「ハーレムとはなんぞや?」蛇足編「ハーレムの嫌悪感とはなんぞや?」
初めに。
本文は拙作『なろう作家御用達「ハーレム作品」とはなんぞや?』が望外の反響があった事に付随して、その感想においてハーレム作品の嫌悪感についての言及が非常に多かった事を受けて、またも思い付きでそれらについて焦点を当てて考察した内容になっております。
人の感覚について考察する性質上、前回よりも客観性はあまり担保できない為、あくまで一つの参考材料としてお楽しみ頂けると幸いです。
閑話休題。
ひとまず最初の切り口として、私個人のハーレム(前回で言う所のフィクション特有の恋愛至上主義的)作品に対する感覚を明確にしてから、そこから展開していきたいと思います。
私はそういうハーレム作品に対して「自分は容認寄りかな?」と思っています。
少なくとも読者としてならば、ハーレムタグがついていても気にせず読みますし、作者の技術がよほど稚拙で無ければ「まあ、こんなもんかな」と思います。嫌悪も否定もしません。
ここで今作を書くきっかけと言いますか、あくまで個人的な見解なのですが、前作の感想欄において、作者の技術的な拙さが生み出すつまらなさと、ハーレム作品が持つ嫌悪要素を、同一視してしまっている方が多くいらっしゃるように見受けられました。
たしかに内容やキャラクターが薄い、浅い、稚拙なハーレム作品は他のテンプレシチュ要素を持った作品に比べてより酷く感じる気がしますが、おそらくハーレム作品が持つ本来のマイナス要素とは別物だと思われます。
何故かと言いますと、読者としてはある程度ハーレム系の作品を楽しんで読んでいるはずの自分が、その要素を含む作品の書き手に回った途端、今までにない嫌悪感・抵抗感を覚えたからです。
その時の事をより詳しくまとめますと、実際に執筆する前、つまり構想及び企画の段階ではそれほど嫌悪感を持っていませんでした。
むしろ、上機嫌で「さーて面白いの書くぞお!」と思い書き始めました。
しかし、しばらくしてから「あれ……ハーレムって書きにくい?」と抵抗を感じ始めました。
特に、ハーレムメンバーの描写を始めた途端、その作品の執筆が終わるまで苦しむ事になりました。
その時の作品は短編としてアカウントに残っておりますが、読めば分かるようにその作品においてハーレムは決してメイン要素ではなく、オマケ要素でしかありませんでした。
にも関わらず、当時は書き上げるのに中々苦労した記憶があります。
そして書き上げたハーレム部分を読むと、自分が面白いと思った作者様がたのソレと比べて明らかに蛇足感が強く、それ以前に投稿した作品に比べポイントの伸びも明らかに悪いものでした。
もちろん、それのせいだけで作品全体の評価が伸びなかったとは言えません。単純に私の技量不足だとも言えます。
或いは、ちゃんと恋愛しているハーレムメインの作品を書けばまた違う手応えになる可能性もあります。
が、少なくともその作品に対する自己評価が低い事は自覚しておりますし、今現在はそれメインの作品を書きたいとは全く思えません。向いてないと抵抗感すらあります。
つまり私は読み手としてはハーレム作品を受け入れられる素地があるにも関わらず、また、書き始める事自体に抵抗は無いのに、いざ執筆を開始してキャラクター、特にハーレムメンバー側と向き合った途端に辛くなったわけです。
この事からハーレム作品が持ち得る負の要素は、書き手の技量や主人公よりも、そのメンバーとなる異性キャラがより強く持ち得るのではないか? と仮説を立てたいと思います。
前作において、ハーレム主人公は承認欲求を満たす代理人としての側面があると、私は考察しました。
つまりメンバー側を書くに当たって必要最低限な事は、恋愛感情に発展しうる主人公の魅力を設定し描写しなければなりません。
ここが私が執筆にあたって苦労した点です。
程度にもよりますが、たいていの作品の作者は主人公にある程度感情移入して書いているはずです。
つまり、自分のモテる(理想の)要素を捏造して付加して「だから主人公(自分)はモテるんだぜ!」と、書くわけです。
控え目に言って気持ち悪いナルシストですね(白目)。
そしてハーレムメンバーは、作者及び読者が感情移入している主人公を愛する・承認する理想的存在、つまり自己を都合よく愛そうとするナルシシズムの要素を持つと考えられるのではないのでしょうか?
先程も自虐しましたように、一般的にナルシストは気持ち悪いと捉えられる事が多いですが、一方で自己評価が高いが為にアグレッシブな行動を取りやすいなど、一概に悪い要素とも言えません。
また、ナルシストを全開にしている一部の芸能人の方などは“面白い人”という要素として捉えられる事がしばしばあり、一定数のファンがついています。
言ってしまえばハーレム作品が平然と書ける作家は一種の才能であり、本質的にはナルシシズムが強い方であると言えるのではないでしょうか。
私がハーレム物を読者として楽しめるのに書き手側で苦痛に感じてしまうのは、本質的に自己評価や自己性愛が低い為であり、このナルシストのファンのように一歩引いた視点でハーレム作品を見ていたからではないのかと考えられます。
つまりハーレム作品は、主人公が読者や作者の承認欲求を満たす代理人としての役割を持ち、そしてそのメンバーは自己性愛の象徴であるが故に嫌悪の対象にも娯楽の対象にもなりうるのではないのでしょうか。
思い返せば、先述した短編でハーレムメンバーを書く際に覚えた強い抵抗感は、自身の中身が伴わないカッコつけがバレた時のような気恥ずかしさがあったように思えます。
またその結果、いくらメイン要素ではないとはいえメンバーキャラクターの掘り下げや描写を充分に行えていなかった気もしますので、自分でも納得したクオリティに仕上がらなかったのは当然だったのかもしれません。
ハーレムメンバーの描写が薄い=主人公(作家や読者)を愛する・承認する力が低いと言える為、他のテンプレシチュに比べ実力不足が叩かれやすいのにも一定の理が通ると考えられます。
では、主人公側に嫌悪要素が無いのかと言われれば、これも否でしょう。
主人公側にもナルシシズム的な要素が含まれています。
ただし、自己愛の要素が強かったメンバー側とは違い、こちらは見栄やカッコつけといったナルシストの人に見られる独特の虚栄心、自己自信の要素が強いと言えるかと思います。
作者の理想の存在、それに感情移入してナルシシズム的な承認欲求を味わえる方、そして自分自身はナルシストとしての素養が無くても一歩引いた視点で楽しめる方。
それ以外の方が、恐らく本当の意味でハーレム作品に対して強い嫌悪感を持つ方が多くなるのではないでしょうか?
そして、作者の技量が低いと言いつつ多数のハーレム作品を読めている方達は、多分本当の意味でハーレム作品に嫌悪感を持っているのではなく、承認欲求を十分に満たしてもらえないが為に抱いた不満が嫌悪感にすり替わっているのではないかと思われます。
ここまでをまとめさせていただきますと、ハーレム作品が持つ嫌悪感の正体と言いますか、その大部分を占めるのはナルシシズムなのではないかと。
勿論それが全てではなく、この後もいくつかの可能性のある要素について考察していきますが、個人的にはコレはかなり大きな要素ではないのかと私は考えています。
他にハーレム作品が叩かれる要素として、やはり現代社会通念上、複数の異性関係というものは不誠実に見えるから、という考えはとても自然で当然のように思えます。
殊にフィクション特有の恋愛至上主義的ハーレムではこの声は顕著です。
が、一方で現実的な政略的利害関係に関わる重婚要素ややむを得ない事情が加わると、途端に許容できる人が多くなるように思えます。
仮にそのハーレム或いは後宮または大奥の主たる男に想いを寄せる女性たち、そして男が複数の女性の間で気持ちが揺れ動く様子や肉体関係に溺れる描写があったとしても、何故か嫌悪感剝き出しの非難めいた声は少ないように思えます。
例えば、N〇Kの某長編歴史ドラマ等は時代設定によってはそういう描写があるのにも関わらず、多くの人から受け入れられています。
(「そういう作品だから」とか「ただ歴史的事実に基づいているだけだから」という反論はあると思いますし。私もそうかもしれないと思うので否定はしません。が、ドラマや原作となった歴史小説の大半は現代人が描いた想像上の創作物であり、複数の異性関係自体はそこに描写されているという純然たる事実として留意して頂きたい)
これは主人公に付加される要素として『義務』という名の、言ってみれば社会通念的非難に対する大義名分となるものの有無の差が大きいと考えられます。
つまり、主人公に付与された義務によって嫌悪感が解消或いは減少する方は、ハーレム行為そのものに対して嫌悪感を持っているのではなく、自らの感情移入の対象であるキャラクターが公序良俗に違反する振る舞いが許せないと感じるだけでなのでしょう。
よって、誰に言い訳するわけでもない大義名分さえあれば、実際にはそういった関係性自体は楽しめる素養を持った人は存外に多く、社会通念的な不誠実さはハーレム作品の嫌悪感を構成する要素としてはそれほど大きなものではないように思われます。
無論、主人公がメンバーに対して不誠実な振る舞いをするのは嫌悪の対象となって当然ではあると思いますが……それはハーレムに対してではなく、主人公というキャラクターが持つ要素に対する嫌悪感であるはずです。(ハーレムでなければやらかせない類の振る舞い、という意味では元凶である事には間違いないでしょうが)
一方で同じく社会通念的な理由のものとして、メンバーたる異性キャラクターを様々な典型的特徴で区分けされた、いわゆる「お人形さん遊び」と揶揄可能な多数の属性キャラを集めて陳列する際に記号的な扱いでハーレム要素が用いられている作品は、非常にヘイトを集めやすいと考えられます。
要するに作者は異性キャラクターの人間性を重視せず物扱い奴隷扱いしているわけで、現代社会通念的にアウトとみなされますが、前述とは違いその人格を無視してもよいという大義名分をつけづらい(犯罪者であっても人権は守られるべきとされるくらい)なので容認され辛いのです。
もっとも、この“都合のいい登場人物”濫用による作品への顰蹙自体はハーレム物に限ったものではなく、その作家自体の技術的な能力に疑問符がつくだけなので、これだけではハーレム作品特有の嫌悪感と呼べません。
が、ここに現代の『男女平等』という概念が結びついた途端、特筆すべきレベルまで嫌悪の度合いが跳ね上がるように感じられます。
更に興味深いのはこの様相は逆ハーレム、つまり女性が複数男性を侍らす状態に比べると、男性が複数女性を侍らす一般的なハーレム状態の方が明らかに非難の度合いが顕著であるように見える事です。
これはハーレム、つまり一夫多妻制は現在先進国とみなされる国々においてもその歴史を遡ると過去にはその慣習が存在していた場合が多く、それが女性の社会進出と共に廃れていった背景がある事は、おそらく一般的な共通認識として考えても問題無いでしょう。
つまり一夫多妻制を表す言葉自体が前時代的で女性蔑視の象徴として捉えられていると考えられ、ハーレムメンバーに属する女性キャラはそれだけで性差別を受けていると捉える事が可能であり、そこに更に性的差別問題以前の人間性を無視するような扱いが上塗りされる事によって、嫌悪の度合いが跳ね上がるのだと言えます。
この逆ハーレムにはあまり当てはまらない女性ハーレム特有の、自然で歪で当然かつ特殊なフェミニズ的嫌悪感は、ハーレム特有のものと呼べるのではないでしょうか。
以上をまとめると、個人的な見解としてハーレム作品特有の嫌悪感は、そのシチュエーションがもたらす承認欲求を満たす構造を支えるナルシシズムと、歴史的背景からなる女性蔑視への強い忌避感が、要素としては大きいと言えると思います。
前置きしたように考察材料に主観的なものが含まれておりますので、正確だとは言えないと思いますしが、これで全てであるとも断言できませんが、書いた内容自体はそれほど的外れでもないかなと? 自分では思っています。
最後に、何故私が今回の事を考察したのかだけ述べさせていただきますと、ただ単純に思い付きで考察したかったから、それだけです。
これを読んだ人に意見を変えてもらいたいとか、書く人はここに注意して欲しいとか、そういう強い意図は全くありません。
せいぜい、これを読んだ事を機に自分の他作品も読んでもらいたいなあ、くらいは思っていますけれども。
最後まで読んでいただきありがとうございました。