疑惑
「ねえ兄様。レイ様って何者なの」
ソファに座ってくつろぐオンラードは、ちょうどフローラの焼いたチョコレートケーキをかじろうとするところであった。傍らでは、ベルデが満足そうに寄り添っている。
フローラは、レイについて何も知らなかったことに気が付いた。
彼は兄オンラードの同級生、クラスメイト。座学も実技もトップの成績をとり、容姿がいいので女子に人気がある。そして神出鬼没にフローラの元へ現れる……フローラが知るのは、そんなところだ。
「何者って……レイはレイだろ。パーフェクト人間、レイ・クレシエンテ様だよ」
「どこに住んでるとか、ご両親は何してる人なのかとか、知らないの?」
「知らねえ」
「いつも兄様が転移魔法でレイ様を送っていくじゃないの。あれ、どこへ送ってるの?」
「あいつが学園に戻ればいいっていうから、学園前だよ。なに、お前レイに興味あんの」
あんなに目立つ存在でファンもいるくらいの男なのに、彼は秘密主義のようだった。レイがどこから通っているのか、卒業後の進路など、知る人は誰もいなかった。比較的仲が良いと思われるオンラードさえも。
「レイに聞けば教えてくれるんじゃねえの。お前、あいつから気に入られてるだろ」
「……聞けないわよ」
もしかしたら、彼に直接聞けば素性を教えてくれるかもしれない。
でもそれがもし、フローラの『疑惑』通りだとしたら? 知りたいけれど彼の口から聞いてはならない、そんな警鐘が鳴っていた。
「そもそも、なんで兄様とレイ様は仲が良いの? 全然タイプ違うじゃない」
「あいつから話しかけてくるんだよ。俺もお前と同じ、珍獣枠だよ」
「納得だわ……。でも、以前いきなり家に呼んだことがあったでしょ。あれは?」
「レイからはずっと俺ん家に来てみたいって言われてて……別に面白くもねえ普通の家だって言ったんだけどな」
……なるほど。それでオンラードは「妹もレイを『見てみたい』と言っていたことだし」と、彼を連れて帰ってきたということか。
ある日突然うちに来たのは、レイが望んだことだった。フローラの中の『疑惑』が、一層深まってしまった。
「俺らもあいつん家聞いて行ってみるか! 案外、普通に家の中入れてくれるかも」
「だ、だめ!」
自分から思った以上に大きな声が出て驚いた。オンラードも目を丸くしている。
「びっくりした、なんで駄目なんだよ」
「だって……」
だってレイの家は、もしかしたら……
『城』かもしれないじゃないか────
二回目の実力試験が終わったあとも、レイはコバルディア家へやって来た。彼は、フローラを引き続き一位の座に居座らせるつもりのようだった。
「私、もう一位じゃなくてもいいんですけど……」
「私はフローラを一位にしたいのです。さあ、勉強しましょう」
テーブルの上には、いつものようにどっさりと参考書が積まれた。ぱらりとめくると、レイの綺麗な字で要所要所に書き込みがされてある。
「これ……レイ様もこの参考書で勉強されてたのですか」
「はい。このままの方が分かりやすいので、そのままお持ちしました」
「レイ様も陰で努力されてるんですね……」
なんとなく、レイという人は何もせずとも何でも出来てしまう人間なのかと思っていた。いつも飄々としていて、努力の部分を見せないから。
「私など、倍は努力しないとあなた方に敵いませんよ」
「そんな、何を仰るんですか」
「本当のことですよ。こんな私でも一位になれるのです。だから、さあ。勉強しましょう」
レイは眼鏡を光らせ、テーブルの傍らに立った。『フローラを一位に』という拘りを捨てるつもりは無いらしい。フローラは諦めてノートを広げ、次回の試験に向けてひたすら問題をこなすのだった。
問題を解き続けて数時間。
窓から射し込む光が夕焼け色になった。そろそろレイが帰る時間だ。オンラードは疲れ果てて机に突っ伏している。
今日、フローラはあることを計画している。彼女はウィッグと眼鏡を装着すると、意を決して立ち上がった。
「フローラ? どうされたのですか」
「ええと……今日は、私がレイ様を送ることにします。いいですよね?」
「構いませんが。オンラード、私はフローラと帰りますよ?」
オンラードは顔も上げぬまま手を振った。もう顔を上げる元気も無い様子だ。
それを合図に、フローラはレイのひんやりとした手を取った。
「じゃあ……レイ様、いきますよ」
「はい」
フローラが魔力をこめると、白く目映い光が二人を包んだ。光と共にふわりと浮かび上がり、二人はコバルディア家を後にしたと思うと……
次の瞬間、頬に風が触れる。
目を開けるとそこは学園。フローラとレイは、学園の前へふわりと降り立った。
「ありがとうございました。いつ見てもあなた方の転移魔法は素晴らしい」
「いえ、そんなことは……ところで、これからレイ様はどうやってお帰りに?」
いきなりの質問に、レイがきょとんとしている。しまった、聞き方が唐突過ぎただろうか。思わず、目が泳いでしまう。
「……いつもは、あの馬車で帰っていますが」
レイは、門の前で停車している馬車を指差した。馬車はいつもこの時間に迎えに来ているようだった。とりあえず、見た感じは普通の馬車でホッと胸を撫で下ろした。ばっちり紋章入りの馬車などであったら、どうしようかと……
「ですが、今日は歩いて帰りましょう」
「えっ、あの馬車はどうされるのですか」
「歩いて帰ると伝えてきましょう」
そう言ってレイは馬車まで向かうと、本当に馬車を帰してしまった。残されたのはフローラとレイ、二人きり。
「さあ、フローラ。行きましょう」
「私もですか!?」
「だって、あなたは私の後をつけようとしていたのでは無いのですか?」
「えっ……」
ばれている。
レイは面白そうにフローラを見下ろした。
「私を尾行するフローラを見るのも楽しそうだとは思うんですが、こんな夕暮れをあなた一人きりで歩かせるのも危ないので」
「なぜ……なぜ、分かったのですか」
「不自然過ぎますよ」
フッと笑うと、レイがゆっくりと歩き出した。仕方なく、フローラも隣を歩く。
学園からのびる道は、ほどほどに人通りもあった。仕事帰りの男性。買い物中の親子連れ。その中に二人も溶け込み、橙色の街を歩く。夕暮れの街を歩いたことの無いフローラには、それがとても新鮮に映った。
彼をチラリと見上げると、レイがまだ笑っている。間抜けすぎるフローラがそんなにおかしいのだろうか。悔しい。
「そんなに私がおかしいですか」
「いえ、嬉しくて笑っていました」
「嬉しい?」
「あなたとこんなふうに歩ける日が来るなんて」
眼鏡の奥、レイの瞳が、優しくフローラを見つめた。彼はこんな表情もできるのか……その柔らかい表情は、まさに今フローラへ向けられている。
「私の素性に、興味を持ってくれたのでしょう? それも嬉しくて」
「嬉しいですか……? 後をつけるだなんて、迷惑そのものでは」
「フローラにされて迷惑なことなど、ありませんよ」
(へ、変な人)
一緒に歩いているだけなのに、嬉しいだなんて。尾行されそうになって、嬉しいだなんて。
変な人、変な人…………
フローラは彼の隣を歩きながら、頭の中で延々と唱え続けた。そうでもしないと……いつもと少し違うレイの雰囲気に、自我が保てなくなりそうだから。
「このまま家にもご招待したいくらいですが……フローラはもう、この辺りで帰った方が良いのでは?」
気が付くと、ずいぶん歩いてきたようだった。
辺りを見渡せば騎士団本部や王立図書館、中央公園など……王国の機関がずらりと並ぶ通りに入っていた。住宅街とは遠く離れ、騎士団本部の向こうにそびえるのは……
王国を象徴するマルフィール城だ。
「こんな場所に……レイ様のご自宅があるのですか」
「はい」
(これは、もう……)
「どうしますか? うちは、歓迎しますが」
「……いえ、そろそろ帰ります」
「そうですか。それでは、また」
レイはそっとフローラの手をとり、指先へそっと唇を落とした。少しからかうような彼の目が、フローラを見下ろしている。
この人は。
理屈っぽくて、お節介で、親切な……フローラの正体を知っているこの人は────
フローラは指先から痺れてしまったように動けなくなった。
日が落ちた薄闇の中で、街灯の灯りが二人をひっそりと照らしていた。
誤字報告ありがとうございました!
助かりました.*・゜ .゜・*.