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捌:犬馬の心、これ如何(後篇)

 七冶が家を出てから、数週間が経った。ニイニイゼミが早くも鳴きはじめている。夏がやってきたのだ。

 この間、意外にも凛子は充実した生活を送っていた。朝は一緒に朝食を食べ、昼は作り置きを準備する。そして夜はなるべく早く帰り、食を共にする。土日は近くのスーパーに出かけて買い出しである。真人のためにも、凛子は規則正しい生活リズムと食生活を心掛けていた。

 真人の傷の具合はというと、包帯は全て取り去り、完全につぶれて皮膚が癒合してしまった右目には医療用の眼帯を付けた。


「お! 似合ってますねえ」


「んだよ、そりゃ」


 凛子は眼帯があまりにもしっくり来るので、顔を綻ばせると、真人は照れ臭そうに目を逸らした。

 この日も真人は眠れないようだった。凛子は何時もの様にiPadを持ち出して、真人の横に座った。七冶に貸し出していた部屋を使いたがらず、リビングに布団を敷く生活を送っていた。


「今日も眠れないんです?」


「寝て、目が覚めたら、あっちの世界に戻ってしまう気がする」


 消え入りそうな声でポツリ、言った。


「だって、そうだろ? こんなこと、あるはずがねえ……」


 夜になると、いつも真人は弱気になった。まあ、最もこれはセロトニンという神経伝達物質や副交感神経と交感神経のからくりがあるので、彼に限ったできことではないが。

 そこで凛子は名案を思いついた。日光を浴びさせる習慣を付けさせよう。


「よし! いいこと思いついたかも!」


 凛子は真人の手を掴んで立たせると、「ついてきて」と言って外に連れ出したのである。


「何だぁ?」


「ちょっと夜遊びしましょう」


 凛子が先に立ってスタスタと歩く。

 そして、着いた先は、家から歩いて五分程度のところにある運動公園である。


「ここ、結構運動するのにいいんですよ。私がいない間、暇だと思うのでいかかです?」


 深夜のため人っ子一人いない静かな公園


「こういう感じで、健康遊具というものがありましてですね……。見ててくださいね」


 凛子は遊具の前に真人を立たせると、スマホでググりながらやって見せようとした。しかし、これもまた何とも惨めなことに、何一つとしてまともにデモンストレーションできないのである。

 

「うぬぬぬ……」


 額に汗を浮かべながら、懸垂をしようとするも、一回も体が持ち上がらない。凛子は諦めて器具から降りるとぜえぜえと肩で息をした。

 真人は、凛子の何とも無様な姿に腹をよじって笑っている。


「こ、こんな感じです……」


 凛子は疲労困憊の様子でヘタヘタとベンチに崩れ落ちる。


「まあ大体わかったよ」


 肩を叩きながら真人は再びケラケラと笑った。「嬉しそうで何よりです」と、凛子の方も力なく笑い返した。


「まだ病み上がりだと思うので、リハビリを兼ねて少しずつやってくださいね」


 凛子は自分のポケットを漁ると、部屋の鍵を取り出した。


「まじで無くさないで下さいよ」


 そう言って真人に合鍵を渡したのだった。


 









 いつもの大学内のラウンジでメイを待つ凛子は、満足げに微笑んだ。

 どんどん心身ともに回復していく真人の様子を思い出していたのだ。

 同時に真人の心境の変化と生命力の高さに驚く。当初は猛犬どころか野犬のような振る舞いと風貌であったが、それはいわゆる反動形成という、抑圧されて無意識になっている欲求をそれとは反対の言動をとる行動となってあらわれたもののようだった。そのため、凛子はなるべく話し掛けたりこまめに世話を焼くことでかなり解消された。あれからというもの、全くと言っていいほど嫌なことはされなくなった。

 しかし、ここで気になってくるのが彼の生い立ちである。これに関しては未だに一切不明であった。凛子も聞いてはいけない気がして、触れられずにいた。

 

「なにニヤついてんのよ」


 途端、後ろから小突かれた。メイだ。


「なんかさ、人の心が元気になっていく姿っていいね。卒業したら心身医学のほうに進もうかなって最近思って」


 メイは一瞬キョトンとすると、ふふっと吹き出したものだから、凛子は「ねえそこ笑うとこー?」とむくれた。


「だって、凛子ったら、出会ったときはほんとこの子この大学に何しに来たの? って呆れを通り越して心配するほどだったんだから」


「私ってそんなにヤバかったのか……」


 医学部医学科ではありがちなことだが、凛子の様に医者一家で何となく入学してくる学生の多さにメイは辟易していたのは知っていた。


「それで、最近私の研究テーマのことでよく連絡してくるってわけね。今までテスト勉強と恋愛相談しか、連絡してこなかったくせに」


「そういうことです」


 メイの研究分野は心理療法で、所属している研究室は近隣の心理学研究室とも共同研究を行っている本気ぶりであった。もちろん、真人のためであった。











 とは言っても、真人の症状は特に不眠に関しては寛解まで日進月歩というわけには行かなかった。

 明日から夏季休業に入るから、ゆっくり寝れる、そう思って床についた夜だった。この日も凛子は真人の過呼吸発作で飛び起きた。


「悪いな」


「いえ、明日から休みなんで付き合いますよ」


 あまりにも申し訳なさそうに彼が言うもので、凛子もそうは言ったものの、今週は、立て続けにこういうことが起きたので睡眠時間が足りておらず、実のところかなり眠たかった。


「お前は、誰にでもこうなのか?」


「どういうことです?」


 凛子は質問の意図が掴めず、聞き返した。


「誰にでも優しくすんのかよ」


「やめてくださいよ、そんな人をふしだらな女みたいに言うの。そんなわけないじゃないですか」


 凛子は頬を膨らました。


「どんだけ私が過去に、重いとか、生真面目すぎるとか言われて何度振られてきたと思ってるんです」


「へえ、そいつは世話ねぇ奴らだな」


 真人はせせら笑う。しかし、ふと真顔になると凛子の頬をつまんで言った。


「こんだけ優しくしといて他の男んとこいったらぶっ殺すからな、リン」


「かっ、からかわないで下さいよ」


 凛子は真人を突き放したが、表情を見るといつもの軽口ではないことが明白だった。凛子もなぜか高鳴る胸を落ち着けることができなかった。


「チッ、ションベン臭え生娘かと思ったのによ」


 真人は凛子の手を振り払って、尚も凛子の頬をつまみ上げる。


「イデデデ……」


(キムスメ……?)


 頬をさすりながら、凛子はなにやら耳慣れない言葉に静止する。しかし、やがて意味が分かると真っ赤になった。


「わ、悪かったですね、キムスメで!!」


 凛子はコンプレックスをつつかれ、iPadで顔を隠した。


「何だよ、やっぱりそうなのかよ」


「何で分かるんですか」


「んなモン、誰だってわかるぜ」


 そういうと真人はケタケタと嗤ったので、凛子はさらに顔が火照った。

 今宵も凛子は質問攻めされて、真人のことは何もわからぬままか、そう思っていた。

 しかし、転機は訪れた。

 凛子はこの時間しかない、と思い、いつも話題がなくなると、溜まっていた動画サイトを漁る。そして、サブスク動画を観ていた。もともとインドアの凛子の至高の時間はこの寝る前にベッドでコロコロしながらネットサーフィンをする瞬間である。

 大体真人はこの時間に寝る。凛子はその瞬間にそろりそろりと自室に帰る。そういう流れができていた。

 しかし、連日の寝不足で今晩は凛子の方が動画を流したまま寝落ちしてしまったのである。

 ハッと起きると、真人は寝ているように見えた。ゆっくりと立ち上がって部屋に戻ろうとした瞬間だった。ギュッと手を掴まれ、引き戻される。「待てよ」と、背後から声を掛けられた。


「起きてたんですね」


「ここで寝ろよ。お前が横にいたら、眠れる」


 凛子は、これは男女が交わるための隠語か何かか? と邪推し、カチコチと固まった。

 すると心中を察したかのように「これだから生娘の奴は――」と、真人は頭を抱えた。


「お前の思うことは何もねえよ。何もしねえ」


 凛子は、本当か? とでも言うように目を細めて真人を見つめる。


「それどころか、指一本触れねえ。ちんちくりんを犯す趣味なんざ、俺にはねえよ」


 説得力を持たせようとしたのだろう。だが、色気も可愛げもないことは十分自覚していたので、凛子はむしろ、ムスッとした。しかしここで、何とも珍妙ではあるがいいことを思いついた。


「じゃあ、真人さんの話をしてくださいよ。家族とか友達とか。何でもいいですよ」


「そんなことでいいのかよ」


 真人があっさりと了承してくれたので、凛子は流れに棹さされた気分になったのだった。

恋愛はタイミング、というのは私の母からの教えですw

母も誰かからの受け売りなのかもしれませんが、

たしかになーと思う場面に何度か出くわしたので間違ってないのかもしれません。

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