陸:立つ鳥跡を濁さず
「サクちゃんが色々とお騒がせしてすみませんでした」
夕焼けの空、そしてその空に聳え立つ高層マンションとビルディングを背にし、凛子はえへへと笑った。彼女の表情は見えなかった。
何度見てもこの景色にはアッと驚かされる。まるで異国のようだ。
「そんなことないよ、素敵な友達だと思う」
そういいながら七冶は昨日の咲良の言葉を思い出していた。潮時かもしれない、そう思った。
「サクちゃんは、昔からめっちゃ強くて。気も強いけど腕っぷしも! 小学生の時は上級生の子からよくからかわれていた私の前に立ってぼっこぼこにしたり、私のクズな元カレにビンタかましたり……、あれはめっちゃ見ててすっきりしたなあ」
思い出し笑いをする凛子の横顔があまりにもあどけなく、そして煌めいて見える。目が離せない。
「七冶さんは、そういう人、いました?」
ひょこっと首を愛らしく傾げ、急にこちらに話題を振ってきた凛子に、七冶はふと我に返る。
「んー、妻かなあ……、なんちゃって」
答えてから、ベタすぎる返事かもしれない、と思いな直して頭を掻いた。しかし、凛子は続きを聞きたい! とでもいうかのように目を輝かせてこちらを見つめる。
「妻の美代とは、恋愛結婚だった。出会いは小学校の頃だったよ。初めて喋ったのは二年生の時、隣の席になった頃からかな。当時僕は不真面目でね、よく彼女に宿題写させて貰ったり、掃除当番代わって貰ったり……。とまあ、世話焼きさんだったよ」
「あはは! 美代さん、確かにサクちゃんに立ち位置似てるかも」
凛子の表情がまた、隠れる。読めない。どんな表情をしている?
「僕と美代が恋仲になった、そう感じたのは海軍兵学校を出てすぐ。彼女の家は良家だったから、お偉いさんからの縁談が来てたんだ。僕はそれが嫌で嫌でね、その時に気付いたんだ、この人が好きだって。それで、結婚を申し出て、第一子の千花が生まれたってわけ」
彼女の表情は依然見えない。だが、机に向かって勉強しているときの、そして真人の手当てをしているときの、あの真剣な眼差しで聞いているのだろう。そう、七冶は感じた。
凛子はうっとりした声音で、「素敵な関係ですね、いいなあ……――なぁ」と呟いた。最後に何か小さな声で続けたが、都会の喧騒に塗れ、七冶の耳には届かなかった。
「あ! 見てください、あれ」
凛子が手すり越しに、海を挟んで、ずっと向こうを走る新幹線を指さした。
「新幹線。広島市まで四時間で着きます。これが出来たのって、敗戦から九年のことだそうですよ」
七冶は思わず眼を大きくした。異国どころか、まるで異世界の話のように思えたからだ。
「そして、その年に、日本はオリンピックの開催地となっています。そこから高度経済成長期の始まりです」
そういって凛子は手すりに手をかけて、海を臨んだ。七冶もその横に並ぶ。
「高度経済成長期に、あの空飛ぶ大きな飛行機も、この超高層マンションも、いろんなものができました。そして、広島市も、放射能汚染で、何十年もきっと草木一本生えないだろう、そう当時の人は思っていたそうです。でも、今や大都市。草木もすぐに生えました。つまり、日本ってめちゃくちゃすごいんですよ。美代さんも千花さんも、きっと強く生きてらっしゃったと思います」
七冶は凛子の言葉に一縷の光を見た。そうか、日本は――。
「僕は、今まで後ろめたさを感じてた。僕は、零戦の話が出たとき、こんな作戦が成功するはずがないって分かってた。でも、止められなかった。殆どが敵戦に達することなく死ぬ。訓練中に死亡する事故も多かった。それなのに、上官たちはたった一度か二度、奇跡的に零戦が成果を上げただけで盛大に持ち上げた。心底怖かった。僕は腰抜けだった。そんなことは、到底出来なかった……」
七冶はそういうと、目を瞑る。自分より若く、未来ある海兵たちが笑って零戦に乗り込む姿を思い出す。つい最近のことなのに、何年も、何十年も遠く昔の出来事、いや、もはや夢だったのではないかとさえ感じる。
「僕は妻帯者だったから、特攻隊の対象者として外れていてね。卑怯にも、心底幸運だと思ってしまった」
「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う、失礼ですが、当時はそういう時代だったと。祖父からの話ですけどね。祖父も、特攻隊を希望し、海軍兵学校に行きましたが、途中で辞めて海軍軍医学校に行ったと言ってました。口には出さずとも、当時の肉薄攻撃や特攻兵器について疑問を抱いたり怖気づいてしまう人は大勢いたでしょう」
そういうと、凛子は七冶の顔を覗き込と、「見て」と周りを指さした。日は落ちて、夜の街に姿を変えた東京が広がる。まるで、有楽町で美代と見た、プラネタリウムのようだった。規模が規格外ではあるが。
「これが七冶さんたちが守った日本、東京ですよ」
そう笑う刹那、凛子と忘れもしない美代の笑い顔が重なり合った。
「凛子ちゃんは、似てる……美代に――」
七冶は思わず、そう呟いてからハッとした。凛子の顔を見ると、大きな目をさらにまん丸にして呆然としていた。
やけに海の波の音が聞こえる、嫌に街路灯が眩しい、そう感じた。
☆
その夜、凛子はソワソワと落ち着きなく、リビングを動き回った。洗い物をして、明日の準備をして――。しかし、心の中で、さっきの七冶の言葉、表情を何度も何度も思い返していた。
途端に、真人とバッチリ目が合ってふと我に返る。悪いことをしているわけでもないのに、さっと目を逸らしてしまう。真人は何も言ってこなかったが、久しぶりに真人の射貫くような視線が怖いと感じた夜だった。
「で、その後、ひどいPTSDはどんな感じよ」
メイがコーヒーカップを片手に、凛子に問いかける。
「え、うん。全然」
凛子は、真人に後ろめたさを感じて曖昧な返事をした。何故罪悪感を感じなくてはいけないのか、と昨晩から自問自答を繰り返している。
「まあ、確かにそうよね。依存性も強い薬多いから、安易に投薬できないし。やっぱさあ、精神療法が一番効くのよねえ」
そういうと、凛子に意味ありげ、といった視線を向けた。
「散歩とか?」
凛子の問いに、再び意味ありげにメイが頷く。
「行ってるみたいだけど……」
「ちがーう! アンタが連れっててやんのよ。――ったくもう」
メイがわざとらしく深々とため息をついて見せる。外見の良さも相まって、まるで女優さながらである。
一方で、凛子は「えー……、まじで?」と、さも不服そうに口を尖らせた。しかし、その表情の裏腹、拘束くらいは流石にそろそろ解いてあげようか、と思った。
☆
凛子がそろそろ帰ってくるだろう、といった時間、七冶も帰宅早々、支度のために台所につく。
「お前、この家にいつまで匿ってもらうつもりだ? 咲良とかいう女、明らかにお前に言ってたよな?」
なんと、真人が話しかけてきたのである。今まで二人でいる時間は割とあったが、まともに会話すらしたことなかったため、七冶は怯んだ。
「自分の立場はちゃんと弁えている。今週中には出て行く」
「リンの奴はどうするんだ? あいつはお前にお熱だぜ。泣いて追いかけるだろうな」
下卑た声で嗤うが、目は笑っていなかった。彼の試すような、刺すような視線が痛い。
「そうだね……。そうなるかもしれないね」
無意識に、俯いた。視線から逃れたかったのかもしれない。
「でも、その時は僕が――」
そう言いかけて、やめた。この男に言う必要はない、七冶はそう判断した。
「その時は何だよ? どうするってんだよ、ああ?」
眉を顰め、不快そうに吠える。その先の言葉を待つ真人を見て、七冶は全てを察した。そうか、コイツは――。
「知ってどうする? 君に言う必要はない」
いつになく挑発的に聞こえてしまったかもしれない、と後悔した。真人の方に目をやると、やはり堪えたようだった。
「お前、海軍のお偉いさんだったそうだな。でけえ空母に乗って、安全なところから指令出してよ――」
そこで、凛子が玄関先で「ただいま」というのが聞こえた。帰ってきたのだ。しかし、真人は止まらなかった。
「肉薄攻撃を迫られる俺ら下級兵士の命なんざ、ほんの紙切れ一枚としか思ってねえてめえに、何がわかるってんだよ!! 言ってみろよ!」
立ち上がり、さらに左手を大きく振ったせいで、カーテンのレールに鎖が当たって、ガチャガチャと音が鳴った。
何事か、と凛子が慌てて部屋に入ってくるのが見えた。
「待って、七冶さんは――」
凛子が興奮している真人の前に立ちはだかって制そうとした。
だが、言い終わらぬうちに「お前もだよ、リン!」と、凛子にも怒鳴り上げたのだ。
「身の上を心配する兄貴や友人がいて、家族もいる。学も金もあるお前が、何でも持っているお前が、何も持っちゃいない俺の……体すら欠けまくってる俺の、何が分かる!? 分かろうとすることすら烏滸がましいんだよ!!」
怒号を浴びせられ、激高する表情に七冶は気圧された。
しかし、何よりも驚いたのは凛子の反応だった。
「分からないけど……、でも、でも……、歩み寄ろうとするくらい別にいいじゃん……!」
凛子は泣いていたのだ。ポロポロと大粒の涙を流していた。あれだけ、真人に手厚い介護をしながら無碍にされ、揶揄われても泣かなかった。時に酷い嘲り文句やセクハラまがいな言動を受けたこともあった。それでも泣かなかった凛子が、今、泣いたのだ。
七冶だけではない。真人もハッとしていた。悔悟の情が浮かんでいる。
凛子は背負っていたバッグを真人に投げつけると、自室に籠ってしまったのであった。
場違いであるが、凛子の何とも気丈な姿に健気さを感じ、七冶は思わず笑ってしまった。
「凛子ちゃんには、何度ももうやめよう、追い出そう、そう言った。裕翔君も自分が引き取るか、と提案してきた。それでも、数か月、君に尽くした凛子ちゃんの気持ちはわかるだろう。毎日夜遅くまで、机について君の症例に関わる勉強をしているのも知っているだろう」
「……知ってるに決まってんだろ」
そういって、ガラにもなく肩を落とす真人の姿に、七冶は安堵した。
もういい、大丈夫だろう、と。そして、すぐにでもここを出よう、そう決心したのだった。
☆
昨晩は、自室で凛子は咽び泣いた。図星だったのだ。
やはりあの男の射るような視線に、浅ましい自分の心を見透かされていたのだ、凛子は自己嫌悪した。悩みと言えば進路、そして恋というまるで平凡な月並みの人生を送ってきた凛子に、明日、いや寸分先の命の保証さえない場所で生きてきた真人の心情など到底分かるはずもなかった。そう、分かってあげようとすることすら愚かなことだったのだ。七冶に対してもそうである。悦に浸っていたのかもしれない。そう思うと、恥ずかしくて、申しわけがなくて、そして自分の無力さが悔しくて仕方なかった。
凛子は、遺憾の念で涙が止まらなかったのだった。
今朝方、真人と顔を合わせることを考えると気が重かった。しかし、今後は自分の立場を弁えます、そう言ってちゃんと謝ろう、何度も頭の中でイメージトレーニングをした。
凛子は居間に入ると、七冶との挨拶もそこそこに真人の元に近づくと拘束を解いてあげる。そして、さもついで、といった具合に「あの、昨晩は――」と謝ろうとする。
しかし、真人はそれを遮ると、「悪かったな」と手早く言ったのだった。
凛子は何が起こったのかわからず、「え?」と、何とも間抜けに聞き返してしまった。
訳が分からず、七冶の方を向くと、笑っているではないか。
「二度は言わねえ」
フンっと鼻を鳴らすと、真人は照れ臭そうに目を逸らす。
謝られたんだ、そう解釈するのに凛子は時間が掛かってしまった。
そのせいで、研究室に行くまでの道中、どうしてもっと気の利いたことを言えなかったのか、と悶々と自戒するはめになってしまったのだった。
PTSDももちろんそうですが、
ちょっとネガティブだなーとか鬱っぽいなーと言った日が続く場合は
騙されたと思ってぜひ、
運動、日光を浴びる、生活リズムや食リズムを整えるっていうのをやってみてください。
こういう日って交感神経と副交感神経の拮抗のバランスが崩れているときなんです。
なので生活リズムを整えることで、日中は交感神経優位、寝るときは副交感神経優位に
ちゃんと戻すことができます。