05
あれから——私が不注意にも協力する意を示してしまった時から、本格的に陽太は遠慮なしに私を利用しだした。
「明ちゃん! どうしよう!」
「……どうしたの?」
「っふ、ふふ、早速お出ましーぃ。メイ、頑張って!」
他人ごとだと思って笑いを噛み殺す満にムッとする。しかし、まもなく薄情にもひらひらと手を振りながら違うグループに向かってしまったので、がっくりと項垂れる他ない。
「お詫びなら、何がいいと思う?」
そっとしといてあげるのがいいと思う。口からは出せず、遠慮がちに口角に笑みを乗せた。無邪気な淀みない笑顔が、確実に私のストレスを増幅させている。
「宵は野菜ジュース好きだよ」
「じゃあ、一緒に来て選んでよ!」
私の話なんて聞いちゃいない。遠目にこちらを確認していたらしい満が、今度こそ耐え切れず噴き出した。覚えてなさいよ。恨みがましくそちらを睨むも甲斐無く強制連行されてしまった。
昨日の今日だ。あの迂闊な判断を下してしまったのは。こうして翌日には、もう私の貴重な昼休憩を邪魔しにくる図々しさである。後悔しかない。それに、頼まれたからには何とかしないと気が済まない質が祟って、もう既に酷い目にもあっている。
——昨日帰宅してからのことだ。正確には、宵がバイトから帰宅してからのことだ。
午後十時半頃、私は自室でテスト勉強のために机に向かっていたのだが、扉をノックされたかと思えばその直後扉が開かれた。それではノックの意味がない。という小さなツッコミは胸の内に仕舞う。くるりと椅子を回転させて振り向くと、制服姿の宵は私の前を通り過ぎ、一直線に奥のベッドへと沈み込んだ。掛け布団に顔をうずめながらくぐもった声を響かせる。
「昼間のあれ、なんだったわけぇ」
「うん、宵、ごめん。正直、私悪くないと思うんだけどね……」
「なんで助けてくれなかったのよ」
顔をあげた宵が、傍にあったトーストをモチーフにしたクッションを抱き、窓側にごろりと寝返りをうった。明らかに拗ねたようなふくれっ面で、こちらを見上げている。
「悪い奴じゃないんだって」
露骨に子供っぽい表情を浮かべる宵は、学校の様子からではとても想像がつかないだろう。むっすうと不服そうにして黙り込む宵に、なるべく優しい声色で陽太を紹介してみる。
「ちょっと……すごく馬鹿だけどね、軽くて、お調子者で、馬鹿で、手に負えない、」
「それ全部悪口だって気付いてる?」
「うーん、でもどこか憎めないし、へこたれないから、宵も話しやすいとおも、」
「それで、また厄介事引き受けてきたんだ? 本当に、お人好しなんだから」
バッサリと切り捨てるような物言い。宵は一旦口を開くとズケズケとものを言う。口は災いの元だということを私はこの妹から学んだ。とはいっても、宵の言うことは大抵正論だ。今のもそうだ。返す言葉もなく、苦々しく笑うしかない。
それにしてもだ。協力することを承知してしまった手前、それなりの試みはすべきだろう。
「でも、本気で宵のこと気になってるみたいなの。ね、一回さ、話すだけでも」
「もし、私がそいつと話したとして、何かあると思うの、明はさぁ」
ぐっと言葉に詰まる。取り付く島もないといったところか。私自身、陽太と宵がどうにかなるなんてこれっぽっちも思っていないのは確かに事実である。それでも、もしも私が宵と逆の立場であったなら、頼まれてきた宵を立てるためにも了承するだろう。言葉を濁す私に止めを刺すように、宵はため息混じりにそう言った。
「はじめから無駄だってわかってること、別にする必要ないでしょ」
「——そうだね」
宵にその言葉を言われると、私は、私の全てを否定されたような心持ちになる。どれだけ努力しても、敵わないことを知りながら悪あがきする自分に対して言われているようで。胸の内に黒い感情が染み入る。それでも、表面上はヘラリと軽い笑みを浮かべてみせた。
「変な話してごめんね。バイト疲れたでしょ? はぁい、チョコあげるぅ」
「げっ、いらないって! そんな甘いの!」
「えー美味しいのにぃ」
「明、また太ったんじゃない? テスト前になったら太る癖やめたら?」
「テスト終わったらまた元に戻すからいいのー!」
人が気にしているところをさらりと言ってのけた宵は、それじゃあね、と最終的にはいい笑顔で去っていきましたとさ。
宵はいつも言いたい放題言って、私に決して甘くない現実を無遠慮に突きつけてくる。それにいちいち傷ついて落ち込んで、私の張りぼての自尊心はあっけなく崩壊するわけだ。どれだけ自分の肩書きやら立場を並べ立て、優位にいるつもりになっても、結局は宵の一言であっさりと引き摺り下ろされてしまう。そして、気持ちを吐き出すこともできずに、笑うだけ。
宵とは、今まで喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。一度だけそれらしいことはあるが、私は何も言い返すことができなかったので、おそらく喧嘩にカウントされない。宵が一方的に不機嫌なことはあっても、それをこじらせる前に私が上手く機嫌をとってきたからだ。それに、私は宵以外の人とも喧嘩などしたことがない。相手の機嫌が悪い時は、自分の気持ちを押し殺すことができるからだ。
宵は正反対だ。小学校や中学校の時は、それこそ、気に入らなければ誰彼構わず噛み付いては正論をもってしていろんな子を泣かせていた。今はそんな争いが不毛だと思っているのだろう。誰も寄せ付けず、一人の方が楽だと言い張っている。
あの頃は、それだけで——宵が周囲と上手くいかなくて目に見えて苛立ち不安定だったことで、どれだけ私の自尊心が救われていただろうか。高校に入ってすっかり落ち着いてしまった。
苦々しい思考を紛らわすように、宵が受け取らなかった一欠片のチョコを口に放り込む。
そういえば、テスト勉強の途中だった。陽太には明日謝ろう。
口内で溶けるチョコだけがやけに甘かった。
——意識を目の前に戻す。
食堂を出て直ぐ左に設置されている自販機の前で、金色が右に揺れた。そしてこちらを振り返る。
「野菜ジュースがない場合は?」
「……100%のフルーツジュースかな」
「なるほど。 アップル? グレープ? オレンジ?」
「どれでも好きだと思うよ」
「じゃあ、全部でいっか」
お礼にしろお詫びにしろ、この金色に覆われた内にはジュースしか選択肢がないのだろうか。視界が自然と狭まる。背後から見ている分にも、陽太は随分と上機嫌である。日名子陽太という人物は、やはりよくわからないと思った。こんなに親切に接してあげている私よりも、暴言を吐いてきた宵が好きだというのだから、並の神経ではないだろう。僻み混じりの皮肉をそっと胸中でぼやく。昨夜の出来事を思い出して、その根本の原因である人物がご機嫌であるのが、気に入らなかったのだろう。意識せず私の心はささくれ立っていた。
「宵のどこが好きなのよ」
ハッと、思わず手で口を押さえた。つい口から漏れ出した言葉が、あまりに突っ慳貪なもので驚いたのだ。そこでようやく自分の心中が穏やかでなく、この男を小馬鹿にして嘲るというよりも、ただ単純に苛立っていただけということに気付く。目線の低いところにある金色が急にくすんだような気がした。多分、八つ当たりしてしまった罪悪感からだ。
落下してきたジュースを取り出しながら、ちらと私を上目に顧みた陽太の顔には、影がかかってその表情がよく見えなかったが、相手が口を開くよりも先にそれらしい言い訳を後付けた。
「ごめん、きつい言い方した。でも、姉としては中途半端な人には、やっぱり手伝えないじゃない? 大事な片割れなんだよね」
やけにゆっくりと立ち上がった陽太は大袈裟に首を捻った。んんん。これまたわざとらしい唸り声。私に背を向けながら、その視線は上に向けられている。
「明ちゃんを安心させられるような理由は……思いつかな……。うん、思いつかない」
最終的にきっぱりとそう言い切って、陽太はまた自販機と対峙した。チャリン。ピッ。ガコン。ジュースを買う一連の流れは聴覚だけでも想像に難くない。一体何本買うつもりなのか。
「でも、昨日ので、高嶺の花だと思ってたきらぼしさんが急に近く感じたんだよなぁ。なんつーの、親近感? あれで、苦笑いとかされてたら、とてもそれ以上踏み込もうと思わなかったかもな」
陽太はようやく体ごとこちらに向き直った。陽太にその気などないに決まっているが、自分のことを言われているような気がして、貼り付けかけた苦笑いをとっさに剥がした。不意に、はい、と何かを手渡される。反射的に受け取ると、ひやりとした。陽太はニカッと笑う。その顔はなんというかこちらが脱力してしまいそうな程に馬鹿っぽい。金色が相まって精神的に幼く見える。
「はい、もう逃げられない」
「……は、」
「それ」
脈絡のなさに眉間に皺が寄る。一拍おいてもれた一音さえ遮るように、陽太は私の手にあるパックのミルクティーを指差した。昨日献上されたミルクティーと全く同じものである。
「受け取ったからには、俺に協力するしかないよ? それ先払いだからね」
陽太は途端に口の端に悪戯めいたものを閃かせた。
「えっ!」
これほど割に合わない不平等な取引はあるだろうか。いや、もはや取引ですらない。いわば詐欺だ。
「頼りにしてるよ、おねーさま」
語尾にハートでも付いてるんじゃなかろうかというような媚びた声に、つい、露骨に嫌な顔をしてしまった。
「あっはは、顔! 酷い!」
「酷いのはどっちよ!」
陽太の勢いに乗せられて、ぎゃんと噛み付いた。すると、狐につままれたようにぽかんと口を半開きにする陽太がいて、しまったと思った。
「……きらぼしさん宅の双子ちゃんはギャップ萌えですなぁ」
どこか小馬鹿にするように含み笑いをもらした赤点常習犯のこの男。しかしその笑みが眩しくみえた気がした。きっとその馬鹿っぽい髪色のせいだ。馬鹿に小馬鹿にされる覚えはない! と、流石にそれは喉元で留めたが。下唇を噛み締める。そんな私を見て危機感を覚えたのか、陽太はさっさと方向転換した。その時、光が反射してその耳についた星がチカッと光った。
目が眩む。
目映い金色が逃げるように小さくなって行くのを見つめた。時間差で頬にじわじわと熱が集う。ミルクティーを頬にあてがい、考えることを放棄した。まさか、口だけ動き、声にはならなかった。