blue. 01(バシリスク)
「シャガールを見たいわ、……」
ふいときみがこぼした。独り言のようにどこか一本調子に「お風呂上がりにバニラのアイスクリームが欲しい」わ、と云うような感じであまりにも普通に発せられたので、ぼくは答えを求められていると感じなかった。
湯上がりの彼女の髪をぼくは好きで(彼女もそれを承知で)軽く乾かしタオルを首にかけ丈の長い淡いターコイズブルー色の寝巻きの上だけを着て冷凍庫をごそごそ漁る姿を見るのは目に楽しい。長いあんよと違うけれども裾から伸びる足は無警戒で愛らしい。膝の裏のくぼみからふくらはぎふっくら流れる線が繋がりかかとの腱で結ばれる。
なのにぼくはソファの上で何かどろっとした袋のように横になってテレビのCS放送を点けっ放しにている。
要するにぼくは仕事に飽きていたのである。
きみがくしゃみをした。首にかけたタオルで鼻をぐすぐすと拭いてそれでもカップのアイスクリームとスプーンを持って暖房で温められたリビングに戻るのである。
冬に食べるアイスクリームは夏のそれと違って実においしい。分かるよ。
ソファの上でやる気を無くして何かどろっとしたような袋のようにだらしなく横になっているぼくを「よいせ」と、どかして、きみが座って膝の上にぼくの頭を乗せた。石鹸の香りが身体から匂った。きみが匂い立った。
ぼくはアイスクリームを食べるきみの膝に甘えることもなく、やっぱりどろっとした袋のままに疲れた目でCSの動物ドキュメンタリを見ている。砂漠のトカゲが砂を蹴って走っていく。エアコンの温風が低く唸りながら部屋を満たしている。砂漠のトカゲは長い舌で自分の(目玉)溜まった水を舐め取った。
「はい、あーん」
きみがアイスクリームのひと欠片をぼくの口に入れる。甘い/冷たい。口の中で直ぐ溶ける。ぼくは手を伸ばして、きみの湯上がりの髪を(そっと)触って(そっと)引っ張る。彼女は(いつものこと)気にも留めずスプーンでカップの縁からアイスを削る。
耳に頬に彼女を感じる体温を感じる。柔らかな肌と肌と滑らかな肌。ぼくは伸ばした腕で今度は(吸い付くような肌)脛を下からに上に撫でる。
「くふふふ」
きみは笑って手を払った。「やめなさい」よ、と、ぴしゃりと叩いた。ぼくは素直に手を引っ込めて、むっつり腕を組んで、でれっと再びどろっとした袋に戻る。
甲虫が後ろ脚で黒い塊を転がしていく。砂漠は、どこかしこもからからだ。何もかもが干からびている。
(──実在のバシリスクは水面を走るトカゲですが、砂漠ではひと睨みで相手を殺すと怖れられた伝説の生き物です。──)
シャガール?
ぼくの言葉に、「ええ」ときみ。「あのシャガールよ。……今、青森に来ているの」
*
「忙しい?」友人からの連絡。
いや暇だ。閑古鳥だ(売れもしない企画を作るだけ。外に出ず誰とも会わず何もせず・静かにソッと過ごしてた)十月も終わろうとしているこの一年、何をした?
「変わらずか」電波越しに笑われる。ぼくも笑う。そっちは?
「追い風」
聞けば、テレワーク機器の導入で多いに稼いだと。得意分野だったね通信関係。
「俺たち、ずっとテレワークだよな」
君(御社)からの案件はいつもVPN接続にオンライン通話、画面共有。クラウドでファイルの同期。今更って感じだ。で、何か?
「PC、起動してる?」
前に入るよ(ネット徘徊をやめる)。
メッセージソフト経由で送られてきたスクリーンショット:施設機械の図面・写真(苦手な分野)。
「絵、描ける?」
もちろん(即答)。
*
「け・ん・り・つ・び・じゅ・つ・か・ん」
一音区切りのスタッカートできみが読み上げる。「あ・お・も・り・け・ん」
ひどいじゃないか。
モニタに広げたブラウザを覗き込むきみを非難。これ、三年前からやっている。
「そうですよ?」
ひどいじゃないか。展示は来年の三月までだ。
「そうですよ?」
どうしてなんだ。ずっと暇だったのに、今は仕事が詰まってる。納期は来年三月だ。
「そうですね」
二月にアップ(納品)の予定で進行している(けれども)十一月も半分過ぎた。すでにズレ込んだ。この先、もっと/もっと/予定通りになるかだなんて、ちっとも思えない。
「そうですね」
ハッキリ云えば、まったく進んでいない。(もし)予定通りにできたとしても微調整とか戻しだってありうる。直ぐに対応しないと年度内に間に合わない。
「そうですね」
これだね? 四枚の大きな舞台背景画。三枚は日本にあって、一枚が(海を渡って)日本に来た。三年前から。
「そう」よ、ときみが云う。「それがシャガール。……」