緋鎚の若頭
広い海原には様々な船が浮かんでいる。商船、奴隷船、客船に軍船。それに私掠船、海賊船。それぞれが目的を持って、思い思いに舵を取っている。
海は自由である。国境を定められ、切り分けられた陸よりもずっと自由である。だが自由であると同時に無情でもあった。一度海へ漕ぎ出してしまえば、それが小舟だろうと船艦だろうと関係なく、海はその広大さを以て圧倒してくる。高波、渦潮、嵐や岩礁。船が沈む理由は幾つでも挙がった。
また沖に出てしまえば、そこは無法地帯でもある。海賊は勿論、他国の私掠船、戦争による軍船同士の戦い。海底に沈む鉄屑と木片は数知れなかった。港を出てから目的地に辿り着くまで、洋上で頼りになるのは己の力のみだ。
そこに目を付けて、とあるビジネスを始めた船があった。出発地から目的地までの護衛サービスである。海の傭兵のようなものだ。客は善良な一般市民でも、国から睨まれた札付きでも構わない。向こうの言い値を払い、船の素性を喋らない。この二つを守りさえすれば、安全な航路が保証された。今のところ失敗例は耳にしない。そもそも、風の噂にしか聞くことのできない傭兵集団である。
だが彼らは確かに存在していた。
***
とある岬の灯台に、長々と一筋の旗が翻っていた。夕日に負けず劣らずの鮮やかな緋色である。ここはメモーリア海域、アウロラ帝国からはずっと南に下った小さな島だ。島はそこでの小さな抗争を制した有力者が統治し、小さいながらも平和を保っていた。周りにもそう言う島々がいくつかあり、互いに協力したり牽制し合ったりしている。
灯台に初めて緋色の旗が飾られてから今日で三日目になる。
旗をつけさせたのはこの島を束ねる氏族の当主、アレッシオ・ロンターニであった。
彼は七日前に大陸の広告へ朱色でこの島の名前を載せた。それから四日後に、その広告へ【緋色の旗を掲げろ】と朱色の文字が載った。アレッシオは直ぐに緋色、噂によると大きくて赤っぽい色であれば何でも良いらしい、布を灯台に掲げた。そして今日か明日かと待っていたのである。話に聞く海の傭兵を。
この島は今、ちょっとした平和の危機にあった。
メモーリアを含む世界の広範囲で死の病が流行したとき、アウロラ帝国は呪術の力を以てその病を克服した。そしてその機に乗じて、メモーリア随一の国家にのし上がった。以降、陸続きに周辺諸国を属国化させ、その力は海を越え近隣の島国にまで及んでいる。アレッシオが治めるイアイラ島は差ほど影響なかったが、全くない訳でもなかった。度々アウロラ海軍の船が島から目視出来る距離を通ったり、私掠船が島の貿易を邪魔したりしていたのだ。
だが、今までならそう立て続けに起こることはなかった。地理的に遠い分、手を出してくる回数も少なかった。それがここ数ヶ月で急増し、武器や布などの輸入に支障を来していた。
島は平和を保っているが、武力があってこそ守られる平和である。それに力が落ちたと知られれば、周りの島がいつ手のひらを返すかも分からない。鉱山を持たない小さな島が大量の武器を揃えるには、どうしても輸入しなければならなかった。
一番近い大陸までほんの二週間ほどの距離である。手配した貿易船が来ないのであれば、直接買い付けに行って来るしかない。一月足らずの航海に問題はないが、せっかく出す船をまた私掠船に襲われるのは何としても避けたかった。
そこでアレッシオは、商人から聞きつけた噂話を頼ってみたのである。
広告を出してから返答が来るまでの四日、藁にも縋る思いであった。
更に旗を掲げてから二日、朱色の返事が悪戯でないことだけを祈っていた。
だから三日目の夕暮れ、夜よりも一足早く黒い塊が港を訪れたとき、彼はその報告を聞いて直ぐに馬を飛ばした。小さな港に停泊した一隻のガレオン船。驚く島の住民たちを掻き分け、アレッシオは桟橋の先端へ立った。
マストのてっぺんに旗は見えない。ただ灰色の帆がゆるく風を受けているだけである。ガレオン船はどこもかしこも煤塗れのような黒塗りで、側面にはいくつもの砲門があった。"海の傭兵"と聞いていたが、まるでどこぞの海軍の戦列艦である。上の方でガヤガヤと声が響き、程なく橋桁が渡された。
期待に胸を膨らませるアレッシオの前に一人の青年が下りて来た。よく日に焼けた、髪の短い青年である。小柄ながらもがっちりとした体格で、腕に覚えありと言った風であった。青年が歩くと、耳に付けた細長い形のピアスが金塊のように光を反射した。
「こんにちは!アレッシオ・ロンターニさんに会いに来たんだけど」
「ようこそイアイラ島へ!お待ちしておりました!私がアレッシオです」
「ああ、やっぱり。だいたい本人が来るんだよね~」
アレッシオが握手を求めると青年は軽く触れる程度に応えてくれた。それからもう二隻船が着くと伝えられ、三百人分の酒と食料を要求された。アレッシオは船が一隻だけでないことにも酒と食料の数にも驚いたが、ただ黙って言われるままに手配をした。
何せ貿易の邪魔になっているのはアウロラ帝国の私掠船である。周りの島々は利が無いと言って手を貸してくれないし、陸にも護衛船団を組んでくれる相手がいなかった。
朱色の字を見て現れてくれた彼らだけが頼みの綱である。
「じゃあ、とりあえず話せる場所に行きましょうか。アレッシオさん」
「え?ああ、君が交渉役なのかい?」
先を歩き始めた青年に向かってアレッシオは素でそう尋ねた。青年は確かに強そうであるが、四十後半のアレッシオから見れば若い息子のようなものである。格好も半袖の上着に八分丈のズボン、指先が出たグローブにやや長めのブーツで豪華さはない。交渉役よりも更に格下の一般水夫に思えた。
しかしアレッシオが何気ない言葉を口にした瞬間、その両側に岩のような船員が睨みを利かせて並び立った。
「おい、ウチの頭に対して口が軽すぎるんじゃねぇのか?」
「テメェの目の前にいるのはこの船の船長だぞ。生きて話せること光栄に思え」
「ひっ……ひいっ!えっ、えっ?」
全身の毛が逆立つ恐怖に飛び上がり、アレッシオは思わず前を見直した。彼が船長?目の前にいるのはどう見ても、ただの年若い男である。とても役職者には思えない。しかし岩のように厳つい水夫は彼を"かしら"と呼んだ。当の本人は軽く笑いながら歩いて行ってしまった。
アレッシオは動悸が収まらないまま、とにかく青年を屋敷へと招いた。
イアイラ島は中央に小高い山が連なっている。そのうちの一つに、ロンターニ家の屋敷はあった。港からは繁華街や居住地を大回りしなければ辿り着けない。しかし屋敷からは眼下に位置する港の様子がよく見えた。
アレッシオは先ほど聞いた言葉を信じ、青年を船長として迎え入れた。一番上等な応接室に案内し、長椅子を勧め、その正面に座った。青年には水夫が三人付いてきたが、二人は扉の外で待機し、部屋に入ったのは一人だけだった。その一人は青年が座る長椅子の後ろに立ち、そこからアレッシオを睨んでいる。アレッシオと同席した彼の秘書は、それだけで生きた心地がしなかった。
内心びくつきながらも、アレッシオは意を決して話を始めた。噂の傭兵集団が現実にやって来たのである。ここで武器の入手を成功させなければ、今後アウロラ帝国にも、近隣諸島にも太刀打ちができなくなってしまう。それは何としても避けたかった。
「改めまして、この島の当主、アレッシオ・ロンターニです」
「船長、エリオ・アルベローニだよ。よろしく」
エリオと名乗った青年は気さくに挨拶をしてみせた。やはり船長にしてはだいぶ若い。二十そこそこの様だ。アレッシオは不安を感じつつも口を開こうとした。その鼻先に、ピンッと指が一本立てられる。エリオがまずは、と断りを入れて料金の話をし出した。
「俺たちの噂を聞いて広告を出したようだけど、金額の話は知らない?呼び出し料に銀貨三枚。それから相談料に銅貨十五枚。それをテーブルの上に出してからじゃないと、俺は話を聞かないよ」
「……分かりました」
のっけから金を要求されアレッシオはやや顔を曇らせたが、執事に合図をして言われた通りの額を置いた。ここで渋っては意味がない。値段が相場以上だと言うことも聞いてはいた。エリオは置かれた硬貨を数えて後ろの水夫に持たせた。
本題に入ったのはそれからである。
アレッシオは内密に、と念を押しながらアウロラの私掠船に襲われていること、武器を買い付けに行く船を守って欲しいことなどを話した。既に沈められた船もあるので、今回はアレッシオ自ら買い付けに行くということも。エリオは軽く相槌を打ちながらそれを聞いていた。
一通り依頼内容を言ったところで、アレッシオはやってもらえるかどうかを恐る恐る尋ねた。他の筋では断られている話であるから、ここで受けてもらえなければ寄る瀬がない。受けてもらえるのであれば幾らだって払う。そう心づもりもして、現金で二百ポンドの大金も用意していた。
だが。
「六百ポンド」
「ろっ……ろっぴゃく?」
「往復一月の航海に、相手はアウロラの私掠船なんでしょ?」
「い、いやしかし……それだと輸入物資を買う資金が…」
「イアイラはこの辺りじゃ指折りの大きな島らしいね。畜産も漁業も盛んで、陸との取引でかなり儲かってるって聞いたけど。島存亡の一大事に六百ポンドが高い?」
「それは……」
アレッシオは予想の三倍の値に思わず声を上げた。足元を見られた気がしてならない。島の実権と比べれば安いのかもしれないが、家が傾きそうな額である。用意するにももう四百ポンド、島中から掻き集める必要があった。
出来るだけ痛い思いはしたくない。生き物として極当然の考えである。アレッシオは噂に聞いていた二つの条件をコロリと忘れ、思わずこう口走った。
「せめて、三百ポンドになりませんか……?」
情けない声が虚空に消える。それを聞いたエリオは無言で立ち上がり、港が見える窓際に立った。仲間の船が到着したらしく、黒造りの船が一隻増えている。
エリオはアレッシオに背を向けたまま喋った。
「ウチの船は戦列艦が一隻と、フリゲートが二隻。船の火力も、船員の練度も、そこらの私掠船や軍船には負けないッスよ。この大戦力を一ヶ月間、あなたの護衛とするのに六百が高いって言うんですか?」
「いや、その、じゃあ三隻ではなく一隻だけとか!」
「俺たちの火力を疑うってなら、試しに何発か撃ち込んでみましょうか?あそこに見える港町ぐらいあっという間に潰せるけど」
「……へっ?」
何とか値を下げようと苦心したアレッシオの耳に、思わぬ言葉が飛び込んだ。振り向きながらエリオが指さしたのは先ほどまでいた港である。日が暮れてきて、方々で夕食の煙が上がっている。そこに大砲を撃ち込むと彼は言ったのだ。
アレッシオは慌てて立ち上がった。
「ま、待ちたまえっ!私は三隻ではなく、一隻の護衛で良いと言ったのだ!島を守るために貴方たちを呼んだのに、それじゃあ本末転倒だ!」
「俺たちの噂を聞いたときに一緒に聞かなかった?言い値を払う、こちらの素性を他言しない。この二つが絶対条件だって。仕事は三隻で行う。代金は六百ポンド。そうだ、たったの九十ポンド上乗せするだけで邪魔な私掠船も沈めてやるってのはどうかな?武器が手には入って、邪魔者も消える。締めて六百九十ポンド。安いと思うけどな」
「そんな……いや、待ってくれ…そんな。こんなの質が悪すぎる……。貴方たちは海の傭兵集団ではないのか…?」
六百ポンドという大金を前に、上乗せの九十が高いのか安いのか判断もつかない。ただ一年の稼ぎの二割近くが消える額にアレッシオは腰が引けていた。
傭兵呼ばわりされたエリオは頭を軽く掻きむしりながら、再び長椅子に腰掛けた。
「ああ、それ前にも言われた~。誰が言い出したのかな?俺そんなこと言った覚えはないんだけど。ま、確かに。護衛ビジネスだから傭兵みたいなもんだけど。別に本職じゃないし。ああ、六百九十ポンドが用意できないってんなら、この話はなかったことにしても良いッスよ?出すか出さないか、二つに一つで」
「え、っと……」
「でもアウロラに邪魔されている上に、海賊にも狙われるなんて大変そうだな~」
「かっ海賊?」
話の雲行きがあからさまに悪くなり、アレッシオはもう落ち着いて座っていられなくなった。これは最早、相談でも商談でもない。港を盾に取られ、今度は海賊が来ると脅されている。頼みの綱だと思っていた相手に脅迫されている。
アレッシオはテーブルに手を突き、強く前のめりになってエリオを睨んだ。
「ふざけた事を言って金を巻き上げようったってそうはいかないぞ!輸入に窮していてもお前たちを追い払うぐらいの武器はある!要塞からお前たちの船を狙うことも出来る!」
年上の威厳を振りかざし、アレッシオは精一杯、目の前の若造を威嚇した。実のところ武器も要塞の設備もカツカツの状態だが、威勢を張らずにはいられなかった。
しかし青年はそれがどうした、と言わんばかりの涼しげな顔でただ一言こう言った。
「緋鎚海賊団」
「えっ?」
不意に飛び出した"ひつい"という言葉にアレッシオは思わず身を縮めた。
"緋鎚"というのは、数年前までアウロラ帝国でさえ手が出せなかった海賊団の名前である。手が出せないどころか、三隻もの軍艦を奪われた話はメモーリア中で有名だった。海で鉄鎚を背にした海賊旗を見かけると、人々はただ不運を嘆くしかなかった。緋鎚は生存者を残さない。稀に襲われた船が大きな棺となって浜辺に座礁する。その凄惨な様子が風に乗って伝えられ、緋鎚の恐ろしさを海中に広めていた。
【緋】色の鉄【鎚】。船長オルソ・アルベローニの豪腕が、返り血で染まる様子を表してついた呼び名である。
だがアウロラ海軍が総力を以てこれを潰しにかかり、激闘の末に勝ったと報じられていた。それ以来、熊の獣人オルソが率いる緋鎚海賊団の話はパタリと聞かない。
まさかこんな状況でその名を聞くとは、アレッシオは夢にも思っていなかった。
「アルベローニって、まさか……」
「俺たち緋鎚が乗る立派な船が三隻も護衛につくんだよ。六百九十ポンド、安いと思わない?」
日がすっかり沈んだ島の港に、三隻目のフリゲートが姿を現した。
***
一先ず用意があった二百ポンドを部下たちに運ばせ、エリオは船に戻ってきた。ガレオンをベースにした戦列艦、今は緋鎚海賊団の一番艦バストーネ号と言う。金や食料をすべて積み込むと、港はやや手狭なので沖に出て残りの二隻と合流した。二隻は同じフリゲートだが、二番艦アルコ号は速度重視、三番艦スクード号は防御重視に改造してある。緋鎚の船はどれも黒塗りに灰色の帆であった。
三隻が並列し船の間に渡り板が掛けられると、一番艦から二番、三番へ食料が配分された。それを受け取ったそれぞれの料理班が急いで宴の準備を始める。三隻そろっての宴は各艦の料理人たちが腕を競い合う場でもあった。甲板には篝火が焚かれ、腹を空かせた船員たちがそのときを待つ。暇つぶしにレスリングを興じる者たちもいた。
食料の受け渡しが終わった後、今度は逆に二番、三番から一番艦へ戦果の詰まった箱が運び込まれた。普段は近い海域でばらばらに活動しているので、集まったついでに状況報告が行われる。一番艦の船長室を二人の副船長が訪れていた。
「頭、大頭、お久しぶりッス!」
「頭も大頭もお元気そうで!」
「フィデリオ、ガッツォ!久しぶり~」
先に挨拶をした方、フィデリオは弓のように反った細目と顔の傷が印象に残る二番艦の副船長だ。黒髪はざっくりと短く切り揃えられ、無駄なく引き締まった筋肉の上に服を着ている。もう一人の男、三番艦を預かる副船長ガッツォは顎髭を生やした豪快な風貌で、額や目尻に歳が刻まれていた。こちらも自慢の筋肉に衣服を纏っていた。
二人はエリオより頭一つ分ほど背が高く、フィデリオは親しげに駆け寄るとぶわっとエリオを抱き上げた。
「おっ、頭ちょっと重くなりました?身長伸びたんスかね?」
「どれどれ俺にも寄こせ。お、ホントだ。今日もいっぱい食べてくださいね、頭」
「成長期はいっぱい食べないとね~」
「……二人とも会う度に測定すんのいい加減止めてよ…」
副船長たちに可愛がられ、年若い船長のエリオは頬を膨らませる。船長、副船長という立場でありながら何とも不思議な様子であった。
その妙に親しい三人を、先ほど「大頭」と呼ばれた老人がベッドの上に身を起こして眺めていた。老人は体の右側に大きな傷跡が多々あり、膝から下がなく隻眼である。耳の横からはたっぷりの口髭が繋がっていて、頭頂には丸い耳が生えていた。座っていても体格の大きさが伺え、鎧のような筋肉が服の下に見える。その上、毛深い獣の手足も威圧感を放っている。大頭、緋鎚の先代船長、オルソ・アルベローニであった。
「どれ、儂も久しく抱いておらん。エリオ、こっちにも来い」
「じいちゃんまで!」
海軍との激闘後、怪我を負い息子を失った彼は孫であるエリオに座を譲り、隠居生活を楽しんでいた。
エリオは普通の人間だが、オルソとは血の繋がった家族である。オルソが獣人となったとき、既にエリオの父は生まれており、オルソだけが病に罹ったのだ。そのためエリオは獣人とならなかったが、オルソの豪腕の才をしっかりと受け継いでいた。物心ついた頃には船の上で、緋鎚の船員とも長い付き合いである。その成長ぶりをずっと見てきた船員たちにとって、エリオは頭であると同時に弟や息子のようなものであった。
取り分け世話係だった副船長の二人は、エリオが緋鎚を受け継いだ今も彼を可愛がっている。孫を溺愛するオルソを含め、三人が代わる代わるエリオを抱き上げる様子は緋鎚の日常であった。
三人から散々に撫で回された後、エリオはやっと椅子に座れた。オルソは引退した身と言うことでテーブルには着かず、いつもベッドから孫の船長姿を眺めていた。フィデリオとガッツォがそれぞれ近況を知らせ、戦利品の一部をエリオに贈る。各艦は基本的に独立しているので分け前を持ってくる必要はないのだが、これは久しぶりに会う家族への手土産みたいなものであった。
それらが一通り済むと、今度はエリオから今回の仕事について説明がなされた。
「内容は武器の買い付けに行く商船の護衛。往復で一月ぐらいの航路。アウロラの私掠船に目を付けられたんだってさ。金額は全部で六百九十ポンドだから、それぞれ二百三十ずつね。まだ二百しかもらってないから、残りの四百九十を受け取り次第出航だよ」
「二百かぁ!さっすが頭!しばらく美味い酒が飲めそうだな~」
「アウロラの私掠船か。こんな南の方まで何度も来るなんて珍しい」
「この前、船を五隻も出して惨敗を喫したらしいから、弱い地域をいびりに来たんじゃないかな~」
「え?アウロラとやり合った船があるんスか?錫羽根ですか?」
「いや、新顔らしいよ」
海図を広げて航路の確認をしていたが、エリオの一言で話が脱線し始めた。アウロラ帝国の船はメモーリア随一で手出しをする者はほとんどいない。緋鎚とて、こういう仕事でなければ相手にすることはなかった。そもそも軍船や私掠船を襲っても被害があるばかりで旨味が少ないのである。だから普段、アウロラ帝国は大きな顔をして海を渡っていた。それが五隻も負けたと聞いてフィデリオは興味を持ったのだ。
エリオは数週間前に買った新聞の賞金首リストを広げながら、港で耳にした噂を話した。
事の発端は、アウロラ海軍の将校が海賊に転身した事件らしい。軍にとっては恥ずべきことであるから表沙汰にはなっていなかった。しかしその後始末に向かった上官が返り討ちに遭い、どこからともなくそうだと言う話が広がり出した。更に報復へ出た五隻の軍艦が犯人を取り逃がし、事は潮風に運ばれこの南の地域にまで届いてしまったのだ。
それからまもなく賞金首リストには新しい顔が加わった。額も初回にしては多い。誰も聞いたことのない名前だったが、それが例の元将校だろうと専らの噂になった。
「ほら、この三百掛けられた奴。こいつがそうだろうって話」
「右手が義手で髪が三つ編み?そんな船乗りいっぱいいるだろ。もっと他に特徴ねぇのかよ」
「アウロラ相手に大したもんだ。どんな船なんだろうなぁ」
「この件が終わったら久しぶりに北上してみる?近くに行けばもうちょっと話が落ちてるかも」
「頭も気になりますか?」
「まぁね。初っぱなから帝国相手にやらかす同業者はチェックしておきたいな。仕事が被ると嫌だし」
エリオはそう言ってリストを畳んだ。
海で稼ぐということは広いようでいて意外と狭い。同じ船を狙ってしまうことも、同じ財宝を探してしまうことも往々にしてある。だからエリオは邪魔になりそうな同業者の位置を常に追っていた。そうすれば仕事が被って面倒になる率も減らせるという訳だ。
三隻もの船と船員を維持し続けると言うことは非常に難しかった。
彼は祖父から受け継いだ海賊団を、新しいビジネスを考案しよく守っていた。
「大頭っ!ベッラ嬢がお帰りです!」
話が途切れたところで大きな羽音が響き、部屋の外から声がかかった。呼ばれたオルソが杖をつきながらのっそりと立ち上がって甲板に出て行く。羽音の主は赤い首飾りをつけた一頭の雌鷲であった。彼女はマスト付近に用意された皿へ獲物を置き、止まり木に休んでいた。緋鎚で唯一の女性である。オルソがグローブをつけた右手を差し出すと、彼女はバサリと羽を広げて移動した。
「お帰り、ベッラ。久しぶりに肉を狩るのは楽しかったかい?」
オルソが頭の付近を優しく撫でると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
船にも良い香りが漂い出し緋鎚の宴が始まる。用意された酒と食料を惜しげもなく楽しむ。久しぶりの大仕事を前に皆、腕を鳴らして盛り上がっていた。
それから残りの代金が用意されるのに二日かかり、エリオたちが港を出たのは三日目の朝だった。
***
ロンターニ家の商船はついに主を乗せて決死の航海に出た。アレッシオは既に予定の三倍以上を支払い、腹を痛めている。これで武器の買い付けまで失敗すれば後がない。もうどうにでもなれと思い、緋鎚の水夫が商船に乗り合わせることにも同意した。
武器さえ補充できれば。そうすれば憎たらしいアウロラの私掠船に、自ら砲弾の一発を見舞うことだって出来るのだ。
アレッシオはただただ航海の成功を祈って船を走らせた。
そんな様子を天候が憐れに思ったのか、海は始終穏やかで風も適度に吹いていた。予定通り二週間ほどで大陸へ着き、アレッシオは積荷を売り払って武器の購入費に当てた。島特産の織物はいつも高値で売れるのだが、何の加工もしていない羊毛や布までやや高く売れた。おかげで弾も火薬も十分に買うことができ、曇り続きだったアレッシオの心はいくらか晴れたのだった。
商船は行きよりも重く海に沈みながら帰路に出た。重たい分、速度も出ない。しかしアレッシオにとっては嬉しい重さであるから、日程が遅れるのも気にならないでいた。航海も三分の二が済んだ。もう後一週間もすれば島に着くだろう。今回の商売は物が良く売れ、多く買い付けができたのでまずまずの成功と言えた。
行きは皆ビクビクしながら乗っていたが、ここまで来ると既に心は到着後の事に移っていた。アレッシオも武器の使い道を机に向かって考えることが増えた。
海は相変わらず穏やかだった。
いつからそうだったのかは分からない。
ある日、気分転換に甲板へ出たアレッシオは、緋鎚の船が一隻並走するだけだと言うことに気がついた。乗り合わせている海賊を呼びつけると、行きは乗っていなかったエリオが顔を見せた。彼曰く、他の二隻は少し離れたところで護衛しているらしい。だが少しと言っても、船の上からは肉眼で確認することが出来なかった。
アレッシオは海賊の言葉を怪訝に思いながらもそれ以上は追求しなかった。余計な事はせずに帰りを急ぎたい。そう思ったからだ。
けれども天候に恵まれた穏やかすぎる航海に、アレッシオは段々と六百九十ポンドが惜しくなってきた。勿論、今更取り返すなんてことは出来ないだろう。相手が本当にあの緋鎚かどうかは分からないが、ガレオン船の大きさと砲門の数は目にしている。あれで港を攻撃されたら被害が利益を上回るに違いない。そういう儲からない賭けはしたくなかった。
ただ、不要な出費をしてしまったのではないかと、そういう後悔が心に影を落としていた。
もしかすると、アウロラの私掠船は既に別の海へ離れていたのかもしれない。
彼らがいなくても、この商売は成功していたのかもしれない。
一端そう考え出すと切りがなかった。
金だって三隻分支払ったはずなのに、いつの間にか二隻が消えている。話が違うのではないか?それならもっと値を下げてくれても良かったのではないか?アレッシオは鬱々としながら酒を飲んだ。
そこへ、更なる不運を告げるように部屋の扉がノックされた。入ってきたのは夜の見張り役である。彼が言うに、緋鎚が甲板で篝火を立て始めたと言うのだ。アレッシオは驚いて直ぐさま部屋を出た。
「何をやっているっ?あの海賊はどこだっ!」
外では見張り役が報告してきた通り、いくつもの篝火が焚かれていた。おかげで手元も足下も良く見え、アレッシオはエリオを探して甲板を歩き回れた。
そして船尾付近の暗がりで彼を見つけた。
「おいっ!何のつもりだ!」
「どうしたんです、アレッシオさん。もう夜更けですよ」
「どうしたはこっちのセリフだっ!なぜ灯りを……!」
「まあまあ」
酒臭い口で憤るアレッシオの襟元をぐっと掴み、エリオは彼をしゃがませた。アレッシオはその勢いにガクッと膝をつき倒れ込んだ。こんな小柄な男のどこにこれ程の力があったのか。驚き黙るアレッシオの顔の前で、エリオは声を潜めて言った。
「この船を狙うなら、今日あたりが絶好なんですよ」
「えっ?」
アレッシオは酒で温まった体が一気に冷める感じがした。
今夜は雲が多くて月明かりが少ない。代わりに、篝火の明かりが不敵な笑みを浮かび上がらせていた。
「船は重くなって速度が出ないし、船員は陸が近づいて浮ついてきている。それに夜襲にはおあつらえ向きの曇り空。もしアウロラの私掠船がこの船を探しているのなら、この灯りを見つけるでしょう」
「なっ、そ、それでは敵を呼ぶことに!」
「もちろん。俺たちは海賊だけど、上乗せ分もきっちり働きますよ」
エリオがそう話したとき、どこかでカツン、と木がぶつかるような音がした。船内にいては決して気付かない小さな音だ。アレッシオがハッとして船尾の暗がりへ目を向けると、しばらくして手すりに何かが引っかかった。
何者かが船の側面を登ってくる。
「私掠船が沈むとこ、見たいんでしょう?」
エリオはそう言いながらナックルダスターを填め、姿勢を低く一気に縁へと駆け寄った。意気揚々と上がってきたどこぞの水夫が顔を出した瞬間、海へと殴り落とされる。その一瞬で取り上げたピストルを下に向け、上がってきた二番手を撃つ。もう一人残っていた水夫は緋鎚の水夫が弓で射殺した。あっという間に棺桶となった奇襲用の小舟は、波に攫われ流れて行ってしまった。
瞬く間の出来事に、アレッシオは指一本動かせなかった。頭の理解も追いつかない。誰が船に侵入しようとしていたのだろうか?あのまま侵入されていたら、どうなっていたと言うのだろうか?一つずつエリオに問いただしたかったが、腰が抜けてピクリとも動けなかった。
そこへマストの上から大声が響き、アレッシオは情けない悲鳴を上げた。
「七時の方角に二隻っ!」
「火矢放ちますっ!」
言い終わるや否や、真っ暗な海を赤く燃える弓矢が飛んでいく。それは見事マストに刺さり、小さく燃える目印となった。
事ここに至り、やっと船内にいた商船の水夫たちも異変に気付いて外へ飛び出てきた。それでようやくアレッシオは使用人たちに助けられ、這々の体で中に戻った。エリオはその様子を横目で確認し、それから並走する一番艦に合図を出した。
一番艦はいつの間にか向きを変え、商船が進む方向とは真逆、敵船へ向けて舵を取っていた。
「じゃ、後はよろしく~」
「はいっ!」
数人の水夫を商船に残し、エリオは一番艦からのロープを握って軽々と飛び移った。
月明かりがほとんどない夜の海は、空との境さえはっきりしない。その真っ暗な海にぽつりと浮かぶ火の目印。直ぐに消えてしまいそうな明るさだったが、暗闇の中では十分であった。
エリオの船がまだ近いうちに、ふと奥の空が煌々と輝いた。その光はぐんぐん近づき、ぶわっと言う風音とともに私掠船の上へ降り注いだ。
先ほどの一本とは比べものにならない火矢の雨である。
それで一隻が赤く燃え始めると、また空が輝いて近くにいた二隻目に落ちた。
商船やエリオの船とは逆の位置、注意の反対を取られた私掠船は煙を上げてよく燃えた。
暗い海に燃えさかる二隻の船は商船の小窓からもよく見え、アレッシオは恐怖と頼もしさに言葉を失った。それから直ぐに、今度はドドンッという鈍い発射音が響いて商船の面々はやはり震え上がった。私掠船が反撃に出てきたのだ。ボチャボチャと弾が海に沈む音が遠くでする。商船を離れた緋鎚の船は、それでも尚真っ直ぐ走っていた。
轟々と燃える船が海を照らしている。
恐怖を感じながらもアレッシオがその様子を見続けていると、突然その明かりが見えなくなった。黒い大きな塊が燃えさかる敵船の前を横切ったのだ。船は闇から現れ、闇へと消えた。その間にズドドドッという腹に響く音が一度だけ轟き、次に見えた敵船は海に沈む途中であった。
一番艦が向きを変え、再び発射音が響いた後、こちらに戻ってくるのが見えた。その向こう側で二隻目の船が沈むのも。
灯りは徐々に闇へ飲み込まれていき、やがて元の海原に戻る。
アレッシオは勝ったのだと理解しつつも、顔面を蒼白にしてベッドに寝込んだ。翌朝、恐る恐る甲板へ出てみると、何事もなかったかの様に三隻の船が周りを走っていた。
***
黒塗りの船が一隻、メモーリアの海を北へと向かっていた。
一番高いマストの上には鉄鎚と髑髏を描いた旗が靡いている。
エリオ率いる緋鎚海賊団がイアイラ島を出てから数日が経っていた。当面の食料や資金が確保できたので、特に急ぐでも慌てるでもなく、のんびりと進んでいる。フィデリオの二番艦も、ガッツォの三番艦も、好きに航路を取って分かれた後だった。何もなければ、次に会うのは三ヶ月後の集合ポイントだ。
海は自由である。
緋鎚の船員たちはそれを存分に楽しみながら、あちこちを気ままに回っていた。昔は船と人の多さに資金繰りが苦しくなることもあったが、エリオに代替わりしてからは仕事も上手くなった。たまに遊びすぎることもあるがそれなりに順調である。
豪腕で豪快なオルソに惹かれた男たちが、腕っ節だけを持ち集まったのが緋鎚の船だ。そして船長の大役を受け継いだエリオもまた、彼らを見事に惹き留めた。力一辺倒だった集団に少しの知恵が加わって、緋鎚は大きく安定してきていた。
広大な海原を渡るには力がいる。
彼らはどこよりもその力を持っていた。メモーリアは彼らの庭で、時にはその外に広がる海でさえ手の内だった。年若い船長は、船に新たな推力をもたらす追い風だった。
マストの上から甲板に声がかかる。船影が見えたらしい。船首の向いている方向からはやや右に反れた位置だ。どうするかと指示を仰がれ、エリオは少し考えた。丁度、日課のトレーニングをしているところであった。
周りで一緒に鍛えていた水夫たちも一旦手を止め耳を傾ける。
エリオは彼らを見回して聞いた。
「俺さ、この前乗り込まなかったからめちゃくちゃ元気なんだけど、みんなはどう?」
「俺もです!」
「行きましょう、頭っ!」
「俺も乗り込みたいッス!」
船長の問いかけに汗臭い男たちが立ち上がる。鍛え上げた腕っ節を発揮したいのは皆同じであった。
エリオは船影に向けて舵を切った。
「近づいて軍船と海賊船だったらパスだけど、商船とか民間船だったら何でもいいや。乗り込んで洗いざらいもらっちまおう!」
拳を上げて宣言される号令に男たちの歓声が被さる。
自由な海を力ある男たちが自由に渡っていく。
一度は波間に隠れた緋鎚の名が、再び海を覆う日は近かった。
End 2017/12/31