イルレア王国の美術館 ~潜入編~ その1
「だいたい一回りできたかなあ?」
黒いコートを着た青年が、右手に持った地図とあたりの絵画を交互に見ながら、満足そうにつぶやきました。さらさらとした長めの金髪に、大きなエメラルドグリーンの目をしています。整った顔つきは、中性的で、むしろ人形のようだといったほうがしっくりくるように見えます。
「ううん、まだ見ていないところがあるわ。カイ、戻って。それからもう一度地図を見せてちょうだい」
ひかえめな女の子の声が、黒いコートの右ポケットから聞こえてきました。カイと呼ばれた青年は、大きな緑色の目をわずかにゆらがせて、小声で聞き返しました。
「まだ見てないところ? この、『戦争と平和』のコーナーで最後じゃないのか?」
カイはまわりに飾られていた、戦争の絵画に目をはわせていきました。剣と槍をかまえて突撃する兵士たちや、歓声を上げる人々の絵が、ところせましと並んでいます。ここはイルレア王国でもっとも大きな美術館です。王国の、そしてその近隣諸国からも様々な絵画を集めて、展示していたのです。
――どの絵も、まるで本物の戦場のようなリアリティがあるな。だが、血のにおいと悲鳴が聞こえないだけ、絵はまだましだな――
カイの思考を破るように、先ほどの女の子の声が再びしました。
「カイ、地図を見せてちょうだい。たぶんだけど、まだリビアーノの絵を見ていないと思うわ。場所を確認するから、こっちにおろして」
「わかったよ。だけどこれ以上はしゃべるなよ。美術館なんだ、声がひびく」
平日だからか、人もまばらでしたが、それでも美術館独特の静けさがあたりを包んでいます。カイに注意されたからか、女の子の声はやみました。カイは持っていた地図を、ゆっくりとコートの右ポケットの前へ持っていきました。
「やっぱりさっきのとこ、左に曲がんなきゃいけなかったみたいね」
さきほどの女の子の声が、黒いコートの右ポケットからしました。さっきよりも小声でしたが、カイはしっかりとうなずきます。すると今度は、コートの左ポケットから、少し高い女の子の声がしました。
「どうせカイのことだから、道に迷っていいわけしてるんじゃないの?」
静かな美術館に、よくひびく声でした。カイはびくっと身をかたくして、それからきょろきょろとあたりに目をやります。だれもいません。カイはホッと胸をなでおろしました。
「だいたいカイったら、ものすごい方向おんちなんだもん。ロッテたちがいなきゃ、すぐに迷子になっちゃうでしょ」
またもカイは硬直します。身をかがめて、あわててコートの左ポケットを押さえました。
「シーッ! シャルロッテ、声が大きいぞ。気づかれるだろ」
「そうよ、もっとひそひそ声でしゃべらないと。わたしたち、任務の途中なんだから」
さっきのひかえめな女の子の声です。少しとげとげしい感じの声だったからか、シャルロッテと呼ばれた女の子が鼻を鳴らしました。
「フンだ、なによティアラお姉ちゃんったら、そんなこといって、どうせカイに気に入られようって思ってるだけでしょ」
「違うわよ! そんなわけないでしょ!」
ティアラとよばれた女の子の声が、美術館中にひびきわたりました。遠くに座っていた、係員の人があたりを見わたします。バツの悪そうな顔をして、カイはそそくさとその場から離れました。
「こら、おしゃべりしてもいいけど、大きな声は出すなっていってるだろ」
歩きながら、カイはポケットを軽くたたきました。『戦争と平和』のコーナーから、リビアーノのコーナーへともどります。右ポケットから、小さな声が聞こえてきました。
「……ごめんね、カイ」
「まあ、気づかれなかったみたいだし、大丈夫だよ。それよりほら、二人ともお目当てのコーナーについたぜ」
カイはそっとポケットをなでました。あわい色合いの、やわらかなタッチで描かれた絵が並んでいました。すべてリビアーノの作品です。両方のポケットから、わあっとうれしそうな声が上がりました。
「素敵だわ、こんなにきれいで、はかなげなんて」
右ポケットから、ティアラの声です。今度は左ポケットから、シャルロッテの声が聞こえました。
「ホント、やっぱり美術館っていいよね。これでカイと一緒に並んで見られたら、もっとよかったのに」
「ロッテ、わがままいわないの。カイもいつもいってたでしょ。任務遂行のためには、ひとりが一番都合がいいって」
「そんなこといって、お姉ちゃん、どうせロッテのこと大きくして、カイとデートされるのがいやなだけでしょ」
「違……、あ、ごめん」
カイがすばやく右ポケットを押さえます。ティアラはすぐにひそひそ声にもどりました。
「二人とも、頼むぜ。遊びに来てるわけじゃないんだから」
「それはそうだけど、せっかくだからカイと一緒に並んで見たかったなって、そう思っただけだもん。……あっ、そうだ、ねえカイ……」
カイがうっと顔をしかめました。シャルロッテが甘える声を出すときは、たいていろくでもないお願いしかされないのです。
「ねえカイ、お願い! ロッ……わたし、これからはちゃんといい子にするから、カイの胸ポッケに移動させて。ね、せっかくリビアーノの絵が見れるんだもん、こっちのポッケじゃ見づらいよ」
「おいおい、なにいってんだよ、それって顔を出すってことだろ。だめだ、他の人間に見つかったら面倒だ。それに下見の段階で、怪しがられることはしたくない」
「えーっ、そんなのいやだよう、リビアーノはイルレア王国一の画家さんなんだよ。せっかく今日見れるの楽しみにしてたのに。それなのに、ポッケの窓からなんて、見づらいわ」
ポケットがばたばたと音を立てます。
「わ、ちょ、待て、そんな暴れるな、わかった、わかったからさ、ほら、今移動させるから」
あたりの様子を素早くうかがい、カイは左のポケットに手をつっこみました。
お読みくださいましてありがとうございます。
本日、明日ともに4話ずつ投稿する予定です(19,20,21,22時台に投稿しようと思っています)。
こちらはシリーズものですが、前作とのつながりはほとんどありませんので、前作を読んでいないかたでも楽しめると思います。興味があるかたは前作もお楽しみいただければ幸いです。
それではカイたちの物語をどうぞよろしくお願いいたします。