下
彼女の方の家の中は全体的に明るかった。家具とか照明とかは僕のいた方と変わらなかったけど、何かが違う気がした。
僕をリビングのソファーに座らせると、彼女はタオルを取りに行った。こちらの家にはタオルがあるのだろうか。
待っている間、部屋の中を見ていた。すると、一つだけ僕の方の家とは決定的に違う所があった。
暖炉があったのだ。色が周りとあまり変わらないのですぐには気づかなかったが、いかにもって感じの暖炉があった。
程なくして彼女がタオルを持ってきた。バスタオルくらい大きい。上の服を脱いで体を拭いたがさすがに下を脱ぐわけにはいかない。
そこで、彼女にお願いして暖炉を点けてもらった。初めての暖炉は想像以上に暑く感じた。
僕たちはいろいろな話をした。
大学のこと、家族のこと、友達のこと、そして自分のこと。
どうやら彼女もいきなりここに来てしまったらしい。僕より三日長くここでの生活を続けていると教えてくれた。
二人ともここに来る前の生活にはかなり疲れていて、現状をそんなに嫌がってなかった。僕は寧ろこのままがいいと感じ始めていた。
彼女が疲れていた原因は家族に理由があった。父親は基本的に家に居ないくらいの仕事の虫で、母親はひとり娘の彼女を厳しく躾けてきたらしい。
茶道や生け花、ピアノやバイオリンと、和から洋まで、女性らしさを身につけさせる為の習い事をさせてきた。もちろん、家事全般はほぼ完璧にできるそうだ。
そんな中、いきなり謎の自由を手に入れ、初めは楽しんでいたが最近は寂しさの方が上回ってきていた。そこに僕が現れ、危険を冒してまで逢いに来てくれたことがこの上なく嬉しい、と彼女は言ってくれた。涙が出そうになった。
しばらくして僕のズボンが乾いてくると二人でソファーに座った。真横に座っている彼女は更に小柄に感じて、守ってあげたいと強く想った。
僕は自分の大学でのことを話した。
入学して早々、見学に行ったサークルでタチの悪い先輩に目をつけられてしまった。理由をつけては僕から金を借りようとし、そのくせサークル活動には一度も呼んでくれなかった。そればかりか大学内に僕の変な噂を流し出して、居場所を奪われた。裏でヤバいことをしているとか、親のコネで大学に入ったとか、根も葉もない噂が広まった。
そこまで話すと彼女は目に涙を浮かべながら慰めてくれた。嘘みたいに愛おしく感じた。
日が沈んで部屋の電球が目を覚ましだした。そういえば何処から電気が来てるのだろう。電柱などはないので地下からだろうか。
彼女は晩ご飯を作ると言った。嫌でも母親に教え込まれた技術があるので味は保証する、と笑顔を見せてくれた。
彼女が台所で料理する姿を見ていると、自分達が恋人同士であるかのような錯覚に陥った。もう何年も付き合っていて、そろそろ結婚も考えたりするようなカップル…。
止めよう、こんな妄想していては彼女に失礼だ。自分でも気持ち悪いと思える。
それでも彼女に好かれたいという気持ちは抑えることはできないので、好感度を上げるべく料理の手伝いをすることにした。
約一時間をかけてシチューとその他もろもろの料理が完成した。言うだけはあって、彼女の料理は見た目から完璧だった。毎日こんな料理が食べられたら最高だろうな。
二人でおしゃべりしながら食べた。味は見た目以上に美味しくて、おふくろの味なんかよりもずっと僕に合ってるって気がした。
食べ終わって片付けをした後、またソファーに座って語りあった。僕は反対の家からここに来るまでの話をした。
「あと少しで崖を降り切れそうな時になって雨が降り出したんだよ。それで滑って落ちちゃってさ、大したことはなかったんだけど」
そう言うと彼女は絆創膏を持ってきてくれた。手当をしてもらってから話を続ける。
「洞穴があったから雨宿りしようとしたんだよ。でも、その洞穴がなんか嫌な感じでさ、狭くて変な圧力をかけてくる感じだった。だからそこから出て川を飛び越して崖を登ってきたんだ。途中で雷が鳴ったときは死ぬかと思った」
そこまで言い終えると彼女は、なんだか人の人生みたい、と言った。
周りから圧力をかけられ、その辛さを我慢しながら壁を越えていく。そして自分の求めるものを手に入れる。そういう意味だと説明してくれた。読書が好きだと教えてくれた、彼女らしい例え方だと思った。
求めるもの。それは僕にとっては彼女だ。それを手に入れる。
崖を登りきって、最初に言葉を交わした時から思っていたことがあった。想いを伝えたい。
生まれて初めて運命の人だと感じた女性だ。これを逃すわけにはいかない。本能がそう告げている。
それから僕は黙りこんでしまった。心の中で葛藤が始まっていた。
「言え、言うんだ」「いや、まだ早い。気持ち悪がられるぞ。逃したくないんだろ。慎重に」「何言ってんだこの二人だけのような場所でもたもたしてられるか」「引かれて終わるぞ、ばか」「なんだと、あほ」
ええい、うるさい!
目の前の愛しさの塊を見つめながら覚悟を決めた。
「僕の求めるものは君だよ。君のことが大好きだ!」
彼女は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに一番の笑顔になって、私もです、と言った。
その瞬間、幸せが爆破した。涙が溢れてきた。愛しさが止まらなくなって彼女を抱きしめた。
「よかった、ありがとう。大好きだ。大好きだ」
すると急に力が抜けて眠たくなってきた。あれだけハードな運動をしたのだから疲労が溜まっていないわけがなかった。
彼女はそれを感じ取ったようで、もう今日は寝ましょう、と言ってくれた。
僕は素直に従い瞼を閉じた。彼女の胸に抱かれて眠りの体勢に入った。
満ち足りた気分で意識が遠のく中で彼女が、あなたって運命の人なのね、と呟くのが聴こえた。
君もだよ、と返事をして今までで一番幸せな気分で眠りに入った。
目を覚ますと見慣れた部屋にいた。僕のアパートの部屋だ。
帰ってこれたのか?まさか今までのは、夢?
目覚まし時計で時刻と日付を確認する。なんか最後にこの部屋で寝てから三日経ってるような、経ってないような。記憶が曖昧だ。
ベッドから降りる。なんだかここではない何処かに今まで居た気がする。思い出せない。
仕方なく普通に朝ごはんを食べ、大学に行こうとした。今日はあの先輩居ないでほしいな。
ドアノブに手をかけた時だった。何か懐かしい感じがした。知らない世界へのドアを開けるような感覚だった。
そうだ、僕は何処かで彼女と会っていたんだ。運命の人と。
ただ存在してくれるだけで落ち着き、心を暖かくしてくれる、この世界の何処かにいるたった一人の存在と。
今日もいつもと同じ、面倒な大学に行く日だと思ってた。だけど違う。今から運命の人を見つけに行くためにこのドアを開けるんだ。この先に待っているのはきっと知らない世界だ。
辛いことがあるだろう。周りの圧力に耐えられなくなることもあるだろう。でもその壁を越えて求めるものを手に入れるんだ。運命の人を。
なんでこんな気になったのかはわからない。でも絶対彼女はいるんだ。この世界の何処かに。
ドアを開け、明るい陽射しに照らされた世界へと踏み出して行く。
逢いに行くよ。まだ見ぬ君へ。
〈終わり〉