中
外へ出て崖の方まで行った。逢いに行くとは言ったものの、どうすれば向こうに行けるだろうか。
崖をよく見ると断崖絶壁というわけではなく、傾斜七十五度くらいの崖であった。凹凸がたくさんあって、なんとか素手で降りれそうだ。
そのことに気づくとすぐに崖を降りだした。心の準備なんてものは必要ない。一刻でも早く彼女の元へ行かなければ。
岩の出っ張りに足を掛ける。岩の感触が足に直接伝わってくる。
十分くらいかけてマンションの八階くらいの高さの崖を中程まで降りた。汗が全身から溢れてくる。下を見ると飛び降りることができそうな気もしたが裸足では確実に怪我をしてしまうだろう。
大体の降りる順序を見定め、深呼吸をして再び崖を下へと進みだした。
地面まであと少しという所だった。右手に冷たいものが落ちてきた。最初は何かわからなかったが、それは徐々に数を増し、瞬く間に全身を覆うほどになった。
雨だ。崖を降りていると雲の様子など見れないので何の前触れもなく降ってきたように感じた。
急いで下に降りようと焦って足を次の出っ張りに掛けると、すでに表面が水で覆われていて足を滑らせてしまった。
「うわああぁ」
そこそこの高さから思いっきり地面に叩きつけられた。少し遅れて細かな岩のカケラが降ってくる。
酷ければ骨くらい折れていてもおかしくなかったが、僕の体には所々に擦り傷ができただけだった。
背中を打った感覚はあったが、特に気にするほどでもなく、怪我しない分には不都合はないなと考え立ち上がる。
すると目の前に小さめの洞穴があった。人が三人も入ればいっぱいになってしまうくらいの大きさだ。
とりあえずそこに入って雨宿りしようとする。だが、洞穴の中は寒くて、その狭さからか周りから圧迫されている感じがして、あまり長い時間入っていたくはなかった。
外を見ると雨はますます強くなってきたようだ。ゲリラ豪雨だとありがたいが。
川は勢いを増していた。水は茶色くなり、歩いて渡るのは不可能だろう。
ただ、川は狭かった。細かったと言うべきだろうか。目測だが人二人分もないほどの川幅で、洞穴の中から助走をつけて走れば飛び越えられそうな気がした。
そう考えると、やはりこんな所で止まっている場合じゃないという気に駆られた。洞穴の居心地が悪かったのもあると思うが、何より彼女に逢いたかった。
雨はまだ激しく降っていたが、そんなことは気にせず、助走をつけるため洞穴のギリギリ奥まで行く。
軽く体操をし、クラウチングスタートの構えをとる。
「よしっ」
自分の声を合図に一気に駆け出す。川の境目まで行き、強く右足を踏み込み宙に跳んだ。一瞬の無重力状態を経て、着地の体制に入る。
足が地面に着くと同時に、足を滑らせ尻もちをついた。
なんとか無事に渡れた。よかった。
走っていた時に滑らなかった奇跡に感謝しながら崖を見上げる。
この上に彼女がいるんだ。僕を待ってる。待ってるはずだ。どうか待っててくれ。
服が体に張り付いてくるのなんて気にせずに崖を登り出した。降りてきた時よりもより慎重に手と足を動かしていく。
やはり、滑る。中間地点に到達するまでに八回は手足を滑らせ落ちそうになった。わかってはいたが、本当に危険なことをしている。
一度止まって手足を少し休ませる。真っ赤になった手を見ていると後ろの方で雷が鳴った。驚いて手を離しそうになってしまう。
心臓が動きを速めだした。ドクンドクンと脈打つ音が聴こえてくる。
今の高さから落ちたら流石に擦り傷では済まないだろう。そう思った瞬間、死を感じる。恐怖を感じる。
手が震えだしてきた。まずい、どうすれば。
そうだ、彼女の事を考えろ。落ち着くんだ。あと少しで逢えるんだ。
すると、不思議と震えが治まってきた。よかった。
でも、おかしいな。どうして彼女にはこんな力があるんだろう?その姿を見てからまだ二日しか経ってないのに。話したことも、声を聴いたこともないのに。
少しの間、他のことを忘れそのことを考える。
…そうか、この人がいわゆる運命の人ってやつなんだ。ただ存在してくれるだけで落ち着き、心を暖かくしてくれる。この世で一人しかいない運命の人なんだ。
一目見た時から感じていたこの気持ちは運命の人に出逢えた喜びだったんだ。
彼女の正体がわかって元気が出た。もう止まらない。彼女に逢いに行く。
そして、再び崖を登り出した。
数分後、ついに崖登りが終わろうとしていた。慎重に少しずつ彼女の元へと近づいて行く。雨は小降りになってきていた。
最後の力を振り絞って崖の上に手をかける。両手と足を使って体を持ち上げた。
ついに辿り着いた。家が目の前に見える。
これほどの運動をしたにも関わらず、雨で濡れた体は冷えていた。今すぐあの家に入りたい。
雨粒の落ちてくる間隔が長くなってくる。空では雲達が集団で何処かへ移動し始めていた。
足を動かそうとしたがうまくいかない。ちゃんと力が入らないのだ。
這って行こうとしたその時、家の扉が開いた。
彼女が現れる。僕の様子を見ると慌てたようにこちらに寄ってきた。雨が止んだ。
大丈夫ですか、と彼女が言う。近くで見る彼女は更に美しくて、遠くでは見えなかったその目はどこまでも綺麗に澄んでいた。初めて聴いた声は僕の耳に安らぎを与えた。
「あんまり大丈夫じゃない」と答えると、彼女は肩を貸して起き上がらせてくれた。柔らかくて暖かかった。
二人で歩いて行きながらお互いの自己紹介をした。名前と身分。好きな食べ物は一緒だった。
初めて会ったとは思えないほどスムーズな会話を交わしながら家に着いた。
「そういえばさっき、逢いに行くよ、って向こうの家から言ったんだけどわかった?」
彼女は頷き、ちゃんと待ってましたよ、と言った。嬉しかった。
そして、二人で見た目より重いドアを開き、家に入っていった。
〈続く〉