神官長の部屋
神官長の寝室は、こぢんまりとした、飾り気のない部屋だった。
仕事用に備え付けられたデスクに、小さなランプ。ベッド脇のサイドテーブルには、昨日使ったと思われる水さしが置かれたままだ。
自分に用意された部屋とは全く違う、質素でシンプルな神官長の部屋。思いがけず慎ましい暮らしに、彼の人となりが見えてくるようだった。
ベッドには、青い顔をした神官長・サビオが横たわっている。
拝殿で倒れた彼はその場でフローラに治癒魔法をかけられ、エラディオの手によって寝室まで運ばれた。今は静かに寝息を立てている。
「神官達に聞いたところ、このところサビオ様は少々過労気味だったようなのですよね……」
カロンは心配げな表情で、寝そべるサビオを見下ろした。
彼はずっと、聖女フローラが来ることを心待ちにして、その準備に勤しんでいたらしい。普段の業務に加えて、神殿の整備や神官達の配置。さらには事務仕事まで、自らが執り行っていたようだった。
(サビオ様……)
フローラは、白髪頭の神官長を見つめると、胸が痛んだ。
初めて顔を合わせた時の、彼の顔を思い出す。フローラを見た瞬間、目に涙をにじませて、側まで駆け寄ってきてくれた。その声は、喜びで震えていて──
「ご高齢ですし、無理が祟ったのでしょう」
「カロン様……」
「心配でしょうけれど、フローラ様が責任を感じることはありません」
胸を痛めるフローラを見かねて、カロンはフォローしてくれるけれど。
フローラ達が、大神殿に滞在するのもあとわずか。もうすぐマルフィール王国へ帰る日を迎えてしまう。目の前で、神官長が伏せたままであるというのに。
チラリと隣を見上げると、レイも心配げな表情で神官長を見下ろしていた。
そもそも、大神殿への訪問は、レイのスケジュールに合わせたものだった。フローラとカロンだけで大神殿へと向かわせるのは心配だからと、彼は半ば無理矢理に同行してくれたのだ。多忙なレイには、マルフィール王国に帰ってから怒涛のように仕事の予定が待ちうけている。それを考えれば、予定以上の滞在も難しい。
隣からの視線に気づいたレイは、わずかに思案した後、フローラに問いかける。
「……フローラはどうしますか」
「え?」
「私は、どうしても帰国しなくてはなりませんが……あなたは、あなたの思うようにしたらいい」
レイからの予期せぬ言葉に、フローラは言葉を失った。
「思うように……?」
「そうです」
「私は……」
フローラは、サビオが心配だ。
彼は急に、バタリと倒れた。フローラの治癒魔法をもってしても、いまだ目が覚めることはない。できることなら、完治するまで癒やしたい。青い顔をした神官長を置いたまま帰国するなど、身が引き裂かれるようで。
「彼のことを放っておけないのでしょう」
「……なぜ分かるのですか」
「フローラのことだから、きっとそうだと」
レイはとっくに、フローラの気持ちなどお見通しのようだった。フローラは日頃から、目の前の人間を無視することが出来ない。そのため、これまでの彼女を見ていれば想像されることではあるのだが。
けれど、レイは急にどうしてしまったのだろうか。フローラが大神殿に行くことを、あんなにも反対していた人なのに。
「私は、フローラの邪魔になりたくない」
「え?」
「フローラを見守ると決めていたのに……あなたを阻む男に成り下がるのは、もう止めたいと思うのです」
フローラは、『聖女』として皆の前に立った。その姿は、まるで人間離れした神々しさで。
けれど、レイには分かった。戸惑いの中で、フローラが大神殿への期待に応えようとしていたことを。
『聖女』として羽ばたくフローラを、自分勝手な独占欲で縛り付けてよいものだろうか。心配と言って、嫉妬にかられて、彼女をこの手に引き止めて──それがフローラを足を引っ張ることにならないだろうか。そんな想いが、ずっと彼の心には居座り続けていて。
「フローラのすべてを、信じたい」
「レイ様……」
「そしてまた、私のところへ帰ってきてくれますか」
レイが、フローラの手を握りしめた。いつもの、冷たいレイの手だ。どれほど助けられたか分からない──大好きな人の手だ。
「なにを仰るのですかレイ様……当たり前でしょう」
フローラが少し怒ってみせると、レイは眉を下げてゆるく微笑む。
目と目が合えば、たちまち二人の胸は満たされた。
「好きです、レイ様」
「私もですよ、フローラ」
自分のことを、信じてくれようとする彼の気持ちが嬉しくて。
フローラはそれだけでなにもかもが強くなれたような気がした。




