。蒼太を殺し、穂花を殺し、更に二人を使役して殺しを繰り返しておった玲奈に惹かれた。生きておる時に殺しを楽しんで、死後も彷徨っておった涼華を惹きつけたのだ。惹きつけた先は玲奈自身の死だったのだがの」
身の毛もよだつ。殺人鬼がそんなにいてたまるかと思うが、時代も場所も関係ないなら無くはないのかもしれない。
「殺された事で玲奈が改心すれば、行く先は違っていたかもしれん。しかし、己の死すら玲奈は利用したのだ」
そこまで執着した玲奈という女の『綺麗にする』という執念。僕にはやっぱり理解出来なかった。
「涼華が消えかけていた理由は、満足したんだの。人を殺める事、そして、自らの欲望は欲望ですらなかったと、玲奈を見ていて気付いたのだ」
ある種絶望したのだ。比べてはいけない人と比べてしまった自身の矮小さに。それが涼華という女への最大の罰だったんだ。
「あの、夫婦揃ってって言ってましたけど、二人は本当に夫婦だんたんですか?」
「夫婦だった。歳の頃はそなたと同じくらいだった。玲奈は昔から自意識が過剰な所があって、加虐性が強かった。そして、蒼太は依存体質。玲奈は結婚して一緒に暮らし始めてから、蒼太の甘やかしによって更に増長したのだ。そんなある日、仕事帰りの蒼太を玄関先で待ち伏せて殴り殺した。仕事帰りに買い物を頼んだのに遅かった、あたしに相応しくない、そんなような感情だったように思う。我には理解出来ぬが、綺麗に、したかったんだろうな」
僕にも理解出来ない。そして、蒼太の必死さを思い出す。そんな理由で殺されたのに、あんなに玲奈を擁護していた。依存とはそういうものなのだろうか。
「今まで殺された者達は、穢れとなってあの場所に留まっておった。そのせいで数年で家は朽ち、障りのせいで近隣にも影響があった。穢れになってしまった者達は、もう上に送る事も、何か対処する事も出来ぬような状態であった。我が顕現した段階で、大半は浄化出来たが、残りは涼葉と一緒に消した。その者達にも、申し訳ない事をした」
何の罪もなかったであろう人達、そして、何故殺されたのか、それを聞いてもわからないだろう。悔しい。とても悔しい。
「あの黒い円も、地獄からの戴き物ですか?」
「…あれは地獄からではなく、伊邪那美命様から頂戴した物だ」
まさかの神生みの神の名が出てくるとは。壮大な愛と、愛ゆえの大騒動。一部の書物では、スサノさん達のお母さんとされている。そして、黄泉の国を治める神。
「天国や地獄、そして黄泉の国は、存在している場所…というしかないが、それが違うのだ。本来なら我の務めも伊邪那美様が遂行すべきなのだろうが、住んでいる場所の違いが大きくての」
スサノさんも同じような事を言っていた。それもまた理というものなのだろう。
「それに伊邪那美様は、何と言うかの、その、我とは少しお考えが違う方での。黄泉の国の事と伊邪那岐様の事しか興味がお有りでない」
未だに未練があるという事だろうか。それとも怒りが治まらないのか…
「あの夫婦はの、黄泉の国、そして伊邪那美様の見世物になったのだ。あまりやりとうはないのだが、あの二人は死者も生者も踏みにじり、殺め過ぎた。黄泉の国で、それこそ永遠に、嬲り物にされるのだ」
僕らの想像を遥かに超えている人は、想像を遥かに超えた者に任せるしかないのか。
「あの二人を掴んでいった手が、伊邪那美様だ」
御本人が直々に連れ去ったのか。あの笑い声は、伊邪那美命だった。
「毒を持って…」
「その先は言わぬ方がそなたの為だ」
ふふっと笑って僕の発言を制したアメノさんは、大きく息を吐いて僕を見る。
「先の神社の件でもそうだったが、鳥居を潜らなんだそなたの危機回避の直感を信じておる。そして、思わぬ加護や助けを得られる人柄も。だが、今日のような事はもう二度と無いよう策を考える。そなたが壊されなんで、本当に良かった」
唇を噛み締めながら言う神様に、伝えたい事がある。
「アメノさん、僕、女性を抱き締めたの、初めてだったんです」
きょとんとするアメノさんを確認しつつ続けた。
「死んでから、初めての事ばかりです。怖い目にも遭いますけど、色んな人に会えて、ご縁が出来て。だから依代になれてよかった。僕を選んでくれてありがとうございます」
僕は絶対に壊れない。壊させない。まだまだこの神様のお手伝いをやる。
「前にも言った気がしますけど、僕は大丈夫です。だからまた呼びます」
「…承知した」
優しく笑ってアメノさんはすっと消えた。
あ、僕も猫が触れるようになりたいって言い忘れた。また次の機会に聞いてみよう。…次は東側だな。黒猫さんの消えた茂みに、心の中で別れを告げて歩き出した。