プロローグ
時刻は夕方の6時半ごろを回っていた。夏の日だったが、今日はそんなに暑くはない。
むしろ流れる風が首筋をなでて、気味が悪いほど辺りは鬱蒼としていて少し肌寒かった。
長谷川栄一がふと上を見上げた時、夜に近づいた空と真っ白い雲が流れているのを見た。それにオレンジ色の夕日が射している。
さらに横を見ると、光のせいか臼黒くなった河川がある。川幅は広く、ゆらゆらと不気味な影を映しつつ波打っていた。
友人との学校帰り、彼はいつもこの時間帯に河川敷など通らないのだが、今日は何となく、遠回りをしてみたい気持ちになった具合である。
その「何となく」が怪異への入り口。
その「何となく」が栄一に巻き起こった、凄まじい精神変化の道のり。
錆びかけの街灯が回りでチカチカと光っている。
一匹の蛾が、そのオバケ街灯に
「バチン、バチン」
とぶつかってきた。
と、その時だった。
静けさの傍らから女性の叫び声が聞こえた。
しかも結構近い。橋の上である。
「誰だろう?」
栄一は隣の友人に聞いた。
「……………いや、通り魔だ!」
その友人が指差した方向に目をやると、橋の上で二人の影が見えた。
黒ジャージの男が、女性を脅しているのだ。
「まずいっ!」
栄一は考えるより先に足が動いていた。
その正義感は世間からは大きく称賛されるだろうが、この場合、行くべきではなかった。
「栄一やめとけ!お前死ぬつもりか!」
友人の制止を振り切り、彼は声を発した。
「お前は警察に通報してくれ!」
栄一には、黒ジャージが持っている出刃包丁がなぜか目に映らなかったらしい。
いや、分かっていてやっているのだろうか。
とにかく、女性が声をはり上げててから数秒のうちに、その一瞬の間に、彼は通り魔に体当たりを仕掛けたのだ。
黒ジャージは飛んでもなく驚いていた。
なぜなら、栄一たちの存在に全く気がついていなかったからである。
そうして、女性のみを狙うつもりが、学生が来てしまったのだから決まりが悪いではないか。
奴は、逃げようとした。全力で。
しかしその逃げ出そうと試みた黒ジャージに向かって、
「おい待てよ!」
と、彼は胸ぐらを掴んで止めてしまったのだ。
「ああああっっ!!」
逆上した通り魔が腕を降った。
その時、栄一の脇腹に打ち身のような鈍い痛みが通る。
殴られたか?
と、彼は一瞬そう思ったが、感じが違った。
殴られた部分がヒリヒリするのである。
次の瞬間、服の下に水滴が滴り堕ちる感覚に驚愕した。
「いや、刺されてる!」
栄一は、この時になって始めて恐怖を覚えた。
刺されたのに、傷口に見合う程の痛みがない。
本能的にこれは危機だと直感した。
そして、女性に目をやる。
その女性の細い首筋と喉の部分をできる限り注意深く観察した。
彼が最も恐れる事は、通り魔の犯人と、取っ組み合いになっている事よりも、目の前の女性が頸動脈かなんかの損傷で、命を落としてしまう事だった。
それが彼にとっての一番の恐怖だった。
だが、切られているのは鞄で、女性が無事であることが分かり、彼は安堵した。
その時、声が聞こえた。
「大丈夫かよ!栄一!」
友人だ。
「この人を逃がせ!コイツの目的は殺しだ!」
叫ぶと同時に、刃物が飛んできた、だがスクールバックのお陰で助かった。
そして次の瞬間、何を思ったのか栄一は柵の上に上がったのである。
すぐ後ろには、巨大な黒い水の流れがある。
同時に、通り魔も、柵を乗り越えようと試みた。
栄一は薄ら笑いを浮かべた。
「まともな判断が出来なくなってやがる」
それを見た友人は驚愕した。
「あの野郎、犯人を川に落とす気だ!」
栄一は友人の読みと同じく、奴を落とそうと考えたのであった。
だが、事態は悪い方向へと動いた。
奴は刃物を川に投げ捨てて、栄一に掴みかかったのである。
「まずい!」
そう思い、彼はバランスを取るために奴の服を掴んだ。
その時、だった。
彼は足を踏み外したのである。
もちろん、通り魔も同じように。
刹那だが、お互い、断末魔だった。
狂気の人間と共に、黒く濁った河川へ自由落下する様はまさに修羅の道。
そのまま、栄一は凄まじい水飛沫を上げて、河川に落下した。