第五話 その花、高潔にて(下)
驚きながら振り返ろうとした瞬間、そちらからも驚きの声が上がった。
「うわ、なんだこのむさ苦しい絵の数々は!」
「文句を言う前に一言声をかけてから開けてはいかがですか、江遵様!」
もしも今筆をもっていたのなら、確実に墨を飛ばしていただろう。
「後でお伺いするつもりでしたけど、副官殿はお暇なんですか」
「むしろ先になぜ来ない、報告があるだろうに来ないから来てやったんだ」
「それはそれはありがとうございます。でも、こっちだって用意がいるんですよ」
「その用意がこのむさ苦しい絵か? 妃にはまったく見えないが」
「当たり前です。この人たち、私に賄賂を持ってきた人たちですよ」
そんな紹藍の言葉に江遵の目がぴくりと動く。
「贈収賄文化なんて知らないですし、返礼品が用意できないとお断りしてるので問題ありません」
「文化など」
「少なくとも後宮では女官長と宦官長がしているそうですよ。緑妃様が仰っていました」
紹藍の言葉に江遵は手で目を覆った。
これはおそらく対処を考えているのだろうと思いながら、紹藍は言葉を続ける。
「この人たち、後宮に娘や親族がいたりしませんか?」
「少し待て。全て見る」
そう言いながら江遵は一枚一枚似顔絵を見ていった。そして、各々に対象者らしきものの名前と妃らしきものの名前を呟いている。
(……って、全員を把握しているの!?)
もちろんそれが仕事であればそうであろうが、蜻蛉省は後宮の担当であるわけではない。
仮に担当であったとしても、妃の名前だけならともかく、関係する親族とすぐに結び付けられるだろうか? 一人や二人ならまだしも、十は超えている。一人くらい知らないものがいても不思議ではないと思うが、そこでもしかしたら皇帝からの無茶な勅命というものの一つで覚えたのかもしれないと紹藍は思ってしまった。
「……後宮って色んな意味で面倒ですね」
ただでさえも面倒そうなのに、皇帝からさらに面倒な要求をされることもあるのかと思うと江遵が少しだけ気の毒になった。
そして、自分は画家の扱いで良かったとも思った。少なくとも無茶振りをされることはないだろう。
「……面倒で思い出した。緑妃のところにいた桂樹だが、中年の官吏らしき者から『新たな緑妃が誕生すれば侍女頭になれる』と言われ、今回の騒ぎを実行したらしい。緑妃を騒ぎの中心人物に仕立て上げ、責任を取らせたかったと」
「性悪ですね」
「ああ。おまけに自己評価が高いらしく、自分が緑妃から正当な評価を受けていないと感じたらしい。加えて黒妃を後宮に相応しくない者だと感じていたので嫌がらせをしたかった、と」
「どれだけ幼稚な理由ですか。そもそも、その話を持ちかけた人、実在するんですか?」
あまりに適当な話すぎて、架空の設定を言っているだけなのかもしれない。
そう呆れながら紹藍が聞くと江遵は肩をすくめた。
「桂樹が言う名の官吏は存在しない」
「引っかかる言い方ですね」
「偽名を名乗り持ちかけた者がいないとまでは断定できないからな。馬鹿な話だとは思うが、少しでも自分の利となる妃の地位を高めたい者はいるだろう」
そう言われると紹藍も溜息くらいしか返せない。
(実際そんな者がいるとしたら、今の噂の状態の出所としてわかりやすいのよね)
桂樹が失敗しても緑妃に汚点を残すことができるなら、口先で唆すこともするかもしれない。
そこまで考え、紹藍はふと江遵が回収した男たちの姿絵をじっと見た。
「江遵様。いるとは限らないんですけど……その中に、偽名を使って桂樹に会いに行った人がいる可能性ってあると思います?」
「……いないとも限らないな」
もともと後宮に出入りしない役人の素性を後宮の侍女側から調べることは難しいだろう。
一方役人側は、仮に自分の身内の妃が内部にいるのであれば、裏切りそうな侍女を見つけることも、また使いで後宮の外に出る予定を聞きつけ、偶然を装い接触を図る役人に知らせることもできるかもしれない。
(仮定が多すぎるけど……まぁ、やってみましょう)
そうして、紹藍は江遵と共に桂樹が収監されている牢へと赴いた。
※※※
桂樹が入れられている牢は、普段は貴人用に使われている場所だった。これは桂樹が貴人として扱われているわけではなく、後宮や妃たちのことを他に収監されている人間にも聞こえるよう、悪く言いふらすことを避けるためだった。
いかんせん、主人への虚言と盗難が理由で桂樹は捕えられている。その辺りの信用は無に等しい。
しかし貴人用とはいえ、牢は牢。快適なはずもなく、対応も犯罪者に向けられるそれを受けるだけである。
「また新しい人? まだ話をするの? 今日も散々話したと思うけど」
江遵の姿を認めた桂樹が、そう言った。
どうやら蜻蛉省の役人だとは思っていなかったらしいが……江遵の後ろに紹藍がいることに気付くと立ち上がった。
「アンタ……!」
「どうも」
噛みつかんばかりの勢いだが、紹藍にとってはさほど迫力を感じるものではなかった。
いかんせん下町の人間に比べ桂樹の線は細いし、ここでの生活のせいかやつれている。怖いと思える理由がない。
そのうえ、すぐに江遵が静止に入った。
「狼藉は許さんぞ、罪人」
それは普段の様子とは異なり、支配者に近い雰囲気が醸し出されていると紹藍は感じた。
なかなかの名演技だと笑うのはグッと堪えた。
一方、桂樹は身を小さくしていた。
「罪人、お前は自分に指示を出したものがいると言っていたな」
「は、はい」
「それはこの中にいるか?」
そして紙を投げられた桂樹は、慌ててそれを拾う。そこに男の顔が描かれていることに気付くと、真剣にそれを見る。それは真面目だからと言うことでは決してなく、自分を嵌めたものがいるかもしれないと青筋を立てながら、指先が白くなるまで力を込めて見るといった様子であった。
(こんな女が侍女頭になれると、本気で思っていたのね)
他人を蹴落とす、自身の悪行と向き合わない、それでいて人を束ねる立場になどなれるわけがない。
もっとも、それに気付ける人間であればかのような状況にもなっていないだろうが。
そんなことを紹藍が考えていると、桂樹が手を止めた。
「……いたわ! こいつよ」
そうして示された一枚に江遵が目を細めた。
「精査しよう。嘘をついた場合、罪が重くなるぞ」
「わかってるわよ! 軽くするために本当のことを言ってるんでしょうが!」
それは、桂樹の本気だと紹藍にも理解できた。




