自分の気持ちは
「王子の婚約者は、シーナで決まりらしい」
コバルディア家のリビング。
ソファに座る兄オンラードがため息をついた。お茶の湯気を見つめながら、浮かない表情だ。
「今度、城で婚約のお披露目が行われるらしい……」
婚約のお披露目とは。
フローラは、兄の隣で足を組むレイに視線を送った。彼は小さく首を振っている。つまりこれもデタラメだ。
依然として、王子とシーナの噂は独り歩きしているようだった。その噂に気を病んでいるのは……なんとオンラードだ。
兄は先日、学園でシーナとぶつかった。
その時、運悪く鋭い葉で手を切ってしまったのだが、心配したシーナが覚えたての治癒魔法で治してくれたらしいのだ。
「俺は指先をちょっと、切っただけなんだよ。なのにシーナはすっげー時間かけて、慣れない治癒魔法で一生懸命治してくれて……」
すっげーすっげー可愛かったと、もうかれこれ何回聞かされただろう。
「……男の人は、介抱してくれた人を好きになっちゃうのかしら」
フローラは素朴な疑問を呟いた。その瞬間、レイとオンラードからじろりと睨まれる。
「そんなわけないでしょう」
「フローラ、お前分かってねえな!」
「ご、ごめんなさい」
だってレイもオンラードもそうじゃないか────
口が裂けても、言えないけれど。
このあいだ、屋上でレイから話を聞いた。
五年前、迷いの森でフローラとオンラードに命を助けられたと。そして、フローラの癒しの力で、丈夫な身体を手に入れたと。
彼はその事が忘れられず、フローラを探し求めていたようだった。
確かに昔、森で倒れていた男の子を助けたことがあった。しかしその男の子は、泥だらけで小さくて、ガリガリに細くて、身体の悪さからか覇気も無くて……街の子が、森に迷い込んでしまったのかと思ったのだ。
まさか、あの子が王子だなんて。レイだったなんて……思うはずもないじゃないか。
「フローラ。介抱は、出会いのひとつに過ぎません。『誰と出会ったか』が全てなのです」
「俺、出会っちゃったのかな。シーナと……」
オンラードはもう恋をした目をしている。王子の婚約者候補になろうとしているシーナに。
「兄様には高嶺の花よ。シーナ様は王子の婚約者候補になりたい人なんでしょ?」
「俺、たった今いいこと思いついた」
「いいこと?」
やな予感がする。兄が『思いつく』ことは昔から、大抵ろくでもないことだったから。
「フローラが王子の婚約者候補に名乗り出ればいい。魔力すげえし、きっと第一候補になるぞ。そうすればシーナは婚約者の座から解放される」
「ええ?!」
数日前までの、妹思いな兄はどこへ行ったのだ。噂のおかげで王家から逃げ切れそうなフローラを「良かったな」と言っていたのに。
恋とは、こんなにもガラリと人を変えてしまうものなのか……
「それには私も賛成です」
「レイ様!」
「王子にとってもオンラードにとっても好都合です。シーナもこれ以上、噂に振り回されずに済む。皆に良い事ばかりです」
「わ、私の気持ちは!?」
「フローラは、ただ王子を好きになればいい」
レイは挑発するように微笑んだ。フローラの赤い顔を見て楽しんでいるかのように。
「レイ、寛容だな。お前フローラのこと気に入ってるんじゃなかったのか」
「フローラが王子の婚約者になるなら、それで良いのです」
「ふーん……そういうもんなのか」
レイの正体をまだ知らないオンラードは、不思議そうにレイとフローラを交互に見た。
レイは『王子』その人だ。そりゃあ、レイから見ればそれで良いのだろう……
「レイ様も兄様も勝手なことばかり」
夕暮れの街を、フローラとレイ、二人並んで歩く。
彼がコバルディア家へ来た日は、こうしてフローラが街まで送り届けるようになっていた。彼がそう望んだからだ。
「私もオンラードも自分の気持ちに正直なだけです」
「それでは、シーナ様の気持ちも私の気持ちも、無視ではないですか」
シーナは髪を染め、治癒魔法も習得した。きっと王子の婚約者になりたくて。
「そうでしょうか。シーナという少女本人は、私との婚約にあまり乗り気では無いように見えますが」
「えっ……」
……たしかに彼女は、ご令嬢方に囲まれても婚約の話題から逃げている。第一候補にまで上がっているというのに、自らその事に触れようとはしないで。
「控えめな彼女の態度と較べ、噂の拡がり方が異常ですし。おおよそ裏で親が糸を引いているのでしょう」
「……シーナ様は、本当はレイ様の婚約者になりたくないと?」
「かもしれない、という話です」
そうか、親が……そういうこともあるのか。もしそれが本当なら、シーナが気の毒だ。姿を偽り身を隠しているフローラの胸に、罪悪感がふつふつと湧いてくる。
「フローラ、後ろめたさを感じていますね?」
「……当たりです」
「それでは、そろそろ名乗り出ますか」
「いえ、それは……。なんだか同じ問答の繰り返しですね」
中央公園に差し掛かり、噴水の前でレイは歩みを止めた。
「フローラの気持ちは?」
急に止まったレイを振り返ると、彼は夕日を浴びて橙色に染まっている。
「……私は、『この人だ』という人と恋愛結婚したいとレイ様にお伝えしました」
「私では『この人』になれませんか」
レイから淡々と紡がれるストレートな言葉が、フローラの意固地な部分にヒビを入れてゆく。
「フローラは私の事をどう思っているのです」
どう思っているか?
レイを?
お節介な人だと思っている。
真面目で、理屈っぽくて。
神出鬼没な変わり者。
強引で……だけどやさしい人だと思っている。
「私は……レイ様しか知らないんです。レイ様がいつもそばにいるから」
気がつけば、学園ではレイとセットになっていた。他の男の子がどんな生き物なのか、フローラは知らない。
学校でも家でも、当たり前のようにレイがいる。他の男子に目を向けようと思っても、隣にレイがいればたちまち心は引き戻される。
「だから、レイ様以外は考えられない」
それがフローラの、精一杯の気持ちだった。
それが好きかどうかと聞かれれば、また答えに詰まってしまうが。
「けれど……、『レイノル様』の隣へ立つ勇気は無いんです」
それだけのことを、フローラはやっとの思いで口にした。なんて曖昧な返事なのだろう。
おそるおそる、レイに視線を戻すと……彼は満足そうに微笑んでいるではないか。
「私以外、考えられないと言いましたね」
「は、はい」
「最高の気分です」
レイはフローラの頭を愛おしそうに撫でると、茶色のウィッグにさらりと指を通した。
「私は待つことにします。あなたがいつか、ウィッグを被らなくなる日まで……いつまでも」
ほら……レイがこういう事を言うから。
惹かれる。安心する。
彼は、絶対的な愛を自分にくれる人なのだと。
鼓動のせいで、噴水の音が遠くに聞こえる。
レイの姿が、いつもより輝いて見えた夕暮れだった。




