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厭世のルシファー  作者: 六日
真昼の白い月
7/10

06

 人間、探せば長所の一つはあるものだ。それがどれほど救いようのない馬鹿でも、だ。つまり、そういうことだ。


 前払いだと昼休憩に半ば強引に押し付けられたミルクティーは、放課後である今もまだ机の上にある。飲んでしまったら、それこそもう逃げようがない。

 嫌でも目に入るそれをじとりと睨めつけると、不意にその目線を遮るように数式が視界に飛び込んだ。反射的に叩き落とす。ぱた、と軽い音を立てて机に横たわったのは、数学の問題集であった。教材として強制的に全員購入させられたものであるが、テスト範囲の部分はもう複数回通ってしまったので、答えまで暗記してしまっている。

 はたと顔を上げると、眉をへの字にした満がいた。


「はいはい。どこがわからないの?」


 べっこう縁の眼鏡を両サイドから押し上げた。おおよその検討をつけながら、私のものと比べて随分と綺麗なそれを捲る。


「もう、折角開いてたのに、メイが閉じちゃうからぁ」

「だって、近かったから」

「なんか上の空だったけど?」

「疲れてるのかな……」


 はは、と申し訳程度に笑みを浮かべた。

 二つの机をくっつけ向かい合わせにして勉強していたのだが、その中央より少し手前の端にミルクティーは居座っていた。


「やっぱり、これ? 原因」


 ハッとした。無意識だったのだ。つい目線が移ってしまったためだろう、満は軽い動作でひょいとそれを持ち上げた。ミルクティーが宙に浮くのと同時に、私の視線も持ち上がった。図星を指されて肝が冷える。「いや」という逆接の言葉が、本来持った意味合いを含まず発され、ふわふわと宙をさすらおうとしたところ。被さるように満が口を開いた。


「振り回されちゃって、まぁ。でも、メイってばなんだかんだ世話焼きだよねぇ」


 哀れみや同情の類の眼差しをいただき、そこで初めて焦るような内容ではなかったということに気付いた。一気に羞恥心が芽生える。俯き両手で顔を覆う。顔が熱い。満は気付いていないが、つまり、私は勝手に一人で自分自身に対して墓穴を掘ってしまったということだ。


「……いや、でも、流石に、私でもなかなか手に負えるレベルじゃないよ、あれは」


 はあぁあ、と長い息を吐き出す。なんというか、うんざりした。なんで、私が。あんなおめでたい頭の奴に、なんで私が、こんなにも振り回されなければならないのか。しかも、こんな、ミルクティーだけで。ふつふつと怒りが募り始め、しかしやがて糸が切れた。馬鹿らしい。同じ階層に立って考えるからだ。私がわざわざ階段を下りて対等になる必要性など、どこにもない。


「そんなことより、これ、もういいの?」

「そうでした! 良くないです。せんせ、ここ、これがわからないです。あーもー、テスト嫌だなぁ……」


 問題集に再び目を落とす。わからない箇所を指差して、満は項垂れた。


「使う公式はわかる?」

「わかるけど、」

「公式わかるなら、もう答え出たようなものじゃない?」

「んーこのページ的にわかる、ってだけなんだよね。テストで出されたら解けないと思う。なんか、この言葉が出たらこの公式ィ! ってのない?」

「なるほど」


 こんなところにも、人間性というものが表れる。満は見たままの裏表のない性格である。そして、自分以外にもそう接する。安易に物事を追求しようとしない。必要ないことはバッサリ切り捨てる、効率重視タイプだ。案外私なんかよりも、満の方がよっぽど要領がよく器用な人間である。そして、見えるものをそのまま素直に受けいれる器の大きな人物でもある。だからこそ、私は満といるのが一番楽なのだと思う。


 理屈はいらないという満に、率直に読解方法だけを説明する。ふんふんと頷きながら話を聞く満の顔は真剣だ。そして、たった一度の説明でコツを掴んだらしく、後は黙々と一人で解いている。少しの間それを眺めていたが、案の定心配はなさそうで、私も自分の勉強を再開させた。


 時間にして、一時間ぐらい経った頃だろうか。少し肌寒くなってきた。窓の向こうはもうオレンジに染まっている。九月暮れといえど、夕方になると一気に気温が下がる。椅子の背にかけていたラベンダー色のカーディガンをもそもそと羽織る。よし、もうひと頑張り。


 そう意気込んで集中体制に入った直後だった。無遠慮に扉を開ける音が響いたのは。シャーペンを動かす音と、身じろいで机が微かに揺れる音、たまに違う教室から聞こえる笑い声、教室前の廊下を通る人の足音、そして一番心臓に悪いチャイムの音。それ以外には静寂を保っていた教室に、来訪者である。驚きのあまり肩を揺らしてしまったのは、私だけではなかった。目の前の満も、顔を上げて扉に目をやる。遅れて私も後を追う。


「うわーテスト勉強とかちゃっかりしちゃって」


 げんなりと露骨に嫌そうな表情を浮かべる金色がいた。


「なんだ。ハルタじゃん。まだいたの? まさか残って勉強とかじゃないでしょ?」


 そう言った満はペンを置いてしまい、んーっと大きく伸びをした。もう完全に勉強することを諦めたようだ。かくいう私も視覚を刺激された時点で続行不可能を悟っていた。


「もちろん」

「大丈夫なの?」

「大丈夫なわけないだろー」

「バカだ」

「馬鹿だね……」


 本人はまるで気にしていないらしく、教室の中央を陣取っている私たちの元まできて、ひょいとノートを覗き込む。


「あー無理。こんなのどこで役立つっつーの?」

「単位取得? 進級? 卒業? 大学受験?」

「留年回避なんて、そんな切羽詰った状態になったことないけどね」

「うげぇ」


 陽太はガタガタと音を鳴らしながら椅子を引っ張ってきた。満は頬杖をついている。完全に雑談モードである。


「そういえば、結局渡せたの?」


 椅子に座るなり、陽太は目の前にあったミルクティーを中央まで移動させて、両肘を机に乗せた。それで思い出した。一瞬きょとんとした陽太は、まもなく言ってる意味を理解したらしく頬を緩めた。


「なんとか?」


 陽太は軽く笑いながら首を傾げた。話がわからないだろう満にざっくり説明すると、「ほう」と興味深そうに目を細めてみせる。


「喋ってくれたの?」

「宵って、案外我慢できないタイプだよな」


 高校に上がってからは、いろんなものに無視を決め込むようになった宵だが、陽太の言うとおり、そもそも、気は短く、辛抱などとてもできない質である。今までそれが公になっていないのは、そこに至るまでうざ絡みをする奴がいなかったからだ。大抵、一度無視されるとそこで心が折れてしまう。


「うん、そうだね」


 本来の宵の姿を思い出して、クスリと小さく笑みがもれた。

 しかし、そこでふと気づくことがあった。


「——って、待って、宵……?」


 そうだ、この男は今、「宵」と呼び捨てにしたのだ。


「ちゃん付けは無理なんだってさー」

「人懐っこいと図々しいって、紙一重だよね……」


 何か可笑しいことでも思い出したのだろう、ケラケラと笑い声をあげる金を眺めて、満が的確なコメントをいれた。


「でも、俺のことは陽太って呼んでくれないけどなぁ」


 なんだか少し面白くなくて無意味に手を伸ばしてミルクティーを倒してみる。意味はない。少し、少しだけもやもやするというか、不快なだけだ。


「どう呼ばれるの?」

「ヒナ子」


 満とほぼ同時に噴き出した。なんとなく二人の会話を傍聴する姿勢に入っていたのだが、不意打ちに飛び込んだその一言が思いの外ツボに入った。私が肩を震わせていると、満が言葉を発する。


「っピッタリじゃっ、ん……! ひよこのヒナみたいな頭してるし、」


 満は、ひい、と引き笑いまで起こしている。「正確には、鶏の雛ね」という揚げ足取りはしないことにした。というより、できなかった。確かに一見したところその無造作風の金色は柔らかそうで、例えはなかなか当てはまっており、私は喋れないくらいに笑っていたからだ。


「っはぁ、腹筋痛い。でも、的射てる」

「ねー!」

「完全に恋愛対象外だよな? な?」

「日名子じゃなくて、ヒナ子、ね、っひい」


 前のめりに机に乗り出す陽太とは対照的に、また引き笑いがぶり返したらしい満は後ろに仰け反って天井を仰いでいる。


「有りそうで無かったね。陽太って誰からも陽太って呼ばれてるし」


 クラスでの様子を思い出しても、男女問わず陽太は陽太と呼ばれていた。陽太はそういうタイプだ。良く言えば、親しみやすい。悪く言えば、舐められやすい。先生にさえも、陽太と呼び捨てにされているくらいだ。そういうところに、憎めない人柄が出ている。なんだかんだいって、クラスのムードメーカーかつ人気者である。ただ、恋愛対象外として、だ。いい友達、面白い奴止まりだと予想される。


「もう少し身長が高ければ……」

「多分それ以前の問題だと思うよ」

「明ちゃん……手厳しい……」

「えっ、待って。ハルタ身長いくつ?」

「ひゃくろくじゅうごー」


 半ば不貞腐れたように、陽太がそう答えた。


「うっそ、ショックー! 勘弁してよ……私男子より高いの? やだもー」

「いや、満ちゃん、俺の台詞……」


 がっくりと机に沈み込む頭が二つ。つい可笑しくて笑ってしまう。机に貼り付けていた顎を少しだけ浮かし、陽太がこちらを恨みがましく見上げるものだから、「宵より高いから身長は関係ないって」と見せかけだけのフォローをいれてあげた。すると、裏に含まれた意図を察したのか、ただ単に納得がいかなかったのか、再び伏せてしまった。


「ねえ、でも、今まで宵と喋ってたわけじゃないでしょ? 宵バイトあるし」

「うん。帰ろうとしてるの捕まえてちょっと話したくらいかな」

「じゃあ、なんで残ってたの?」

「他のクラスの奴らと遊んでただけー」


 むくりと顔を上げた満が、若干乱れたお団子を気にしてから、「トイレ行ってくる」と席を外した。陽太も起き上がったが、重たそうに肩肘を着いて顔を支えている。しかし、ふと気付くとその瞳には覇気が戻っており、まじまじとこちらを見ていた。思わず身構える。


「てか、今更だけど、明ちゃんって眼鏡するんだね」

「へぁ? あ、ああ、これ? 勉強するときだけね。授業中もかけてるけど」


 声が裏返った。やらかした。落ち着かない右手が眼鏡のフレームを触り、浮ついた声が早口になって先を急ぐ。そんな自分の声が鼓膜に届き、耳を塞ぎたくなった。視線から逃がれようと思うも、なぜか目が逸らせず貼り付けた笑みは引きつる。なんで、私こんなに緊張してるの。陽太の口から発される言葉を待つまでの間が、酷く長く感じた。


「宵も似合いそう」


 ふっ、と微かに口元を緩める。目を一旦閉じてから、薄く、開く。スローモーションのように流れる所作に目を奪われ、そしてまもなく、階段から突き落とされたような錯覚を覚えた。天然なのか、計算なのか、馬鹿なのか、実に鮮やかな手つきである。上げて、落とす。その無神経さに、そこはかとなくあざとささえ感じてしまう。

 宵と比べられることほど、不愉快で傷つくことはない。


「同じ顔だし、宵の方がインテリ系だから私よりも似合うんじゃない。まぁ、全然視力悪くないけど」


 一瞬で凍りついた心を悟られまいと同調するように微笑んでみせたが、その分、抑揚のない音が口をついて出た。不意に、柔らかい笑顔を浮かべていた陽太の眉尻が下がった。


「でも、明ちゃんは眼鏡ない方がいいよ」

「はい?」


 その言葉の真意がわからなくて、眉間に皺が寄る。


「明ちゃんって、俺のこと好きじゃないよね?」

「えっ、」


 すると、また脈絡のない質問が飛んできて、一時停止する。それは、「俺のことまさか好きになってないよな」という牽制なのか。だとしたら、自意識過剰も甚だしい限りである。まさか。

 相手の思考が読めず、訳がわからず、苛立ちを噛み殺しながら、それらしい返答をする。


「……まぁ、今は好きな人とかいないけど」


 あぁ、と言葉を濁した陽太は、「言い方変えるね」といつになく真面目な顔をしてそう問いかけてきた。


「俺のこと、ちょっと嫌いだよね?」

「なんでそう思うの?」


 動揺を見せないように、淡々と先を促す。この話の向かう先がまるでわからない。思いがけず、張り詰めた空気が流れた。

 しかし、直ぐに緊張の糸が切れた。断ち切ったのは、その空気を作り出した張本人だ。やはり、何も考えてなどいないのだろうか。からかうように軽い口調でその考察の解説を始めた。


「明ちゃんって、俺にだけちょっと意地悪じゃん。手紙の件もそうだったし、普段からも俺には結構毒舌っしょ?」


 それは、きっと、素の私が出ているからだ。つまり、素の私は意地の悪い人間であることを示している。


「……嫌われてると思うのに、私に協力させるんだ。そんなに宵が好き?」


 我ながら刺々しい言葉である。自分自身ですら、何がこんなに苛立つのかわからないまま、相手を挑発するように口元からは嘲った笑いがこぼれ落ちる。目はきっと笑っていない。


「ほら、やっぱり意地悪」


 思わずムッとした。間髪を容れずに切り返されて言葉に詰まる。


「でも、俺、意地悪な明ちゃん嫌いじゃないんだよね。だから、眼鏡で隠されない方がいい」


 ははっ、と軽く笑い飛ばした陽太の、その柔らかな日光のような笑顔に、その言葉に、面食らってしまった。「眼鏡はない方がいい」という先ほどの発言の意味にようやくたどり着いた。 

 そして、意味を咀嚼するなり、カッと顔が火照った。


「あっ、照れた? 参考にしよっと」

「……」


 悪気のない笑顔にある種の憎らしさを覚えた。これ本当に天然でやってのけてるの? あざとくない? 負け惜しみに悪態を突く。もちろん、胸の内でこそっと、だ。

 丁度そこにタイミングよく満が帰ってきた。その頭のお団子はもう綺麗に作り直されている。


「ただいまー」

「おかえり」

「どうする? もう勉強とか無理っしょ? 帰る?」


 戻ってくるなり、立ちながら机の上の教材を片し始めた。ペンを筆箱に戻し、問題集に付箋を挟み、閉じる。それを陽太が慌てた様子で引き止めた。


「えええ! 待って待って。早くない?」

「なによ、ハルタ。あんた帰りたくないの?」


 制止をかける手を払い除け、トントンと机を鳴らし教材の高さを揃える満は、帰り支度の片手間に質問を投げかけた。陽太は正に何か閃いたといったふうに、身を乗り出してとっさに声をあげた。


「あっ! ねっ、俺にも教えてよ」

「何を?」

「勉強!」

「えっ」

「は?」

「ねえ本気でひどくない?」


 思わず満と顔を見合わせる。そして小さく首を傾げた。


「でも、もう結構暗いよ? いつ終われるのかわかんないじゃん」

「いや、逆に即刻終わるという可能性も」


 二人して散々好き放題言ってやると、陽太が大袈裟に頭を抱えた。


「心折れそう」

「嘘つけ。全然気にもしてないくせに」


 満が片腹痛いわと言わんばかりに、ばっさりと切り捨てた。


 私は事実確認に入る。

 確認中。確認中。


「ちなみに、どこがわからないの」

「わからないところがわからない」

「ダメだこりゃ」


 さもお手上げだと、満は脇を締め両手のひらを上に向ける。私も肩を竦めるしかなく。

 それでも、ある考えが浮かび上がり、呆れながらも転かしたままだったミルクティーに手を伸ばした。


「本当に教えてほしいなら、明日教えてあげるよ」

「まじで?」

「陽太こそ、本気?」


 ストローを刺して、口に含む。疲れきった脳に糖分はやはり必要である。安っぽいミルクティーの安っぽい甘さが口内を占める。私は一つ決断をした。


「やるやる! 本気!」


 ということで、そういうことだ。

 帰り道の違う陽太とは校門前で手を振り、自転車をつく満と並んで歩く。陽はもう沈みかかっており、東と西で見える景色がまるで違う。まだ少し明るい西の空を見つめていると、満が周りをキョロキョロと見回してから口を開いた。


「ねえ、メイ。本気? いいの?」

「陽太のこと? いいのいいの。ちょっと考えがあるから」


 私は危機感を覚えていた。取り返しのつかないことになる前に、遠ざけなければならないと。まだ間に合う。まだ、大丈夫。心配する満を安心させるように、微笑んでみせた。

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