漆:犬馬の心、これ如何(前篇)
「凛子ちゃん、明日、ここを出ようと思う」
夕飯を囲む時間であった。
七冶が急に箸を置いて真剣な面持ちになったかと思ったら、こう切り出したのだった。
「い、いい一体、どこへ! ?」
急な申し出に、思わず声が上擦る。しかし、来たるべき時が来たのだ、凛子は必死に頭を働かせた。凛子が出来る最善のこと、それは笑顔で見送ることだとわかっていた。
(遂に、この時が来ちゃった……。女の人だったらいやだなあ)
「あ、大丈夫。ちゃんと前々から、裕翔君とは相談していたんだ。それで、部屋探しも手伝ってくれることになった」
心の声が聞こえたかのように、七冶が慌てて付け加えた。邪推していたことが顔に出ていたのだろうか、ドキリとする。
「それで、部屋が決まるほんの少しの間は裕翔君が居候させてくれるって」
(え? 何ですって?)
凛子は心の中で待ったを掛けた。それだったら、兄のあんな汚い部屋を経由せずともここで部屋が決まるのを待てばいいではないか、と。だが、口には出さなかった。七冶が無駄なことをするはずがない。ここを早く出たい理由が、明らかにあるのだ。
もしかして、自分なのだろうか、そう思うと自分への嫌悪感で鳥肌が立った。私でしょうか? と何度も言おうかと思ったし、何故なのですか? と何度も言おうと思った。しかし、どの言葉も七冶の負担になることが分かっていた凛子は口ごもった。
凛子がなんて言おう、どんな表情をしよう、うだうだと悩んでいると、真人が横で鼻で嘲嗤うのが聞こえた。
「やっと出て行く気になったか、海軍の忠犬さんよ」
そういうと赤く爛れた舌を思いっきり出して中指を立てた。
「ま、まあまあ、真人さん落ち着いて」
凛子は愛想笑いと冷や汗を浮かべながら、真人の下品な左手を下げさせる。憎まれ口を叩けぬようにと夕食を口の中にぶっこんだ。だが、予期せぬ助っ人の登場で、この場は体よく逃げ切れることができ、内心安堵する。
そうして、コイツが原因なのか? 凛子の心のもやもやは依然晴らせないままだったが、真人が一因であるということで一旦着地したのだった。
いつものメイとの昼休み、キャンパス内のカフェテリアでも凛子のため息は止まらなかった。
「凛子ー、何だか知らないけどさ、すっごく気になっちゃうわ。何があったのか」
メイは大きな瞳をパチクリさせて見つめる。今日も目が冴え渡るほどの美貌である。
「居候の一人が出て行っちゃうって。しかも超意味ありげな感じで」
「え? 件の彼氏候補のお方が?」
「そっちじゃないよ」
メイの言い方が癪に障り、凛子は鼻に皺を寄せた。
しかも、「なーんだ」と言うと、まるで興味なし、と言った具合に足を組み直す始末である。凛子はさらに顔を歪ませた。
「あのねえ、凛子。“恋愛”って言うのは、タイミングが大切なの」
凛子は聞いたこともない二つの言葉の因果関係に、思わず首を傾げる。しかし、メイが言うと重い言葉のように聞こえた。
「いくら想いを寄せあっていようが、運命を感じた相手であろうが、関係ない。タイミングが合わない二人は、すれ違い続けるだけよ。ずーっとね」
優艶な微笑みを浮かべるメイを、凛子は怪訝そうに見つめ返し、ふーん、と凛子は相槌を打った。
だが、そのときはまだメイの真意が分からなかった。
凛子は研究室に戻ってからも、作業をしながら何度もメイの言葉を咀嚼していた。
「ちょっとー、椿木さん、血液塗抹ミスりすぎ!」
誰かがムッとした声で凛子を呼ぶ。だが一歩で凛子の方は、というとまるで上の空のようで、その叱咤は届いてはいなかった。
☆
凛子の兄が七冶の積み荷の手伝いに来た。五月蠅い奴が来たな、真人は心底思った。
そしてそのあと少し遅れて凛子が「ただいま」と何時もの様に敷居を跨ぐ。だが、妙だ。幾秒経っても七冶は顔を出さないのである。玄関口の直ぐ横の部屋で、荷造りをしている筈であるが。凛子の方も何か勘付いて居そうな状況であるが、そんなことは噯にも出さないと言った風につかつかと居間に入ってきた。
「おい、凛子。ありゃ何だ? なんであいつがお前の部屋を跋扈してんだよ。俺が用意したリードとかどうしたんだ」
そんな凛子に、裕翔はヒソヒソと声を潜めて耳打ちする。
「ああ、必要なくなったから」
凛子はピシャリと言い放つと、「ね、真人さん!」とこちらに向かって親指を立てる。
兄貴のお望み通り、ここで凛子の上に馬乗りになって服を引き裂いてやろうか? ふとそんなことを想い付きもしたが、先日の凛子の泣き顔を思い出すと、そんな気も直ぐに消え失せる。
裕翔の方は何か言いたげに身動ぎして此方を見たが、結局何も言わなかった。
荷造りを終えた様子の七冶が「お待たせ」と言って部屋に入って来る。
「俺、車出してきますね」
裕翔は意味有り気に凛子を一瞥すると、部屋を出て行った。
「凛子ちゃん、今日もお疲れ様。そして、今までお世話になったね」
和気藹々たる笑い顔を浮かべて七冶は言った。
「七冶さんがいなくなっちゃうなんて、何だかさみしいですね。広島と呉は一緒に行きましょうね!」
凛子も顔は笑っていたが、語尾が震えている。真人はその様子を前に、おいおい見ちゃいられねえ、とばかりに心がざわついたのだった。
「凛子ちゃんを頼むね、一応信頼はしてるけど」
そういうと、七冶は真人の肩をぽんと叩いた。はあ? と、口を開けると真人は中指を突き出した。
☆
玄関まで見送る凛子に「ここまででいいよ」と七冶が制した。
「また何かわかったら、ご連絡しますね!」
「ありがとう。これからも、ちゃんとご飯毎日食べてね」
凛子は手を振ると玄関の扉を閉めた。と同時に、目の奥でせき止めていた涙がポロリと零れ落ちた。グスッと鼻を啜る。約半年間の共同生活、なんとあっけない終わり方だったのだろう。
やっぱり追いかけてしまおうか、どうせ好意はバレている、一瞬そんな考えがよぎる。七冶ならば困ったように笑いながら、受け止めてくれるのではないか? そのような邪心が芽生えた。
しかしその時だった。
まだ未練がましく玄関の取っ手を掴む手を掴まれると、そのまま抱き寄せられたのだ。
「真人さっ――」
凛子が驚いて振りほどこうとする。到底そんな気分ではない、と手を払いのけようとした。
しかし、出会った時の満身創痍の状態とはまるで違う。真人の体は小柄な凛子がどう足掻こうとも、ビクともしなかった。
「何もしねえよ」
そう言うと乱暴に凛子の頭を胸に押し付ける。凛子は今まで聞いたこともないような真人の優しい声に驚き、動きを止めた。
それと同時に堰を切ったように涙が溢れ、赤子の様に泣き出した。
「私……、七冶さんのこと好きで、それで、七冶さんは凄く美代さんのこと大切に思ってらっしゃってたから――」
ぐすぐすと泣きながら凛子が話し始めるのを、真人は黙って聞いていた。「だから、私ちゃんと隠そうってしたんです。七冶さんだって迷惑だろうし……」と凛子は続ける。
「でも絶対バレてましたよね、あの感じ……。うえええええん――」
情けなくて、恥ずかしくて、悲しくて、凛子は再び大声で泣き始めた。凛子ではあの人の心を救うことは出来ない、出来るのはきっと――。
真人がギュッと左腕に力を込めるのを感じる。
「んなわけねえだろ、俺は今初めて知ったぜ。あんな色恋沙汰に無頓着そうなオッサンが気付くわけねえだろが」
真人が吐き捨てるように言った。凛子は果たしてそうだろうか、と懐疑的であったがコクコクと頷くと泣き止んだ。
「いいか、リン。お前は――」
真人はそう言いかけて、俯いて鼻水を啜る凛子の顎を支える。
(あ、待って今の顔は絶対に見られたくない……!)
「って、おい! きったねえもん見せんじゃねえ鼻垂れ女が!!」
真人の胸に張り付いている凛子を引き剝がすと、鼻水ももれなくついてきたものだから、久しぶりの悪態をついた。しかし、言葉とは裏腹に腹を抱えて笑っている。
凛子はあまりの醜態に居た堪れなくなり、どうしたらいいかわからず「見ないでぇ」と呻きながら、再び顔をうずめることしかできなかったのだった。
☆
「マジであの村形とかいうやつ、あのまま凛子のとこに置いてきて大丈夫なんすか? かといって男性恐怖症の節があるし、俺じゃ手に負えないすけどね」
「ああ、全然心配ないと思う。むしろ、男手があった方がいいかもしれない。僕ら二人だけこの時代に来たってことは考えにくいしね」
「あるっすねー、それ」
車中にて七冶は助手席に座り、裕翔と会話しながら、部屋を出た時のことを思い返していた。
ドアノブがガシャリと音を立てた刹那は、まさか追いかけてきたのか? と思い振り返った。しかし、暫くそこで待っても、凛子は追いかけては来なかった。代わりに凛子の声と、真人の声がかすかに聞こえるだけであった。会話の内容は聞こえなかった。
七冶は再び歩き出すと、もう振り返ることはなかった。思った通りだ、あの二人は大丈夫、そう思ったのだった。
目と鼻が繋がっていることをご存じの方は多いと思います。
泣くと鼻水が出るのは、実は誤りで、
鼻水だと思っているアレは涙なのです!!!!
妙にみずみずしいとは思いませんでしたか!?
なので女性の皆さん、
泣いていて抱きしめられたら思う存分ぬすくりつけましょう。
汚いと言われたら涙だ! と開き直りましょう!!!