壱:犬一台に狸一匹
人は恐怖と対峙したときに、その恐怖に対してどう行動するだろうか。逃げる? 叫ぶ? あるいは、戦う?
深夜、研究室から疲れ果てて自室のリビングを開けた凛子は、まさに恐怖と対峙していた。
知らない匂い、知らない男、開けた覚えのないベランダのカーテン。何年も住んでいる自室がまるで知らない空間に見えた。
そして、凛子もまた、例に漏れずその場から逃げ出した。いや、逃げ出そうとは、した。
しかし、実際には、振り返って玄関の方に向かう途中に大きく転倒。床に散らばった電源コードに足をとられたのである。
ゴチーーーーン!!!!
ドアノブに頭を殴打し、あろうことか侵入者の目の前で気絶してしまった。
男は嵐のような出来事に目を丸くしながらゆっくり立ち上がる。暫く動かずに反応を待つ。そしてまたゆっくりと凛子に近づいた。
「お嬢さん?」
躊躇いがちに軽く肩を揺さぶるが反応がない。そして脳震盪を起こし、気を失っているのを認める。薄く伸びた無精ひげを手でなぞりながらため息をついた。
「女の子の一人暮らしの家だったとは。まいったな、こりゃ――」
凛子は気づくとベッドにいた。そして、隣にはあの男だった。それと目が合って、凛子ははっと息をのんで起き上がろうとする。
しかし、同時に目がくらむような吐き気を催しえずいてしまった。
それに気づいた男はすかさずポリ袋を差し出し、凛子は嘔吐した。あ、これうちんちのやつだ……、とぼんやりと凛子は思った。
「……ありがとうございます、えーっと――」
お礼するべきか迷い、そして続ける言葉にも迷う。
誰、どこの人、なぜ助けてくれるの、なぜここにいるの……。しかも、嘔吐まで見られる始末である!
「ほんとうにすまない、僕もこんな風にするつもりじゃなくてね。何でも聞いてくれ。正直に答えるから」
戸惑う凛子の心を見透かすように男が危害は加えない、とでもいうように両手を上げた。
凛子はまじまじと彼を見つめた。疲れたように笑う目には疲れとクマが浮かんでいる。
「えーっと、じゃあお名前は?」
「京極七冶だ、よろしく」
そういって七冶は、自分の手のひらに漢字で名前をゆっくりと書いた。大きなごつごつとした手に凛子はドキッとする。
「七冶さんはどこからきたんですか?」
その質問を聞いて七冶は眉を顰める。
「ん-、過去、からかなあ……」
といいながら、困ったように顎をなぞる。「なんてね、信じてもらえるかな?」と照れ臭そうに続けた。
「どういうことですか?」
思ってもみなかった答えに、思わず、今度は凛子が辟易した。「これを見て思ったんだ」と七冶が指をさす先に、四月で止まったカレンダーがあった。
「ここに二〇二一年ってかいてあったからね。それにしても四月なのにここは寒いんだねぇ」
「ち、違うんです! 私がカレンダーめくるの忘れちゃって。今は本当は12月です!」
思わず声が上ずった。
なるほどね、と言って彼は笑った。笑うと浮かぶえくぼや、細めた目じりが悪い人には見えない。凛子は、この時点でもう完全に警戒心を解いていた。
「あの、ほんとなんですか? 過去から来たって……」
「そうみたいだね、どうも。僕も困惑してるよ」
心底参った、といった具合に肩をすくめる。
「この軍服も本物なんですか?」と、男の服を指さし、今の日本ではコスプレか映画撮影でしか見ないような服装について言及した。確かに、映画や教科書で見るものとよく似ていた。
「はは、そりゃあね。見てみる?」と問われ、凛子はこくりとうなずく。七冶は上着を脱いで、傍らに置いてあった軍帽とともに渡した。
「す、すご……!」と思わず、声がでる。コスプレやレプリカでは出せないような使用感がリアルさを醸し出していたのだ。軍帽の鍔の傷、襟元や袖元の色褪せ、ボタンのほつれ……。
「これ、本物だったら本当にすごいですね……!」
さっきのやり取りを完全に忘れてきらきら目を輝かせる凛子に、「あはは確かにそうだね」と困惑した表情で七冶が笑う。
「向こうでは何日の記憶が最後ですか?」
「一九四四年十月二十六日。神風特攻隊がフィリピン海域で敵船の空母を爆破し、成果を上げた報告があったのをよく覚えてるよ。初めての成果だったんでね」
一九四四という数字、神風、空母、爆破……と重々しい言葉が羅列し、タイムリープ説が色濃くなる。
「続けて質問なんですけど、向こうでは何をされていたんですか?」
「海軍大尉だった。その前は建築関係の仕事をやっていたよ」
「家族構成は?」
「妻、〇歳の娘を置いてきてる」
矢継ぎ早な質問に七冶は違和感なく答えていく。
凛子も手元のスマホで、「一九九四年……フィリピン攻撃、大尉……」と呟きながらググる。そして、えっと、大尉って上から何番目だっけ……。と宙をで数えていく。
「な! 特務士官ってやつですよね! 大尉ってめちゃくちゃ偉い人じゃないですか!!」
凛子は思わず声を上げ、スマホから顔を上げて七冶の顔を見る。
七冶はまた困ったように笑った。
「そうでもないよ、権限は何も持ってないから。実際、何人も自分より若い子たちを殺しちゃってる」
七冶の顔から先ほどに気さくな笑みがふと消える。そして、消え入りそうな声で「自分も行けばよかったんだけど……」と、つぶやいた。
誰かを憂う七冶を凛子はじっと見つめる。
焦げ茶色髪の毛は仄かにウェーブがかかっており、清楚な顔立ちである。歳は三十代半ばぐらいだろうか? 現代では誰もが使うような制汗剤やワックスの使用感が全く見られないのが、何とも本当らしく感じる。
その哀しく笑う彼の姿を見て、凛子は何か役に立ちたいと思った。
「わかりました! むっちゃくちゃな話ですけど、信じます、私。七冶さんは質問ありますか?」
職業聞いたり家族構成聞いたり、精神科の診察か?と凛子はふと思う。
んー、と七冶は唸る。聞きたいことはきっと山ほどあるに違いない。しかし、何から聞いたらいいか困っているようであった。
「日本は、勝ったのかい?」
えーっと……、凛子は口を噤む。
「残念ながら。日本は降伏しています……。一九四五年九月二日のことです」
なんとなく、長崎と広島に恐ろしい新型兵器、原子力爆弾が落とされたことは言えなかった。後々落ち着いたら言おう、凛子はそう思った。
「そっか、まっそうだよねー」と天を仰ぎ、脱力した。
「ところでさ、お嬢さんは看護婦さんか何かかい? 医学系の本がたくさんあるね」
七冶は部屋を見渡しながら言った。
「医師です! っていっても、医師免許持ってるだけなんですけどね」
進路が決まらずとりあえず院進しました、なんて説明できず、えへへと照れ臭そうに笑った。
「それと、今は看護“婦”、じゃなくて、看護”師”って言うんですよ。女の人が男の人の仕事したり、男の人が女の人の仕事したり……。就職に性差がなくなってきたんで、今じゃ女性の医師もゴロゴロいます!」
へー、と七冶は大きくうなずいた。
「日本は、負けてよかったのかもしれないね」
満足そうな笑みを浮かべて言った。
☆
その晩、凛子と名乗るまだあどけなさが仕草に残る女性は、喋り続けた。
天皇は国の政治に関与せず象徴となったこと、敗戦国であるが国は豊かになったこと、敵国とも友好関係にあり人々が往来していること……。
七冶は相槌を打ちながら、そして時折質問をしながら現世の情勢を把握した。
凛子はひとしきり話すと、やがて眠そうに目をこすりながら「さっき、お手伝いに兄を呼びましたんで」と、神器“スマホ”なるものを手で掲げながら言った。
「三分だけ寝ます! ごめんなさい!」
そういうと横になってすぐに大きな寝息を立て始めた。見知らぬ男を前にして数秒で寝るとは、本当に時代は変わったんだと七冶はしみじみと感じた。
スースーと穏やかな寝息を立てる年ごろの娘を見て、七冶は自分の娘、千花のことを考えていた。
千花ーー彼女が生まれ落ちたとき、まるで七冶のまわりで千の花が一斉に芽吹くような思いがしたことから、彼自身が命名した。
娘はどんな人生を歩んでいたのか、妻はどんな気持ちで家を守ったのだろうか。遅くなる前に帰ってくるよ、と、別れを交わしたのはつい先刻のようなことなのに、切なさに全身が軋んだ。
見渡す寝室は真っ白な壁、床、天井に最低限の家具も白を基調としているため、内地勤務をしていた時の医務室を連想させた。そして、七冶が迷い込んた居間らしき部屋も、同じ雰囲気であったため、七冶は男性の部屋であると早合点してしまったのだ。
しかし、人懐っこく笑うところや、時折見せる“スマホ”や七冶に向ける真剣なまなざしは、七冶の心を着実に掴んで離さなかった。
「ここでほんの少しだけ、お世話になるよ。凛子ちゃん」
眠る凛子に向かい、静かにそう告げた。
脳震盪は一過性の意識障害で、一時的にめまいやそれに伴う吐き気・頭痛を引き起こします。
しかし、頭蓋内出血を起こしている可能性もあるので脳震盪を起こしたら必ず検査のために病院へ!
さらに脳震盪は脱臼などと似ていて癖になることがあります。
スポーツなどをしている人は何度も起こさないように気つけましょう。