ウィッグの誘惑
昼下がりの門前町。
「お前、『聖女様』だろ」
茶色いウィッグに、丸い眼鏡。
変装姿のフローラは、広場で手首をつかまれたまま固まった。
手首をつかむ赤髪の彼──エラディオは、逃がさないとでもいうようにこちらを見てニヤリと笑う。
「『聖女様』が変装までして町まで下りて、いったい何やってんだ」
「そ、それは」
「今頃、神官が探し回ってんじゃねえの」
言葉に詰まるフローラを見て、エラディオは確信を得たようだった。しまった。シラを切ればよかっただろうか。
(いきなり気づかれてしまったわ……)
こんなはずではなかった。
ただレイ達に会おうとしただけ。
それだけだったのに────
それは朝に遡る。
大神殿に来て数日。
今朝も神官達との礼拝を終えたフローラは、祭壇に佇む聖女像を見上げていた。
穏やかな雰囲気に、すべてを包み込むような慈悲深い表情。それが大神殿が何百年も祀ってきた、伝承の聖女。
伝承の聖女については、神官長から一通りの話を聞いている。
彼女は元々、この地に住む神官の一人であった。生まれつき人並み外れた治癒能力を持ち、さらに美しい容姿であった彼女は、たちまち民の心を惹き付けた。
訪れる人々を受け入れるために一生を神殿で過ごし、その魔力で多くの人々を癒し……まるで神のように奇跡を与え続けた。そして奇跡のような存在のまま、伝承となったのだという。
(すごい人だったのね……)
フローラも、姿や魔力の強さこそ似ているようだが、伝承どおりの聖女かと言われたら……そうではなかった。
まわりから『聖女』と呼ばれるようになりはしたけれど、マルフィール王国の迷いの森に暮らし、好きなように暮らしている。そんな自分が、伝承の聖女と同列に敬われて良いものだろうか。ここに来てからというもの、そのような良心の呵責がフローラを襲う。
こうして祭壇を眺めているあいだも、フローラの後ろには高位らしき神官が侍るように立っている。ただただ頭を下げて、聖女フローラが部屋に戻るまで。
「皆様、どうか頭を上げてくださいませんか。お疲れでしょう?」
「いえ! 聖女様にお仕えできるなど、最高の誉れでありますから」
「そうなのですか……」
正直なところ、疲れかけているのはフローラのほうだった。話しかけても、頭を上げてとお願いしても、神官たちはずっとこの調子である。このように拝まれては、どうしてよいものか分からない。
昼には食事の時間を迎えたものの、神官達に案内されたのは、これから食事をとるとは思えぬほど白く清らかな部屋だった。何人も座れそうなテーブルに、聖女フローラのためのテーブルセットだけが用意されている。
実は毎晩用意される晩餐も、このような待遇を受けている。出てくる料理はどれも手の込んだ美しいものであったのだが、神官達がずらりと侍る部屋で、フローラ一人きり食べる食事は食べた心地がしなかった。
「レイノル殿下やカロン様は、どちらにいらっしゃいますか? お会いしたくて」
滞在中はこのままずっと別行動なのだろうか。
普通に話がしたい。レイやカロンと、無性に会いたい。皆はどこにいるのだろうか。
「あの方々でしたら、本日は門前町の見物へ行っていただきました」
「えっ?」
「このまま大神殿にいらっしゃっても持て余すでしょうから」
「そうでしたか……」
まさかの事実。なんて羨ましい。こちらの知らない間に、町へ出かけているなんて。
「わ、私も町まで行ってみようかしら」
「聖女様が門前町へ、でございますか? それでしたら、神官長へご相談をいただけますか」
「相談……ですか?」
「はい。こちらから町長にもご連絡を致します。町を上げてお迎えしなくては」
「ええ!?」
血の気が引いた。フローラがちょっと町へ降りるだけで、大神殿にとっても門前町にとっても大ごとになってしまう。たださみしいから……という理由だけで町へ行くことは叶わないらしい。
改めて身に染みる。聖女としてこの神殿を訪れることが、どれだけ重大なことであったのか。
結局フローラは町へ降りることを諦めて、与えられた部屋へと戻った。途方に暮れるほど広い、聖女のための部屋だ。
(まいった……)
丁重にもてなしてくれてはいるものの、このままでは軟禁に近いものがある。神官達にそのような意図はないだろうが、フローラは神官以外誰にも会えず、大神殿からは身動きも取れず……
『聖女を崇拝している者達が、フローラと会うだけで済むでしょうか』
『あの手この手を使って大神殿へ留まらせることでしょう』
思わずレイの言葉を思い出して、思わず背中がぞわりと震える。
そんな時に目に入ったのが、部屋に備え付けられたクローゼットだ。広すぎる部屋にふさわしく、大きすぎるクローゼット。その中には、フローラが持ち込んだ荷物や服がしまい込まれてある。
もちろん、道中で身につけていた、あのアイテムも。
「…………」
フローラは思いついてしまった。
転移魔法は、一度行った場所であれば飛んでいくことができる。
(だめよ。無断で、そんなことは)
しかし、幸いにも神官達との対話は午前中に終わらせていて、夕食まではまだ少し時間もあり、神官達も部屋の中までは入ってこない────
(……すぐ部屋へ戻れば)
フローラの心は、ウィッグの誘惑に負けてしまう。
そうと決まれば、服を着替えて、ウィッグをかぶって、眼鏡を身につけて。
(少し……ほんの少しだけ!)
フローラは門前町目指して、飛び立ったのだった。




