伍:犬は三日飼えば三年恩を忘れない(後篇)
それからというもの、男の見透かしたような左目が怖くて仕方なかった。七冶への好意は知られているような気がした。
バラされたらどうしよう、変なこと言われたらどうしよう、と凛子は気が気でなかった。
しかし、凛子は今日もいつものように平然を装い、包帯を変える。ぐじゅぐじゅに膿んでいた顔の右側の傷も綺麗にケロイドを残し、治癒していた。なるべく男の顔は見ないように作業をする。
「今日は、機嫌わりいな」
黙ってやり過ごしたかった凛子の気持ちと反して、男は絡んでくる。
「そんなことないですけど」
凛子は口を尖らせるが、男は顔を覗いてまで確認してきた。
漆黒の隻眼が、何でもお見通しだ、という風に言っているような気がした。やけどでガサガサになった男の唇がにんやりと吊り上がった。
このようにいつもは強気に噛みつく猛犬さながらの男であったが、この日の夜は違った。
凛子はその日は珍しく眠れず、ベッドで大の字になり、咲良とLINEをしていた。眠れない夜に行ういつものルーティンである。
『じゃ、寝るわ』
という咲良からのメッセージが来て、凛子もおやすみなさい、のスタンプを返した。その時、隣のリビングで、微かに荒い息遣いが聞こえた。
そう、その苦しそうな吐息は初めてこの家にやってきたときと同じだった。
凛子は急いでリビングへの扉を開けて男の方に向かった。
「来なくて……いい。いつものことだ……」
凛子が保安灯を付けて駆け寄った時、男は壁に体を預け、息を整えているところだった。
発作は出ていないかった。だが、悪夢を見て発作が出かかったのかもしれない。不眠などの睡眠障害はPTSDの症状の内の一つだ。
「睡眠導入剤、要ります? 市販のなんで、効くかわかんないけど」
凛子も研究発表や試験前はよく眠れなくなることがよくあった。そのため、その時に使ったものの残りがあった。
「それ以上優しくするっつーんなら、覚悟しとけよ。女」
薬と水を手に取って近寄る凛子に、男が凄んだ。
この時はまだ、この言葉の意味が分からず、なんだ、いつもの軽口か、と解釈した。と、同時に、凛子は安心し、呆れた。見返りを求めているわけではなかったが、それにしてもこの一か月間でこの意味のないやり取りに飽き飽きしていた。
「じゃ、ここに置いときますから。飲みたければ飲んで」
凛子はムッとしてピシャリと言い放って自室に戻ろうとした。凛子は、何か言い返してくるかも、と身構えたが男は何もしてこなかったし言い返しても来なかった。
しかし、自室に戻った凛子はふと我に返り、罪悪感が沸々と湧いてくるのを感じた。
凛子はあの男について何もわからなかった。だが、想像を絶する生い立ちがあったことは間違いない。ここに来る直前だけではなく、もっとずっとずっと前から、悲痛な出来事を経験したのではないか、と。言動や思想、目つき、そして何より無数の体の古傷などから薄々感じていた。
そして、今晩の出来事である。男の口ぶりからして、あのようなことは凛子が知らないだけで以前から何度もあったのだろう。
リビングと凛子の寝室は扉を隔ててすぐ隣ではあるが、寝ていたらまず気付かなかった。毎晩のように隣で一人苦しむ男を看過していたのだ、そう思うと何とも居た堪れない気持ちになった。
凛子はiPadを掴むと、いそいそと男のもとに戻っていった。
「何しに戻ってきた」
凛子は男と同じように壁に背をもたれて、横に腰を下ろすと、唸るように声を掛けられる。
「そういえば私の名前、言ってなかったなあって」
そういうと、iPadをお絵描きモードに操作する。そして、タッチペンで『椿木凛子』と振り仮名もつけて、大きく書いた。
凛子は「これ、私の名前です」と言って、差し出す。男が一瞬大きく目を見開くのが横から見て取れた。iPadを指でなぞったり引っ搔いたりしながら「リン……」と呟く。
「悪くねえな」
そういって笑った。あまりに自然に笑うので、凛子はこれが初めて優しく笑いかけられたのだという事実に気づかないほどだった。
「えへへ。そういえばおじいちゃんからも、リンって呼ばれます」
凛子は彼の思ってもみなかった反応に、照れを隠せなかった。
「あなたのお名前は?」
凛子はタッチペンを左手に持たせると、iPadを両手で支えてあげた。ダメで元々の試みだったが、なんと男は不器用にタッチペンを持つと、ゆっくりと書き始めた。
『村形真人』
書き終わったページには、そう書いてあった。
「真人さん。悪くないですね」
凛子も真人と同じように言って、ニコニコと笑った。名前を教えてもらえただけなのに、あまりにも嬉しくて、機嫌がよくなった凛子はiPadでお絵描きをし始めた。
「こういうこともできるんですよ」
太色ペンや太ペンをうまく使い分けながら、凛子は絵を描き終えた。
「何だ? 犬か?」
真人は描き終えたのを上から見下ろしている。
「そうです! チワワ!」
凛子はそういうと、ネットでチワワと調べて写真を出すと、見比べてもらう。
「似てません?」
「ああ、似てんな」
「違いますよ。真人さんに、ですよ」
そういって、ケラケラと笑った。しかし、途中で、しまった、と思い口を噤む。
だが、凛子の予想に反して、真人は一瞬面食らった表情をした後に「それも悪くねえな」と言って笑ったのだった。
それからというもの、凛子は毎晩、とはまでは言わないが、たまに夜中にiPadを持ってきては、真人の横に座って話し込んだ。
真人は自分の生まれは東京であること、歳は二十八で凛子の兄と同じであること、そして驚いたのは一九〇センチも身長があることだった。大きいと思っていたが、立ち姿はほとんど見たことがなかったからだ。たしかに、凛子がいない間、七冶が真人を外に連れ出していたようだが、大きすぎて異様な雰囲気と相まって目立つと言っていた気がした。
しかし、その生い立ちや戦場での話、家族の話などには未だ触れていなかった。凛子が聞かなかったから、答えなかったのかもしれないが。
真人のことがもっと知りたかったのも事実だが、凛子は自身がこの時間を楽しんでいるのも確かだった。実際、ほとんどの時間を凛子が自分自身の話をするのに費やしていたのだった。
☆
「アンダードッグ効果かも」
凛子のマンションからほど近くの居酒屋で、凛子はそういうとため息をついた。
「突然何の話よ」
「めっちゃでかくて、目つき悪くてね。んで、人何人か殺してそうな人なんだけど、たまに弱ったところを見せてくるの。でも、精神疾患もあるし、利き腕がないから介護が今後必要そうな男の人の話」
凛子は持ち前の甲高い声で早口で捲し立てた。咲良に止めてほしそうな雰囲気が丸わかりだった。
「既婚者よりまし」
だがしかし、咲良はピシャリと言い放ったのである。
鳩が豆鉄砲を食ったように、大きな目をパチクリさせて凛子が驚いている。ほらね、と咲良は心の中で笑った。
「で、既婚者とはどうなったわけ?」
「え? いるよ、家に」
「ちょっと待って、どういうことよ。そのめっちゃでかい人は何の人なのよ」
「えーっと、その人も家にいる」
凛子があまりにも平然と答えるものだから、咲良は余計に混乱した。てっきり彼氏か何かだと思っていたからだ。
「わかったわ。今日は時間あるし、凛子の家に行くわ」
凛子が過去三人の馬鹿な男どもに騙されて、失恋した後に咲良によく泣きついていたのを思い出すと、未だに怒りで手が震える。
前々から話があるからうちに来て、とはちょくちょく言われていた。今晩がいい機会だろう。
凛子をちらりと見ると、なぜか、目を輝かせていた。
マンションへ行く途中、凛子はここ二ヶ月ほどであったという、まるで絵空事のような出来事を上機嫌に話した。
「――んでね、そういうわけでタイムスリップしたっぽいからとりあえず、現世になれる間、家にいてもらってるって感じなの」
咲良はふーんと適当に相槌を打っちゃいるが、なかなか話が入ってこなかった。聞きたいことや突っ込みたいことはたくさんあったが、とりあえず会ってみてからにしようと思った。
「ただいまー」
凛子が先頭に、玄関を開けるとすぐに非常に感じのいい男が出てきた。この人が例の既婚者の方だ、と咲良はすぐに分かった。
「おかえりー、凛子ちゃん」
そういって二人を出迎えると、すぐに咲良に気づき、にこやかに会釈する。
「例のお友達の咲良さんだね」
咲良は、想像の数倍印象の良い七冶に驚きながら、「夜分遅くに失礼いたします」と頭を下げ返した。
リビングに入るとさらに驚いた。
何と、例の大男の方は拘束されているではないか。しかもなぜか大型犬用のリードと首輪で! さらに、風貌も異様だった。凛子の言った通り、片腕はなかった。そして、左目と口元以外包帯でぐるぐる巻きにされていた。
成敗した凛子の元カレの中には、半グレもいたし、元カレは暴力団とズブズブだった。怖い男はたくさん見てきたはずだった。しかし、真正面で立膝を付き、メンチ切っている隻眼の男を前にして、咲良は冷や汗が止まらなかった。
「凛子、あの人ちょっと怖いんだけど……」と凛子にこそこそと耳打ちする。
リビングの手前で入りづらそうにもじもじする咲良の気持ちを察し、凛子は先にリビングに入ると、真人の横で膝をついた。
「私の幼馴染のサクちゃんです。サクちゃんは今の天皇の第一皇女なんですよ!」
そういって紹介すると、大男は「へえ」と言ってこちらに目を向けた。
「そういうわけで、こんな怪しい格好をしているわけです」
凛子がふふっと笑った。そこで初めて、自分が大きめのサングラスと、パーカーのフードを深く被っていたのに気付き、慌てて外す。どおりでジロジロと見られるわけだ
真人の方は、想像の数倍怖かった。だが、凛子と話すときの様子や、二人のやり取りを見ると、何の心配もいらないように感じた。
「サクちゃん、こちらが真人さん! んで後ろの方が、七冶さんだよ」と、凛子が紹介する。
咲良はもう空前絶後の絵空事を信じるしかなかった。凛子はつまらない嘘をつく子じゃない。
(だとしたら、もう私はこれしかすることはない……)
咲良は荷物をボンっと捨てると、リビングに入った。真人と七冶に顔が見える位置につく。すると、床に両手を付けると、額が床につくほど頭を下げたのだ。
「昭和天皇の愚行、私がここで代表し、お詫びします。私たちは幼少のころから、第二次世界大戦の話は何度も何度も習教えを受けました。当時の天皇は政治家や軍人に輔弼、帷幄上奏されるがまま、勝てぬ戦争に三百万人以上もの命を懸けました。そして、降伏を求める上奏文も破棄していたと聞きます。現在は、我々皇族には一切政治的権力がありません。そして、あくまでも国民の象徴――」
「ちょ、サクちゃんどうしたの!? やめなよ! サクちゃんが謝ることないって」
慌てて凛子が止めに入る。七冶も驚いた様子で凛子とともに咲良を立たせる。
凛子の言葉に「うん、咲良さんは何も悪くないよ」というと頷いた。
「でも、こうするしか思いつかなくて。何年か目に、オバマさんだって広島の人たちに謝ってたじゃん……」
咲良がそういうと、パッと七冶が顔を上げた。
「広島がどうかしたの?」
七冶が凛子と咲良を交互に見た。
「言ってないの?」
コクリと頷く凛子を見て、即座に咲良はマズった、と思った。きっと七冶にとって地元か、あるいは何らかのゆかりのある土地だったのだろう。
それから咲良たちは、広島と長崎に原子爆弾が落とされたこと、そしてそれからすぐに日本が降伏したこと、原子爆弾の被ばくに今も苦しむ被災者がいること、最後に数年前アメリカの大統領が代表して広島に謝罪したことを話した。
「驚いたねえ……」
「七冶さんは、広島市出身でしたっけ」
凛子は伏し目がちに聞いた。
「うん、実家が広島市で、両親と弟が二人。娘と妻とは呉市で暮らしていた」
「呉かあ。ちょっと待ってくださいね」というと、咲良は誰かに連絡し始めた。ああね、といった具合に凛子もニヤッと笑う。
しかし、淡い期待をさせてはだめだ、かえって七冶が傷つくだろう。おそらくご家族はもろ被災している。それに妻子は運よく被災していなくとも、もう亡くなっている可能性も極めて高いからだ。
「七冶さん、大丈夫ですか? もし、七冶さんの気持ちが落ち着いたら、広島市と呉市に行ってみましょう」
凛子は俯いて頭の整理をしている七冶に呼びかけると、七冶はハッと顔を上げて大きく頷いた。
「でも、はっきり言って生きている娘さんに会える可能性は極めて低いです。お墓や旧家が見つかればよし、程度に思ってほしいです。私たちも全力で協力いたします」
咲良はハキハキと言い放った。
帰り際、七冶は何度も何度も頭を下げた。
「ありがとう、凛子ちゃん、咲良さん。本当にありがとう――」
今思えば、七冶は泣いていたように思う。だが、咲良は最後に大切なことを言い忘れていたのを思い出し、再び頭を下げた。
「凛子は、御覧の通り優しいですが抜けている子です。自分が罵られていても、馬鹿にされていても『今日の晩御飯は何かな』と考えてるタイプの子です。何度も何度も友人関係や男性関係に泣かされてきました。どうか、凛子が幸せになる選択をしてほしい。そして、凛子自身を見てあげてください」
七冶がピクリと反応したのを咲良は見逃さなかった。そう、七冶に向けていった、いわば牽制である。しかし、七冶はきっと凛子のために正しい選択をするだろう、咲良はそう確信していた。だからこそ、の言葉であった。
「さ、サクちゃん恥ずかしいってばー」
何も気づいてない凛子だけが、アハハ、と笑いながら、そそくさと咲良の背中を押して、退場させた。
やけどの場合、ほとんどが細菌感染します。
やけどの治療で厄介なのはこの感染治療です。
あまりにひどい場合は抗生剤などを使うのかもしれませんが、
多くの場合はとりあえず患部を清潔に保つことに全振りします。が、これが一番だるい。
凛子ちゃんの様に毎日毎日包帯やガーゼを変えたり、消毒を行います。
少しでもさぼるとまたぶり返しちゃうし、痕も残ってしまいやすい。
やけどに限らず、患部を清潔に保つことはたとえ小さな切り傷でも大切なことです。
意外と小さな切り傷や擦り傷から細菌が入って、高熱が出たり、大きな傷になったり、はたまた死んだりします。
消毒大事、ガーゼや包帯の取り換え大事!