(SS)彼の眼鏡を外したい
日が落ちて、マルフィール城は宵闇に染まる。
見上げた窓には一番星が輝き始め、フローラは軽く息をついた。
「フローラ様、今日のレッスンはここまでにいたしましょう。とーってもお上手でしたので、次回はもう少し速度を上げましょうね」
「は、はい、頑張ります。本日はありがとうございました」
今日は何度目かのダンスレッスンを受けていた。相変わらず教師からは褒め殺しを受けながら、楽しくレッスンをさせてもらっている。
「ドレスを着ると、ステップが少し難しくなりますね」
「布地の面積が広いですから、足捌きにコツが要りますわね。でもフローラ様ならすぐに慣れますわ!」
この日は初めて、ドレスを身につけてのレッスンだった。シンプルでありながら、総レースの繊細なドレスは白。
軽やかに見えるドレスでも、やはり普段の服より動きにくく足の運びが難しい。人前で披露出来るようになるためには、更なる練習が必要だと痛感する。けれど教師は根気よくフローラに付き合ってくれるため、レッスンも苦ではなかった。
「フローラ様。ドレス姿がとってもお綺麗ですから、レイノル殿下にお見せしてはいかがです?」
「えっ……この姿をですか?」
「ええ。お喜びになると思いますよ。このお姿、私だけが独り占めしては叱られてしまいますわ」
教師は、ダンスだけでなくドレス姿まで大袈裟に褒めてくれた。そんなに褒められては、フローラもついついその気になってしまう。
姿鏡には、ドレスを身にまとったフローラが映っている。確かに、その姿は普段の三割増しくらいには良く見えた。教師の言うとおり、レイにこの姿を見てもらっても良いかもしれない。
(……喜んでくれるかしら)
思わず彼の喜ぶ姿を思い浮かべて、ドレス姿を見てもらいたい気持ちはむくむくと膨らんでいく。
笑顔で褒めちぎる教師に背中を押され、フローラはレイの執務室へと転移魔法を発動した。
『フローラなら、毎日でも来てくれてかまいません』
レイからそう言われてはいたけれど、やはり仕事の邪魔になるのは気が引けて。さすがに毎日は気が引けた。
しかも今日は突然のドレス姿である。レイを驚かせてしまうかも……となると、彼の反応が少し怖い。
そうして、そわそわと落ち着かない気持ちのままフローラが転移魔法で降り立ったのは、毛足の長い絨毯の上。
(あれっ……廊下じゃ無い!?)
廊下は硬い大理石だ。
つまり、降りる場所を誤った。
上の空のまま転移魔法を発動したフローラは、どうやらレイの執務室の中へ直接転移してしまったらしい。
(まずいわ……外にいる護衛の方へ、お声がけしたほうが良いかしら)
いつの間にかレイノル王子の執務室にフローラが入っていた……なんてことが知れたら、混乱を招きかねない。そのため、これまで転移魔法で訪れた時も、廊下の護衛に必ず声をかけてから入室していたのに。
かと言って今さら、室内から「もう入ってます」と護衛に声をかけるのもマズい気がしなくもない。幸いレイは不在のようで、執務室には誰もいない。このまま黙って、去ってしまえば……
どうしようかとフローラが気を揉んでいるその時、背後から聞こえてきたのは規則正しい寝息。
(……寝息?)
まさか……と思いつつ、そろりと後ろを振り返る。やはり室内には、誰の姿も見当たらない。けれど確実に寝息が聞こえるのだ。
フローラは足音を立てぬように、そろりそろりと寝息のするほうへと近づいた。
(う、わ……!)
ソファの背から内側を覗き込むと、そこにはレイが寝そべっていた。眼鏡をつけたまま、腕を組んで寝てしまっている。フローラがそばにいることも気付かぬくらい、ぐっすりと。
フローラはしばし硬直した。こんなにも無防備なレイの姿を目の当たりにしたのは初めてのことだったのだ。ずいぶんと疲れていたのだろう、着の身着のまま、横になってしまったようだった。
レイの執務机にあるトレイを見てみると、処理済みの書類が山積みになっていた。あれだけの量を一気にこなしてしまったのだろうか。日頃の仕事量が心配になってくる。
(レイ様……お疲れ様です)
フローラはかがみ込むと、レイの疲れた顔を覗き込んだ。きれいな寝顔は、普段より少しあどけなくて。閉じられた瞼に、長い睫毛。唇は、うっすらと開いて。好きな人が寝息を立てて眠り込んでいる様子は、乙女心に強く刺さった。
(レイ様、眼鏡取らなくていいのかしら……)
眼鏡をつけたままだと、寝返りをうったとき危ないのではないだろうか……というのは言い訳で。
乙女心の疼くフローラは、唐突にレイの眼鏡を取りたくなった。彼が眼鏡を外している姿は、とてもレアなのだ。今は、そのレアな姿を心ゆくまで眺められる大チャンスなのだ。
ぐっすり寝ているし、そっと取ってしまえば……心の中で、悪魔がささやく。
フローラは欲望に贖うことが出来ず、レイの眼鏡に手をかける。息を殺して、神経を集中させて……なんとか音を立てずに眼鏡を取ることに成功した。
(……っ! レイ様の素顔!)
眼鏡で武装した姿はもちろん好きだけれど、眼鏡を外した彼の顔はどことなく色気があって……レイに許可も取らずありのままの素顔を見ているという背徳感が、フローラの胸を強く揺さぶる。
レイの黒縁眼鏡をテーブルへ置くと、フローラは再び彼を眺めた。
静かな部屋にはレイとフローラの二人だけ。こんなにも自由に彼のことを見つめるのは初めてかもしれなくて。思いがけず手に入れたこの時間を、フローラは心置きなく堪能したのだった。
無断で入室している時点で早く帰らなければと思うのに、あともう少しだけ、もう少しだけとつい長い間居座ってしまった。
そろそろ本当に退散しようと立ち上がり、レイに背を向けたフローラに、不意に声がかかる。
「もう帰ってしまうのですか」
────心臓が止まるかと思った。
背後からの声は、紛れもなくこの部屋の主の──
「レ、レイ様……起きていらっしゃったのですか」
「寝てましたよ」
「起きてるじゃないですか」
「寝てました。眼鏡を取られるまでは」
ということは。欲望に負けてレイの眼鏡を外してしまった時から、彼は起きていたということか。
たちまち、フローラは青ざめる。勝手に入室したこと、寝顔を見てしまった挙句、眼鏡を取ってニマニマと眺めていたこと……自覚はある。これはどう言い訳しようと、言い逃れできないと。
「レイ様。すみませんでした」
「何故あやまるのです」
「お部屋へ勝手に入りましたし……その……寝顔を……」
「ずっと見ていたようですね」
青くなっていたフローラの顔は、さらに色を無くしてゆく。レイに気付かれていた。これでは正真正銘、変質者である。曲がりなりにも婚約者だというのに……
「レイ様の寝顔なんて貴重で……見てはいけないと思いつつ我慢できなくて……その、眼鏡も……こんなチャンス無いと思ったらつい……」
しどろもどろに弁解するフローラを見ながら、レイはムクリと起き上がった。その顔には、不敵な笑み。
「フローラ、良いことを教えてあげましょう」
「良いこと……?」
「結婚すれば、毎日見られますよ」
束の間、理解が追いつかなかった。
けれどその意味がわかった瞬間、フローラは全身が沸騰したように赤くなる。
「ま、毎日……!?」
「毎日、寝顔でもなんでも見られますよ」
「なんでも……!?」
「私もフローラの寝顔を見ますけど」
処理能力が限界に達したフローラはワナワナと震えるだけで、とうとう何も言えなくなってしまった。
(それは、つまり……)
「さあ、フローラ。もっとこちらに」
「え?」
「ドレス姿を見せに来てくれたのではないのですか」
レイはソファで、自分の隣をぽんぽんとアピールする。フローラのドレス姿を眺めるその顔は緩み、とても嬉しそうに笑ってくれた。
その笑顔の引力には逆らえなくて、フローラは大人しくレイの隣へと腰を下ろす。
「寝ぼけていて、一瞬ウェディングドレスかと思いました」
レイはドレスを纏ったフローラを愛しそうに見つめた。シンプルな形のドレスは白く、クラシックな総レースで仕立てられている。ダンス用と言われなければ、ウェディングドレスと勘違いしてもおかしくない。
「綺麗です……フローラ」
「あ、ありがとうございます」
「本当のウェディング姿は、さらに綺麗なのでしょうね」
艶のある瞳をしたレイは、ドレス姿のフローラにキスを落とす。抱き寄せられ、されるがままに蕩けるようなキスをされ──甘い気持ちに流されそうになったが、伝えなければならない。ここに自分がいては不味いことを。
「私、護衛の方に何も言わずに入ってしまって」
「……護衛の彼には、あとでちゃんと伝えましょう」
「レイ様もお疲れですし、そろそろ帰ろうかと……」
「──駄目ですよ」
レイはフローラに向かってニッコリと微笑む。
なんて圧のある笑顔。
「今度は私がフローラを眺める番です」
「え?」
「レアなドレス姿、ゆっくり見せて下さいね」
有無を言わせぬ強い笑顔は、フローラに逃げる余地を与えない。
その晩、レイからはじっくりと見つめられ、ドレス姿を絶賛され続け……フローラは羞恥心に苛まれながらも、執務室での幸せなひとときを過ごしたのだった。
明日1/16(月)、いよいよコミカライズ一巻が発売となります。初めてのことで、とてもドキドキしております…!
七里慧先生による素敵な漫画にしてくださいました。
宜しければぜひご覧下さい。




