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宮廷墨絵師物語  作者: 紫水ゆきこ
第一章
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第一話 下町の画聖、(強制)勧誘される(下)

 大賑わいの店の中では落ち着いて話ができる気がしない。

 加えてあの騒ぎの後で注目されているのであれば尚更だ。

 そこで紹藍は仕方なく自宅に男を招くことにした。

 今の時間であれば母は診療所へ行っているはずなので、突然男を連れて帰ってきたと言っても腰を抜かされることもないはずだ。


(もっとも、士族かもしれない人を這いつくばらせるような人を家に連れて行ってもいいものか迷うところではあるけれど……)


 だが、他に都合のいい場所を思いつかないので仕方がない。


「粗末な場所である上、お出しするお茶もございませんが……」

「気にせずとも構わない。それに茶なら先ほどの店で飲んだ。なかなか美味かったな」


 男は本当に気にしていない様子で敷物もない板間に座った。

 掃除はしているものの服が板のささくれに引っかかりはしないかと紹藍は少し気になったが、男は注意を払うことなく興味深げに家の中を見回していた。


「……あの、物色なさるおつもりなどないのは百も承知ですが、あまりまじまじ見ないでいただけますか」

「失礼。いや、絵があちらこちらにあると思ってな」


 江遵の言う通り、屋内には紹藍の絵は多い。

 とはいえきちんと紙に書いたものではなく練習用の木片だったり、お盆であったり、繕い続けたボロ切れ同然の服や袋を誤魔化すために描いたりと人に見せられるようなものではない。


(でも、絵のお仕事の話をしたいのなら見ても仕方ないのかもしれないわね)


 しかしこの状況を脱するためにも、まずは話を始めなくては終わりがこない。


「まずは名乗らせていただきます。私、鴻 紹藍と申します」

「これは失礼。私は江遵コウジュンという」

「では江遵様。私の見立てでは江遵様は裕福な方だと思います。どうして本物の画家にお話を持って行かれないのですか」


 どういう依頼かと尋ねる前に、紹藍はどういうつもりかと尋ねたかった。

 すると江遵が目を瞬かせた。


「なぜ、そう思う?」

「その服装で仰いますか?」

「目立たぬようにしていたつもりだが」

「本気で仰っているのであれば変装力不足でございます。庶民にしては上等な仕立てすぎますし、シワも着古した故ではなくわざとつけたものでしょう」


 ほんの数秒だけなら気付かれないかもしれない。しかし少なくとも紹藍であれば、注目すれば違いに気付く。


「観察力が高いのだな」

「お世辞は結構。それより理由をお聞きしても?」

「ああ、そうだな。ありきたりな絵では意味がないからだ」


 そう言いながら、江遵は一つの石を懐から取り出した。

 それは以前紹藍の客が自分の顔を描いてほしいと依頼してきたものだった。

 あの客の知り合いだったのかと紹藍が驚いていると、江遵は言葉を続けた。


「このように墨のみで濃淡を使い分けて描く画期的な絵に興味を持った。加えて、この絵の雰囲気が欲しくなった」

「雰囲気でございますか」

「ああ。この型破りな絵には力強く立体感があり、まるで本物のようだ。しかし意図的に特徴をやや強調・誇張している部分もあり、人物の雰囲気がわかりやすい。生きている絵とでも言えばいいのか? なんにせよ私が今求めている人物画に一番ふさわしいのではないかと考えた」

「そ、それは……一体、どのようなものを描く依頼なのでしょうか?」


 できるだけ断るつもりであったが、あまりに褒められたことで、つい紹藍は尋ねてしまった。


「皇帝陛下にお渡しするため、後宮で見合い用の絵を描いてほしい」

「……え?」


 それは軽い気持ちで聞いた紹藍にとって、いろいろと意味が分からない言葉であった。

 この国で後宮と言えば、皇帝の妃たちが住む場所しかない。そこで描くというとなると、妃たちのことだろう。


(すでに妃なのに、お見合い用なの?)


 さらにそのような場所に住む高貴な女性の絵を、しかも皇帝に見せる前提で自分に依頼するなど冗談としか思えない。

 だが、江遵の目は笑っていない。


「……意味が一切分からないのですが」

「まず、私は皇帝陛下がまったく後宮に向かわないことに現在頭を悩ませている」

「それは何故でございましょうか?」

「先帝が病で崩御なさった後、陛下は幼くして即位されたが、先帝と同じ病に罹患されていた。そのため皇帝陛下が成人なさるまで皇太后が一時政務に就き、後宮に入る女性を選んだが……皇太后は評判がアレだろう? 陛下はこれを快く思っておられず、一度も個別に顔を合わせたことがない」


 評判については、政治に疎い紹藍でも知っている。

 『私欲に満ち、それ故に隠居を命じられた仮初の女帝』というのが市井での評判だ。もちろん実際のところはどこまで本当かわからないし、皇族に対して公に非難することはできないので耳にしたことがある、という程度の知識ではある。

 ただ、わざわざその話を引き合いに出すくらいなのだから、少なくとも皇帝側から見ると合っている部分も多々あるのだろうと紹藍は理解した。


「……でしたら、ご自身で選びなおされてはよいのではないでしょうか」

「手続き上に瑕疵がないうえ、妃たちに過失もない以上、それはできない。加えて陛下は異母兄弟がいるため必ずしも自身に世継ぎが必要ではなく、時間があるなら仕事をしたいとお考えで、そのつもりは一切ないだろう」


 先帝が崩御したのは十七年前のはずだ。

 現在二十二歳であるはずの皇帝は当時五歳。成人してからも六年は経過している。

 確かにここ数年は異常気象で民の生活が不安定になる時期も多かったことから、後宮に入り浸ることなく政務に励んでいたのであれば真面目な皇帝だと感心するものの、一度も妃に会っていないというのは少々度が過ぎていると紹藍でも思う。


(色ボケよりはいい陛下だけれど……それは……)

「お陰で政務は滞りなく進んでいるが、妃にも人の心がある。と陛下が忙しいことを理解していたとしても、陛下が成人したにもかかわらず、いつまでも放置され続けるのはあんまりだろう? だからせめてそこに心を持つ人間がいるということが陛下に伝わるような肖像画を描いてもらいたいと考えた」

「それで『お見合い用の絵』なのですか」

「宮廷と関わりのある画家なら存在はするが、男は後宮には入れない。別の場所で描かせるということもできはするが、妃においでいただくにも問題がある。もっとも、その問題が解決できようとも従来の絵とは異なるあなたの絵を描いてほしいという願いは強い」


 これほど自分の絵を懇願されるのは初めてだと紹藍は思った。

 だが、同時にこれはまずいことではないかとも思ってしまった。


(皇帝陛下に関する案件で頭を悩ませるって……江遵様は、相当お偉い方だわ)


 先ほど丸い男に対して言っていた『セイレイショウ』なるものも、役職の何かだったのかもしれない。

 適当な言葉遣いばかりしていたが、今も不敬にあたらないかと紹藍は少し心の中で汗を流した。一応江遵は気にしてはいなさそうなので今更改めるつもりもないが、かなり厄介な話になってきた。


(そう、面倒ごとに違いない)


 勝手なイメージではあるが、女の園というだけで後宮には面倒臭そうな雰囲気を感じるので、やはり近づくことは得策ではない。

 しかも妃たちは自分よりかなり身分が高い。絵を気に入られなければ何を言われるかわかったものではない。そもそも口だけであればまだマシなのかもしれない。


 ならば、角が立たないよう断るしかない。


「用件は把握できました。ですが、私は自身の稼ぎで母と二人、生計を立てております。姿絵を描かせていただくことで欠勤すれば今後職を失う可能性もあります。それに突然辞めると店に欠員が生じ、長年お世話になった店主に迷惑もかかります」


 紹藍は申し訳なさそうに装ってそう告げた。

 接客業で培われた表情を作る技術はなかなか立派だろうと自画自賛したくなる。

 しかし江遵はまったく驚くことも困った様子を見せることもなかった。


「代わりの労働者が必要であれば私が手配しよう」

「え? いえ、そうではなくて」

「給金の話も詰めなくてはな。基本給は官吏を基準に考えている」

「え……?」


 空耳かと思う発言に紹藍は戸惑った。


(官吏!? そんな待遇、ポンと言っていいものなの!?)


 科挙を通過せねばならない官吏は、その努力に見合うだけの給金が支給されている。だが、その倍率はあまりに高く、生来の頭の良さに加えてかなり勉学に励む環境を整えられていなければ出発点にも立てはしない。


 そのような精鋭と同基準に支給される給料がいかほどのものなのか、もはや紹藍には想像がつかない。だが少なくとも母によい療養環境を整えてもお釣りがあり、生活に余裕ができるだろうことは想像できる。

 しかも、江遵は基本給と言った。


「絵については別途、相当の金額を示すつもりだ」

「それはいかほどで……?」

「そうだな。だいたいだが……」


 そして告げられた金額に紹藍は目眩を覚えた。江遵が示したのは紹藍の三ヶ月分の給金だった。


(嘘でしょ!? それだけあれば絵の道具だって買えるわ。夢の夢だった顔料だって買えるかもしれない……! そうなれば絵に色を入れることもできるわ……!)


 そう胸をときめかせかけた紹藍は、しかし急いで現実を見ようと試みた。

 美味い話には裏がある。

 世間に揉まれた紹藍はそんな状況を見聞きして育っている。

 やはり、堅実が一番平穏かもしれない。


「陛下も多数の絵を渡されても面倒だと束で捨てかねない。故に現状では高位の妃を描いてほしいと思っている。実際陛下がお会いになれば私的に追加報酬も考えている。なんせ私の悩みが一つ減るのでな」

「で、ですが……」

「言っておくが、陛下に関する内情を知った以上、断るのであればそれなりの対応が必要となる」

「……え? そ、そっちが勝手に喋ったんじゃないですか!!」


 いや、初めに話すよう促した方は認める。

 だが皇帝に関することだとは想像もしていなかったし、聞いただけで否と言えないのであればその前に一言断ってくれていたらよかったのだ。


(もしかして、この人……それが狙いで言わなかった!?)


 思わず睨めば、江遵が笑った。


「悪く思わないでくれ。ああ、紙や筆、それから墨も自由に使えるから安心してほしい」

「そ、そんな心配などしておりません!」


 むしろ心配する余裕が今の紹藍にはない。

 魅力的な文具の自由という誘いには少し心が揺れたが、それでも騙し討ちは良い気持ちではない。

 これでは勧誘ではなく脅迫だ。


「そうか? まぁ、悪くない条件は整えよう。気分転換をする必要があるなら自由に絵を描くための有給をとればいいし、仕事のための練習とあれば備品の使用もやむを得ないだろう。もちろんその後、その絵をどう使おうと本人の自由だろう」

「……たとえば、その絵を売却してもかまわないと?」

「常識の範囲であれば問題ないだろう。あまりに高価なもの……たとえば金粉を散りばめた絵となれば見過ごせないかもしれないが」

「金粉を散りばめた絵ってどんな絵なんですか」

 

 飄々と言う江遵に、紹藍は溜息をついた。

 飴と鞭という言葉はこう言う時に使われるものなのだろう。


「……お断りできないのであれば、契約せざるを得ませんね」


 客観的に見れば、人間関係の面倒臭さがあるとしても破格の条件で、二度とこのような高待遇を得られることはないだろう。

 それに母のことを考えれば、受ける方がいいに決まってはいる。


「ただし条件は書面で記してくださいませ。今、仰ったことを必ず含めて」


 些細な抵抗ではあるが、紹藍は溜息混じりにそう言った。


「もちろん。引き受けてもらえて光栄だよ、画聖殿」


 そう砕けた調子で言った江遵はキラキラと輝いているようだった。

 造形の良い顔の男の無駄に輝く笑顔はこの上なく胡散臭い。


「そうだ。私の立場の説明はまだだったな。私は蜻蛉省の副長官だ。貴女は私の部下になってもらうよ」

(……副長官って、想像以上に偉い人じゃい!!)


 セイレイ省というものは恐らく部署名だろうということを把握しながら、紹藍は顔をひきつらせた。


 春は出会いの季節とも言うがこんな出会いはいらないと、紹藍は思わずにはいられなかった。




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