絶対に離さない
「……フローラ。今日のお妃教育は中止です」
「え……?」
「あなたにはお妃教育より先にすべき事があると分かりました」
レイからの長く甘い口づけに、フローラはなにも考えられなくなっていた。
許容範囲は早々に飛び超えてしまって、ぐったりと彼にもたれ掛かったまま動くことすら出来ない。馬車は間もなく城へと到着するというのに、まったく思考回路は働いてくれなくて。
二人を乗せた馬車はやがて速度をゆるめ、ゆっくりとマルフィール城のエントランスへと到着した。しかし。
(あ……あれっ……?)
フローラは困ってしまった。いざ、馬車から降りようとしたのだが、立とうとしても足に力が入らないのだ。
「フローラ?」
「……すみません、ちょっと……立てなくて」
ただキスをしただけなのに、このような……立ち上がれないほどになるなんて。
恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。レイの顔を見ることが出来なくて俯いていると、彼がすぐ近くでクスリと笑う。
「わかりました。さあ、フローラ」
「えっ……えっ」
なんとレイはフローラを抱きかかえ、平然とした様子で馬車から降りたではないか。あまりの事態に、停止したままだった思考回路は急激に回転を始める。
「ちょっ……!? レイ様、下ろしてください!」
「動くとあぶないですよ、フローラ」
出迎えた執事、エントランスを守る門兵……皆が目を丸くして二人を見ている。
そんな中レイは靴を鳴らしながら、さも当たり前のようにエントランスを進む。
「みんな見てるじゃないですか! 恥ずかしいです」
いつもなら馬車の到着とともに執事長が駆け寄り、あれこれ世話をやいてくれるのだが、今日はそれも無いようだ。きっと気を遣われているのだろう。皆から生暖かい目で見守られているのが分かって、フローラは彼の胸を叩いて抵抗を続けた。
一方、恥ずかしがるフローラを見ながら、レイはどこか楽しそうで。
「キスで腰が抜けたのでしょう。ちゃんと掴まっていて下さいね」
耳元に落とされた小さな囁きが、フローラの全身を沸騰させる。頬に彼の息がかすめた瞬間、フローラはついに固まったまま動けなくなってしまった。
彼はそんなフローラを愛しそうに見つめると、満足げにエントランスを後にしたのだった。
抱えられたまま連れてこられたのは、初めて目にする部屋だった。
ここは城の中でも王族のプライベートなエリアに位置する。さらに言えば、隣の部屋はレイの寝室であるという。ということは……
「レイ様……ここは、まさか」
「ここはフローラの部屋です」
淡いブルーの壁にはクリスタルガラスのランプ。大きく開放的な窓にあしらわれた白いカーテンは、繊細に部屋を彩る。白く大きなベッドのそばにはツヤツヤと輝くサイドボード。
「ここが、私の部屋……」
「あなたを待ちきれない者達が、フローラをイメージしてこの部屋を用意しました」
「で、でも結婚は卒業後のはずで……まだ二年も先なのですが」
「ですから私や両親、この城で働く者達も、今から楽しみにしているのですよ。フローラがやって来ることを」
部屋のテーブルには、淡いピンクの花が飾られていた。
それは活けられたばかりの美しい花。きっとこの部屋は、毎日人の手によって整えられているのであろう。まだ主不在であるというのに。
「フローラの希望があれば教えてください。色や調度品など、好みのものに変えましょう」
「いえ、もう充分過ぎるくらい素敵なお部屋なのに」
「ここはフローラのための部屋ですから。あなたの好きにしてもらえた方が、皆は嬉しいのですよ」
レイはソファの上へ、ゆっくりとフローラを下ろした。
ふかふかとしたソファ。見下ろせば磨かれた床。見上げれば高い天井。ここは明るく真新しい、『フローラの部屋』──
きょろきょろと落ち着かないフローラの隣に、レイも腰を下ろす。
「想像してみて下さいね。二年後、ここで暮らすことを」
「私が、ここで暮らす……」
「はい」
(そ、そうよね。結婚したら、私はここで……)
フローラは、言われたとおりに想像してみた。
この広く眩しい部屋に、所在なさげな自分がぽつんと立っている。
とりあえずソファの隅に腰掛けて、出されたお茶を飲んでみる。そして王城で出されるお茶の美味しさに改めて驚き、思わずお茶をこぼす。こぼれたお茶は、上質なソファや絨毯に染みをつくる──
(や、やめとこう!)
フローラはぶんぶんと頭を振り、不吉な未来図を振り払った。
「──少し想像してみましたが、不安しかないですね……」
「そうですか?」
今の暮らしとあまりにもかけ離れていて、なかなか想像出来そうにない。当たり前ではあるが、迷いの森の小さなコバルディア家には、こんなに豪華な部屋は存在しなかった。
「私は──よく想像しますよ」
「レイ様が?」
「フローラが毎日この部屋にいたら、どれほど幸せだろうかと」
「そんな、大袈裟です。私一人来たくらいで」
「そうでしょうか……少なくとも私は待ちきれない」
隣からは、いつの間にか熱を持った紫紺の瞳が、フローラを見つめている。
「今だってこの部屋にフローラがいると思うと、たまらない気持ちになります」
フローラは、距離を詰めてくるレイに良からぬ雰囲気を察知した。そして思わず後ずさる。だってこれ以上、何かされたら──
「ま、待って下さいレイ様、これ以上は……私また立てなくなりますから」
「ここはフローラの部屋ですから、大丈夫です。いくらでも休んでください」
「えっ! 待っ──」
フローラに、レイを止めることは出来なかった。
再び重なる唇に、身体中の力はみるみるうちに抜けてゆく。
「まず、フローラは自覚して下さい。ここで暮らすこと……私との結婚は、決定事項であると」
「決定事項……」
「そうです。私はあなたを絶対に離しません」
まつ毛が触れ合うほどの距離で、二人の視線は絡まり合う。
近くで見るレイの瞳は、フローラだけを映していた。
(二年後、私はレイ様と結婚を──)
その時はまたフローラの部屋でキスすることもあるだろうか。こうしてレイの腕に抱かれて、何度もキスを求められて、ふにゃふにゃに力が抜けて。
(そうだったら……いいな)
ぼんやりする頭で、この部屋に二年後の未来を垣間見る。
レイとの未来に思いを馳せながら、フローラは甘いひとときに身を委ねた。




