ニセモノ聖女はまだ知らない
ソフィアの最も古い記憶は、あまりのひもじさにカビたパンを食べて、激痛に腹を抱える記憶だ。
薄汚れた裏路地でようやくありつけた食材、嬉しくなってかぶりついて、数時間後地獄を味わった。
パンの食べかすをひげにつけたまま跪く貴族の男を見下ろしながら、そんなことを思い出した。
「この絵へ、毎朝お祈りを捧げましょう」
ソフィアの言葉に、貴族の男は涙を浮かべながら感謝の言葉を口にする。呼気からはぶどう酒の香りがしてひどく不快だ。しかしソフィアは完璧な笑みを浮かべ、胸に手を当ててながら、お腹のそこから深い声を出した。そのほうが言葉の重みが増すのだ。
「神は常に貴方を見ておられます。貴方の全てをご存知です」
男は嬉しそうに頬を染める。ソフィアは明確な手応えを感じながら、流れを変えるべく、すっと目を細めた。
「……ですから、お祈りを忘れることが無いようくれぐれも注意してくださいね」
空気が変わったことに気がついたのか、男の顔がじわじわと青ざめる。見守られているという感覚が、次第に監視されているという感覚へ変わっていく。安堵を不安に、自信を不安に。不安という感情はお金をよく落とす。
ソフィアは貴族相手に金を搾り取る悪徳宗教の聖女として、自らを偽って生きていた。
人を騙すのに、お金が欲しい以外の理由などない。ソフィアは物心ついた頃からたった一人で、常に死の瀬戸際を生きていた。
歩くことも出来ないような乳児の頃から一人だったとは思わない。少なくともソフィアをこの世に産み落とし、物心がつくような歳まで育ててくれた人間がいることだけは確かだ。しかしどうしてソフィアと共にいないのかも、どんな人間だったのかも、顔も名前も、何も知らない。ソフィアは気がつけばひとりぼっちだった。周囲にソフィアを知る人間は誰もいなかった。だから、自分の名前も知らなかった。
人には名前がついてるものだと知ったから、たまたま見かけたソフィアという貴族の少女から取った。貴族から名前を取れば高貴な血筋の子だと思われ、ソフィアを舐め腐り馬鹿にする人間が一人でも減るかもしれないと考えたからだ。結果は名前ごときで変わるようなものではなかった。ソフィアはボロ布を身にまとい、汚れた顔や髪、痩せた身体をしている孤児の代名詞のような見た目だったから、そこを変えなければならないのだと気がついた。
ソフィアは旅行に来ていたらしい貴族のカバンを盗み、その中に入っていた小綺麗な服を身につけることにした。川で身体を洗い、髪をまとめ、服で貧相な身体を隠した。人好きする顔だったため、それなりに整えれば貴族の子どもと言われても騙されそうな見た目にはなった。
ソフィアはその見た目を利用して、迷子になり泣く貴族の子どもを演じるようになった。迷子になったと泣き、相手が慈悲を見せる隙をついて、持ち物を盗む。幸か不幸か、ソフィアには人を騙す才能があった。ソフィアには相手の表情や仕草から、相手がどんなことを考えているかを読み取り、また自分の言動で相手がどのように感じ行動するかを推測する能力に長けていた。
ソフィアの才能を見抜いた詐欺集団が、ある日ソフィアに悪徳宗教の聖女になるよう提案してきた。貴族たちの信仰心を利用し、イカサマな道具に金を払わせる。騙す相手が貴族のみであること、屋根の下の住処が提供されることもあって、ソフィアは喜んで提案を受け入れた。
そうしてソフィアは偽物の聖女となった。
詐欺集団の見る目は確かであり、ソフィアは立派な聖女様として、信者を着々と増やしていった。
昼間といえど、肌寒い。夜には雪が降りそうだなと空を見上げるソフィアは、すすり泣くような声がどこからともなく聞こえることに気がついた。
「……もう嫌だ……僕なんて、僕なんて……」
ソフィアはすぐに声の主を探した。
辛い気持ちになっている人は良いカモになる。それはソフィアの経験則から明らかだった。
声の主の少年は、広場の片隅で、木箱に混じって蹲っていた。清潔に切りそろえられた黒髪、細い身体を包む真っ白な質の良い服、傷一つない脚。見るからに裕福な家庭の子どもに、ソフィアはほくそ笑む。
「……どうしたのですか?」
涙をたっぷりためた瞳が、不安げにソフィアを見上げる。ソフィアは柔和な笑みを浮かべると、清潔に洗われた布を差し出した。
この日、この瞬間、ソフィアの運命は狂い出す。
偽りの聖女ソフィアと後に敬虔な信者となるアルブレヒト・ローゼンミューラーの出会いの日である。
◇
アルブレヒト・ローゼンミューラーと名乗る少年は、最初こそ警戒する様子を見せていたものの、ソフィアが好意的な笑みを浮かべるだけの攻撃しない存在であると分かると、すぐに心を開いた。
ローゼンミューラー家。
それはこの土地において、王族に次ぐ権力を持つ貴族の名であり、アルブレヒトはその次男だった。
「僕は、妾の子なんだ。だから家庭教師の先生も、お義母さまも、お義兄さまも、みんな僕のことが疎ましいんだ……」
「アルブレヒトさん、あなたは決して疎ましい存在ではありませんよ」
悲しむアルブレヒトをソフィアは優しく受け止めた。ほとんど年が変わらない少女にーーとはいえ、社会を知るソフィアはアルブレヒトよりずっと大人に見えたがーー抱きしめられ、背を撫でられて、アルブレヒトは再び涙を溢れさせた。今度の涙は、悲しみの冷たいものではなく、温かな滲むような涙だった。
ソフィアはアルブレヒトを、無関心の中に生きている人間だと予測した。その通り、アルブレヒトは妾の子という理由から、周囲の無関心の中、一人ぼっちで生きていた。だからソフィアの存在はアルブレヒトの中核にぐさりとささった。心の切り口からぼたぼたとあふれる血すら心地よい、アルブレヒトはすっかりソフィアの、『聖女さま』の温もりに魅了されてしまった。
その日から、ほぼ毎日のペースでアルブレヒトは教会へ来るようになった。ソフィアはその時ばかりは他の聖女の仕事を放棄し、アルブレヒトを優先する。他の貴族たちがソフィアを求める声を断り、アルブレヒトのもとへ駆け寄る。貴族の子息アルブレヒトは無関心の中に生きている。こういった『特別扱い』を誰よりも甘いと感じる人間であることが、ソフィアには手に取るようにわかっていた。
ーー優越の味は、さぞかし甘いだろう。
わざと他の貴族たちが多く居る時間を狙って来るようになったアルブレヒトを、ソフィアはソフィアで将来有望な金づるとして、期待していた。
「私はアルブレヒトさんをよく知っています。あなたは疎ましい存在ではありません」
そう言って肩を抱き寄せると、毎回アルブレヒトはぶるりと震える。指先まで張り詰めた緊張にも似た多幸感。それが皮膚越しに伝わるさまは、なんとも滑稽だった。
ハリボテを愛する少年を、ソフィアは愚かに思いつつも、普段のように、見下す心だけでは無かった。
「聖女さま、その傷どうしたのですか?」
めくれ上がった袖から肘が見えてしまっていることに気が付き、ソフィアは慌てて隠す。しかし時すでに遅く、アルブレヒトは怪訝そうな顔を浮かべ、ソフィアの肘をとった。
「……肘のところの傷、見せてください」
ソフィアはおずおずと肘を見せると、アルブレヒトは目を見開き、やがて顔を歪めた。
そこには皮の引き攣った赤い痕が広がっていた。
「ありもしない罪で濡れ衣を着せられている人がいて、その方を庇ったときの傷です。すみません、お見苦しいものをお見せしました」
あぁ、あの時のアルブレヒトの瞳よ!
純真無垢で真っ直ぐな瞳が、なんの邪心もなくソフィアの傷を案じているのだ!
ソフィアはたまらなくなった。自分がいかに汚い人間か、見せつけられているような気さえした。
もちろんこの火傷痕は、人を庇ってついたものでも何でもない。食べ物を盗もうとしたがヘマをして、怒り狂った店主に野菜を煮る用の湯をかけられた。それだけだ。適切に治療をしていれば、いや、それどころか湯をかけられた後すぐに水にさらしていれば、これほど痕が残らなかったかもしれない。しかしソフィアは知識も助けも何もなかったから、ひたすら涙を噛み潰しながら痛みに耐えていただけだった。
「……まだ、痛いですか?」
ソフィアが首を横に振ると、アルブレヒトは恐る恐るといった動作でソフィアの引き攣った皮にそっと触れた。かつてない感覚にソフィアがわずかに身じろぐと、アルブレヒトはそれ以上に驚いて、すぐに手を離した。
ソフィアの腕にはじんわりと熱が残り、それが不思議と心地よかった。
「見苦しくなんか無いです」
アルブレヒトは真摯な瞳でソフィアを見つめた。
出会ったばかりの頃は見下ろしていたのに、貴族は食事が良いからか、気がつけば目線の高さが同じになっていた。
ソフィアはぼんやりと、アルブレヒトと出会って決して短くはない月日が過ぎたことを自覚する。
「聖女さまの傷は誰かを庇ってついたもの。それが、見苦しいはずありません」
愚かだ、と思った。
ならば自分の傷は結局、見苦しいじゃないか。
そんなソフィアの心境も知らずに、アルブレヒトはソフィアのことを見つめるから、たまったもんじゃない。
「……ありがとうございます」
ソフィアはいつものとおり、目を細め、穏やかな笑みを浮かべた。
◇
ソフィアにのめり込んだ信者たちには、信仰の対象として絵や木でできた聖女像を売りつけた。ソフィアの言葉を盲信する信者たちは当然その絵やら聖女像やらを買うし、ソフィアが寄付を募れば対価なくお金を落とした。あえて別の信者の目の前で大量の寄付を受け取り、感謝の気持ちを最大限に示すことで、他の信者の寄付が増えるようにしたりした。
アルブレヒトはその点、異質の信者とも言える。
なぜならアルブレヒトは、絵や聖女像の類を一切買わなかった。その代わり、自分の持ち物を売って、ソフィアに寄付として渡してきた。それはローゼンミューラー家の資産をおもうと大したことはないけれど、子どもが用意するには相当な額だった。
アルブレヒトが絵や聖女像を頑なに買わない理由を聞いてみたことがある。それらを買った貴族の姿を見せておき、その貴族をたっぷり褒め称えたあとに聞いた。
「僕の信仰の対象は絵や木でできた像じゃない。聖女さまそのものなのです」
その瞳は燃えていた。静かな炎が燃えていた。
ソフィアは流れる街並みを無心で見ていた。それは聖女としての仕事が終わったあと、教会まで帰ろうとしていたときのこと。
ソフィアともう一人の客だけを乗せた乗り合いの馬車に揺られながら、同じ馬車の中にいる痩せた少女が、ぼろぼろと泣きながらパンを食べていることに気がついた。
その様子に既視感を覚え、ソフィアは幼い少女に微笑みかけた。
「どうして泣いているの?」
少女は涙をためた瞳で、ソフィアを見上げた。
「お母さんとお父さんと一緒に暮らせなくなった」
ソフィアはそれ以上聞くのを躊躇った。普段ならば聞き返す。少女は己の身に起きた不幸を、他者に話したがっていると感じたから。でもソフィアが躊躇ってしまったのは、それ以上聞くと今のままでは居られなくなる予感がしたから。
ぽつぽつと地面にしみがうまれる。気がつけば空を暗雲が覆い、気まぐれな雨が地面を濡らし始めていた。
少女はソフィアの沈黙を補うように口を開いた。
「領主さまが、おかしくなっちゃったの」
「……おかしく?」
「うん。お母さんとお父さん、畑でお野菜を育ててたの。その年にお野菜が取れなかった人たちのために、お野菜取れた人たちは領主さまにお金を渡してるんだけど、最近領主さま、お金をいっぱい払えっていうのに、お野菜が取れない人には全然あげないの」
地面が濡れ色が変わる。肌を晒す足先から寒さが伝わり、胸元にひやりとしたものが広がった。
「お父さんとお母さん、様子が変だからって、領主さまに直接話をしに行ったの。そしたら、領主さますごく怒って……」
「……それで、どうなったの?」
「……分かんない。だけど、一人で叔父さんのことろに行きなさいって言われた。わたしは嫌だって言ったけど、お父さんとお母さんは駄目だって、わがまま言わないでって」
「…………」
「……お父さん、お母さん」
再びぽろぽろと泣く。ソフィアはいつものようにーーアルブレヒトにするようにーーその少女を抱きしめようとしたけれど、動けなかった。
ソフィアは乾いた口の中を意識しながら、歪に笑った。
「きっと大丈夫。あなたのお父さまとお母さまは、きっと大丈夫よ」
再び少女の瞳がソフィアを貫いた。
不思議と、アルブレヒトと同じ無垢な瞳であるのに、全然違う気配がした。
少女のそれは、ソフィアを非難するようなものだった。そう見えた。
少女が家からこの乗合馬車に乗ったとして、おそらく少女の言う領主さまとやらは、近頃ソフィアにのめり込む信者の一人であろうと予想がついた。
優しい人間で、民ひとりの不幸をも受け入れられないような、繊細な心を持つ貴族だった。ソフィアは「あなたの信仰が、あなたが愛する人に幸福を与えます」と言い続けた。他者の幸福を望む人間ほど、自分を犠牲にすることに潜在的な安堵を覚えるから。ソフィアの予想通り、坂を転げ落ちるように宗教にのめり込んだこの貴族は、寄付や胡散臭い絵に惜しげもなく金を落とした。
そのお金は、もともと潤っている貴族が出しているものだとソフィアはこれまで考えていた。だから容赦なく騙すことができたし、信者たちを見ても何も感じなかった。
感じなかったのに。
ソフィアは詐欺集団から報酬を受け取っている。聖女であるソフィアが受け取る報酬はかなり多い。それらすべてを貯めているので、ソフィアの貯金はそれなりな金額となっていた。
しかし、それでも、ソフィアが聖女をやめ、どこか遠い土地で生きていくには、あまりにお粗末な値段。
「聖女さま?」
ソフィアははっと息を呑んだ。
アルブレヒトは不思議そうに、木箱に座り込むソフィアの顔を覗き込んでいる。ソフィアが周囲を見回すと、そこは乗合馬車を降りてから少しあるところ。はからずも、ソフィアが泣いているアルブレヒトと出会った場所だった。
「これから教会に行こうと思っていたのですが……体調が悪いのですか?」
黒色の髪、前髪が少し伸びてきた、目にかかりそうだ。真摯な瞳は黒く濡れ、やっぱり何かが燃えている。ソフィアは立ち上がって、同じ高さにあるその目を見た。
「大丈夫です。ただ、少し考え事をしていて」
ちか、と視界が白く光る。満足にご飯を食べていない頃にしょっちゅうなったみたいにふらりと身体が倒れそうになるけれど、不調を気づかれないようにソフィアはまっすぐ立って微笑んだ。
「どんな考え事ですか?」
「言いにくいお話です」
「お金ですか?」
「…………え?」
「お金、聖女さまのためになら、僕はいくらでも用意します」
アルブレヒトは至って真剣だった。どうしてお金のことで悩んでると思ったのだろう。考えて、近頃、アルブレヒトに寄付と絡めて頻繁にお金の話をしていたことを思い出す。
それをアルブレヒトは、ソフィアがお金に困っている状態だと予想したのだろう。貰えるのならばもらっておくものだ。ソフィアはとっさに顔を曇らせると、お見通しなのですね、と呟いた。
「実は教会のお金がもう本当にぎりぎりで……。今年は野菜が不作でしたから、困っている人たちも多かったんです……。今後も同じように困っている人がいて、その人たちを助けられないかもしれないと思うと、胸が痛くて……」
ソフィアが胸を押さえると、アルブレヒトは顔を真っ青にしてソフィアの肩を支えた。ソフィアは少し身を固くした。方に回された腕、それは、大人のような力強い腕だった。
「お金はどのくらい必要なのですか」
ソフィアは胡乱げにアルブレヒトを見上げた。この少年は、ソフィアがここで何と言っても、それだけのお金を用意するのではないだろうか。そんな確信があった、いや、確信ではない、期待があった。仄暗い期待。どこまでも自分に心酔するこのお金持ちの子どもなら、ソフィアがこの世界から離れるだけのお金を用意してくれるのではないか、という期待。それも教会側にバレないように。ひっそりとソフィアに与えてくれるのではないだろうか。
ソフィアはぽつりと、金額を呟いた。
それはこまでの寄付なんてささやかに思えるような額だった。アルブレヒトは少し目を見開いたけれど、すぐに分かりました、と頷いた。
その日は結局そこで別れて、アルブレヒトはそれからしばらくの間、教会には来なかった。
さすがに無理があったか、とソフィアが話をしたことすら忘れかけた頃、ふいにアルブレヒトはやってきた。
きっちりと言っただけの金額を揃えて。
「聖女さま」
アルブレヒトは滲むように笑った。
「遅くなってしまい申し訳ありません」
ソフィアは震えた。
いまソフィアの手には、人生を変えられるだけの、昔から喉から手が出るほど欲しかった、たくさんのお金があったからだ。
「どうして、こんなお金……」
ソフィアの声は震えていた。
「お金ならば、どうにでもなります」
アルブレヒトは何でもないふうに肩をすくめた。どうにでもなる。ソフィアはそのどうにでもなるもののために、これまで魂を削って死の縁を生きてきた。
「ありがとう、ございます……」
お金の入った革袋を握ったまま、ソフィアはアルブレヒトを抱きしめた。ソフィアより少し大きい身体、出会った頃と比べて、随分と強くたくましくなったような気がする。
ありがとう。その言葉は心から出たものだった。
ありがとう。でも、もう二度と会うことはないでしょう。
「私はあなたのことを、いつまでも忘れません」
これは聖女の言葉では無かった。
ちっぽけな少女ソフィアの言葉だった。
ソフィアは荷物をまとめると、その日の夜のうちに教会を抜け出した。数年間ともに働いてきた仲間だけれど、彼らは腐っても詐欺集団だ。ソフィアが逃げ出すなど決して許してはくれないだろう。
乗り合いの馬車に揺られながら、宛もなくただ遠くを目指す。
しばらくそうしていたら、次第に空が明るくなってきた。涼しい風が頬を撫で、夜の終わりを告げる白い光が目を焼く。
自由だ、と思った。ただただ自由だ。
ソフィアを縛るものはもう何もない。
お金はある、身体も成長した、教養も得た。
人生の中で一番、清々しい気分だった。
ぽたりと足の上に水が跳ねた。
頬を温かいものが何度も何度も伝う。
自由だ。清々しい気分だ。
なのにどうして、涙が止まらないのだろう。
ソフィアは泣きながらパンをかじった。
それはもちろん腐ってなどいなくて、腹痛に怯える必要など無いものだった。
アルブレヒト。
ソフィアは彼のことを考えていた。
真摯な瞳で聖女を見つめる彼の瞳を、思い出していた。
ーーソフィアさん、ソフィアさん。
肩を揺すられ、ソフィアはゆっくりと目を覚ました。勉強の途中で気がついたら寝てしまっていたところを、司書の先生が起こしてくれたようだ。
ひどく懐かしい夢を見ていた。ソフィアは昼寝で乱れた制服を正しながら、すっかり人気の無くなった図書館をぼんやりと眺めた。
懐かしい記憶だ。はるか昔、まだソフィアが孤児で、手を汚して生きていた頃の記憶。
いまのソフィアは、学校に通っている。とある貴族の方が匿名でソフィアに支援をして、学校に通うのに十分なお金を寄付してくれたのだ。
「あ……」
視線の先、ソフィアの目の前を沢山の本を抱えて通り過ぎた青年が一人、かつて見ていた姿よりも背丈が伸びて、すっかり冷たい表情を浮かべるようになっていた。
「アルブレヒト、さん」
ソフィアの無意識な呟きに、彼は、アルブレヒトは、ひどく冷たい視線をソフィアに向けた。
数年の時を経て、ソフィアとアルブレヒトは再会を果たした。かつてのような聖女と信者という関係ではなく、今度は生徒同士として、対等な立場になった。
いや、対等などではない。
ソフィアはアルブレヒトからひどく嫌われていた。当然だ。償っても償いきれない行いを、アルブレヒトにはしていたのだから。
アルブレヒトはソフィアが教会を離れ、辺境の田舎でひっそりと生きていた間に、貴族の当主として家を継ぎ、ローゼンミューラー家をさらに大きな家として発展させていた。その手腕は大人をも凌ぐと高く評価され、またローゼンミューラー家の領民からも領主としての評判も良いらしい。学校の中でも一目も二目も置かれ、生徒や教師からも尊敬されるような人となっていた。しかしアルブレヒトは、かつてソフィアに浮かべていたような柔らかな表情はすべて抜け落ち、冷徹で人に興味がなく、いつも一人で居るような孤高の存在として、冷徹公爵と呼ばれている。アルブレヒトの笑顔など、見たことがある人はこの学校内にいない、とまで言われていた。
しかしアルブレヒトは、ソフィアのことを告発したり、その過去を学校はおろか、生徒の誰にも話すことはなかった。信者であることを恥じているのか、はたまた、話すようなことをする価値もないと感じているのか。ともあれ、ソフィアがかつてエセ宗教の聖女をしていた孤児であることは、アルブレヒト以外誰も知らない事実であった。
アルブレヒトの刺すような冷たい視線に、ソフィアは胸元をぎゅっと握りしめた。アルブレヒトは無言でソフィアに近寄ってくると、冷めた表情のままソフィアの目の前に一冊の本を置いた。
「勉強を集中してすることもできないのか? お前のような生徒がいると、他の生徒の気が散る。基本的な知識の礎が無いぶん遅れているというのだから、この本を読んで基礎を学び直したらどうだ?」
それは図書館の中で見たことがない、現在ソフィアが頭を悩ませている分野の基礎の本だった。おそらくもっと低学年で学ぶ内容なのだろう、ソフィアが顔を上げると、アルブレヒトは背を向け本棚の向こうに隠れてしまっていた。
ありがとう、ソフィアは小さくつぶやいて、視線を下げ、本を開いた。
「また冷たくあたってしまった……」
そんな囁き声が聞こえて、ソフィアは顔を上げたが、すぐに空耳だろうと肩をすくめ、本に視線を移した。
ソフィアはまだ知らない。
アルブレヒトから渡された本が、図書館の蔵書ではなくアルブレヒトの私物であることを。
ソフィアはまだ知らない。
ソフィアにお金の支援をしてくれている匿名の貴族が、アルブレヒト・ローゼンミューラーであることを。
かつての信者は、その信仰心とも言える執着心を盛大に拗ねらせ、あの手この手でソフィアを自分のそばに置き、あらゆる危害や"悪い虫"から密かに守っていることを、ソフィアはまだ知らない。