かつての、聖女のように
フローラは、雨の音で目が覚めた。
格子窓を見ればガラスを雨粒が流れ落ち、その窓越しに見上げた空は、灰色の雲に覆われている。
けれど、そんな天気に反して、フローラの心は不思議とスッキリと晴れ渡っているようだった。
昨日はエラディオから励まされて、レイ達とも会う事が出来て。自分を見つめ直すことができたのは、彼らのおかげだ。
「サビオ様、おはようございます」
「おはようございます、聖女様。今朝はあいにくの雨ですが、なにか良いことでもありましたかな」
「えっ。良いこと……ですか?」
「お顔が晴れ晴れとしておいでです」
朝、迎えに来た神官長にずばり言い当てられたフローラは、思わずギクリとしてしまった。
(レイやカロン、エラディオに会って、肩の力が抜けたのです)
……とは口が裂けても言えない。
笑顔でごまかすフローラを見て、神官長も目尻を下げて嬉しそうに笑った。『聖女フローラ』の機嫌が良いのは、神官長にとっても喜ばしいことのようだ。
ニコニコと笑顔の神官長と並び、朝行う礼拝のために拝殿へと向かった。二人は、歩きながら今日一日のスケジュールを確認する。それがここに来てからの日課になりつつあった。
つまり、レイ達と会おうとするならば、この時がチャンスだ。スケジュールは決まってしまっているのだから、変更したいなら神官長に話を通せばよかったのだ。神官長にこのタイミングでことわりを入れておけば、何ら問題ないだろう。
「サビオ様。今日は、ぜひレイノル殿下達とも御一緒できればと思っておりまして」
「そうですか」
「ぜひ、私の口から皆様に、レイノル殿下のことをご紹介させて下さい」
フローラは神官長に話を切り出した。レイはフローラの住むマルフィール王国の王子、そして聖女の、大切な婚約者。皆への紹介があってもおかしくないはずだ。
けれど、フローラがレイの名を出した途端に、神官長の笑顔は固くなる。
「殿下のことは皆存じ上げておりますよ。改めての紹介は結構でございます」
「え?」
「それより、こちらでも彼らと行動を共にする必要はございますか。あの者達とは、国へお帰りになってからも会えるではありませんか」
神官長は、フローラの申し出を淡々と退ける。その顔にはずっと笑顔が貼り付けられているものの、声色には僅かに妬みのようなものが見え隠れして。急に変わってしまった神官長の態度に、フローラは戸惑った。
「ああ……聖女様がこちらにご滞在されるのもあと僅か……寂しいものです」
視線を落とし、殊更さみしげに呟く神官長。
フローラ達の滞在は数日間を予定していた。神官長の言うとおり、あとわずかで帰国の日がやってくる。
「フローラ様は、本当にあの方とご結婚なさるのですか」
「……どういう意味ですか」
「レイノル殿下とのご結婚については存じております。もうすでにご婚約はお済みで、登城もされていると」
神官長の顔から、笑顔が消えた。かわりに浮かぶのは、『聖女』を想う切なげな眼差し。
「私どもは、本当に悔しいのです。フローラ様が、あの男のものになってしまうことが」
「神官長様……」
「待ち望んだ聖女様が、私どもよりあの男を選んだことが──」
いつの間にか、神官長の後ろには神官達が立っていた。皆、同じように口惜しそうな表情で神官長に同意しながら、フローラに縋るような視線を送る。
「聖女様、なぜですか」
「大神殿は、良いところでしたでしょう」
「どうか、これからも私達のおそばに」
フローラの周りを、神官達がぐるりと取り囲む。
じりじりと、距離を縮めてゆく。
普段はあんなにも、遠巻きに眺められているだけだったのに──
「お前ら、いい加減にしろよ!」
追い詰められている背後から、怒号が飛んだ。
すぐそばの警護に当たっていたエラディオが口を挟んだのだ。騎士の制服を着た彼は、神官達を押しのけてフローラのそばへと割って入る。
「な、なんですか騎士の分際で」
「聖女をなんだと思ってんだよ。魔力も高いし見た目もいいが、こいつ、ただの小娘だぞ」
エラディオは相変わらずの歯に衣着せぬ物言いで、神官達をばっさり跳ね返した。
「寄ってたかって閉じ込めようとするなよ」
(エラディオ様……)
聖女信仰の根幹を覆すような問題発言ではあるけれど。エラディオから『ただの小娘』扱いされたフローラは、不思議と心が凪いでゆく。
「ありがとうございます、エラディオ。そして皆さんも」
「聖女様……」
「こんなに、私を必要として下さってありがとうございます」
自分の言葉で伝えなければと思った。こんなにも自分を求めてくれる神官達にも、助け舟を出してくれたエラディオにも。
「私は、エラディオ様のおっしゃる通り、ただの小娘で」
「フローラ様……」
「けれど、皆さんが私のことを『聖女』であると認めてくださっている限り、聖女でありたいとも思っています」
フローラは、聖女として大神殿までやって来た。そして、ここで知った先代の聖女は、とても立派な人で。
今の自分に、先代の聖女と同じ振る舞いは難しいかも知れないと、悩んだりもした。でも……
「きっと先代の聖女様も、私と同じだったんじゃないかって」
フローラは、慈悲深く微笑む聖女像を見上げた。
彼女も、フローラと同じ『人間』だったはず。この大神殿で聖女として生きる一方、彼女もきっと恋をした。そして愛する人と一緒になって、子供を産んで。
──だから、末裔である自分達がいる。
「私はレイ様のものになるわけじゃなくて……ただ、好きな人と一緒にいたいと、そう望んでいるだけなのです」
複雑な表情を浮かべる神官達に訴えた。
なるべくやさしく伝わるよう、「かつての、聖女様のように」と付け加えて。
「何事ですか!」
そこへ、騒ぎを聞きつけたレイとカロンがバタバタと拝殿にやって来た。
タイミング的には最悪だ。まだ神官達とは話もついていない、なのに心配症のレイがやって来るなんて。
「フローラ……!」
「レイ様。大丈夫です、ただ皆さんにお話を」
「……本当に、大丈夫なのですか。取り囲まれているではないですか」
レイは、庇うようにフローラの身体を支える。
(ど、どうしましょう……)
この異様な雰囲気は、どう弁解してもごまかせそうにない。しかし今ここであった出来事をレイに伝えたとしても、大神殿との確執を深めてしまうだけかもしれない。
「ええと……」
フローラが困り果て、言い淀んでいたその時。
後ろでバタリと、音がした。
荒い息遣い。神官達の悲鳴。
嫌な予感がして、急いで後ろを振り向けば……神官長が胸を押さえ、冷たい石の床に倒れ込んでいた。




