上
僕は目を覚ますと、暗闇の中にいた。
ここが何処なのかわからない。ただ、暗闇の中でもアパートの自分の部屋ではないことだけはわかった。
ふかふかした物、おそらくだがベッドに横たわったまま目が慣れるのを待つ。
ようやく辺りがぼんやりと見えてくると自分が全く知らない部屋にいることに気づいた。僕は木製のベッドの上に寝ていて、周りはよくわからないガラクタばかりだった。ドアが閉まっていると真っ暗になるのも頷けた。
窓を探すのには骨が折れそうなほどガラクタの山は高いので、ドアを開けることにした。
ドアノブに手を掛けて回すと一つの音も立てずにドアが開いた。
外に出るとそこは木の床が長方形に広がる廊下だった。右手には下に降りる階段があり、左手には外から陽が差し込んでいる窓がある。
暗い所からいっきに明るい所に出たのに不思議と目はチカチカしない。どちらかと言うと目の癒しになるような明るさだった。
当然、階段があるので下に降りる。するとそこはリビングのような場所で、テレビなどは無くすべて木製の家具だらけだった。
人が居ないか声を掛けてみるが反応はない。一通り家の中を見て回って外に出た。
そこには草原が広がっていた。空気は暖かく、遠くの丘には羊や牛のような影が見え、さらに奥には大きな山々が連なっている。アルプスの少女ハイジに出てきそうな場所だと思った。観たことないけど。
右の方を見ると崖があり、反対の崖の上にも今出てきたのと同じような家があった。
崖の方に近づく。下を見ると底には川が流れていた。
反対の家の方に声を掛けて見る。しかし、人が出てくる気配は無かった。
特に何かしようもなかったので適当に歩き回った。
下の方に降りていくと少し大きな川があった。さっきの川と繋がってるんだろうか。靴が無く、裸足のまま出てきたのでそのまま足を浸ける。ひんやりとした冷たい水をイメージしていたのだか、実際はぬるかった。足だけ浸けていると足湯みたいだった。
しばらくして立ち上がり、次は上に登ってみる。大きな岩が一つだけぽつんと座っていたり、かと思うと小さな遺跡のようなものもあった。
一番上まで登ると、大きな木がここが頂上であることを示すようにそびえ立っていた。
そこから景色を見回したがどこを見ても緑だらけだった。ほんとにここは何処なんだろう。
木陰に座って、遠くで上品に草を食べている牛を眺めた。彼らは野生の牛なのかな、とか思いながら見ていたが、そのうち飽きて地面に寝転んだ。
太陽により程よく温められた草が僕を包む。最近行くのが面倒になってきた大学でのストレスが浄化されていく。
ここで昼寝したら最高に気持ちいいぞと思っていたら、本当に瞼が重くなり、心地良い眠りについた。
目を覚ました時、空は茜色に染まっていた。
体を起こし、木に寄りかかって夕日が沈むのを眺めていた。家はここからでも見える、暗くなっても迷わずに戻れるだろう。
そしてしばらくの間、夕日が見えなくなるまで空を見て立ち上がった。
家に戻るまでに空には星たちが煌めき、月が顔を出した。少しだけ肌寒くなってきたが、半袖半ズボンという格好でも全然大丈夫だ。
家の前まで来て驚いた。反対の家のすぐ側に一人の女性がいたのだ。このまま独りでいることを覚悟しつつあったからだろうか。僕には彼女が眩しく見えた。
その人はしゃがみこんでいて、左手を太ももとふくらはぎの間に挟み、右手では地面の草を弄っていた。
美しい女性だった。顔立ちは整っていて、綺麗で長い黒髪が良く似合っていた。
ただ、僕が美しいと思ったのは顔だけではなく、どちらかと言うと彼女の雰囲気の方だった。優しさと人としての強さを兼ね備えた感じが溢れ出ていて、見てるとなんだか心地よくなった。
じっと眺めている訳にもいかないので、崖に近づいて叫ぶ。
「すいませーん」
しかし、彼女は反応しなかった。もう一度、今度は更に大きな声で叫んでみる。
「あのぉ、すいませーん」
それでも彼女は下を見たままだった。もしかして耳が聞こえないのだろうか。
飛び跳ねたり、場所を変えてみたりしてこちらの存在をアピールする。そろそろ疲れ始めてきた頃、彼女がこちらを振り向いた。
瞬間、パッと笑顔になって、こちらに走ってきた。
お互いが出来るだけ近くに寄り話そうとする。しかし、どちらの声も相手に届いてないようで会話はできなかった。
そのうち両者とも諦め、黙って突っ立ってしまった。どうにかしなきゃと思っていると、彼女が自分の口に注目して、というようなジェスチャーをしてきた。
ま、た、ね。
指でローマ字を中に描きながら、そう僕に伝えてきた。
このまま一緒に居たいと思ったが、ずっとこのままでもどうしようもないので、僕も同じ方法で、またね、と伝えた。
家の中に入ると急に腹が減ってきた。心配だったが台所には食材も料理器具もあって、何とか食事を摂ることができた。更にここは何処なのかわからなくなってきた。
お風呂は無かったので、明日、川で洗うことにしてベッドに入った。
どうにかして彼女の元に行けないだろうかと考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
次の日は川の近くでずっと彼女のことを考えていた。
彼女の元へ行きたい。よくわからない所で独りでいるのが嫌なのもあったけど、何よりも彼女の美しさに惹かれていた。
あっちの崖の方に歩いていけばいつかあの家に辿り着くのだろうか。ちょうど川に沿って行けば向こうに行けそうな気がするし、帰る時は反対に進めば良いので迷わない。
そう思ってしばらく川沿いを歩いてみたが、途中で明らかに別の方向に曲がっており、ずっと先までその調子だった。
これ以上歩くのは疲れるので、諦めて家に戻った。
テレビや本などは無いので、家に於いてはすることが何もなかった。更に自分の動き以外音がしない空間でただ静かに座っているというのはなかなか苦痛で、僕は自分の使命を探して家の中を徘徊した。
一階では何も見つからず、二階に上がって寝室に入る。
そういえばベッドの周りのガラクタ達があるじゃないか。これを片付けついでにいろいろ見てみよう。時間は腐るほどあるのだ。
改めてガラクタの山を見てみると、理系学部の大学生には見慣れたものがたくさんあった。
フラスコやビーカー、リトマス試験紙にいろいろな虫の標本まであった。ヤモリのホルマリン漬けが出てきたときは、さすがにびびって大声を上げてしまった。
そのほか子どもの頃に遊んだおもちゃや、部屋に飾ってあるポスターなどが出てきて、それらを部屋に飾ったり一階に運んだりしていった。
あまりに自分の見たことある物ばかり出てくるので、友達のいたずらか番組の大掛かりなドッキリの可能性も考えたが、とてつもなく低い可能性に思われた。
休憩を挟みながら三時間を要して片付けを終えた。不思議とホコリやゴミは無かったので、掃除機を欲する必要はなかった。
片付け終わった部屋には予想通り窓が現れた。一階と同じ木の扉を開くと、柔らかな太陽の光が射し込む。そよ風が吹き込み、 ベッドのシーツを揺らした。
外を見ると真正面に家が見えた。彼女の居る家だ。
ベッドに座って、疲れてきた体を癒すようにその家を眺めていた。彼女がそこにいると思うと心までも元気を取り戻すようだった。
二つの家の間の崖は、飛び越えるには遠すぎたが先ほどのガラクタを投げれば届きそうな距離だった。家に当たれば気づいて彼女も出てくるだろう。でも、そんなことしてどうする?お互いの声は届かず、ただ見てるだけしかできないんだぞ?
いつの間にか空は紅くなっていた。もう一度反対の家を見て窓を閉じた。
その日はそれ以上することは見つけられなかったので、早くご飯を食べ、早く寝た。
次の日は起きてからずっと反対の家を見ていた。
昼頃までそうしていて、やっと汚れてもない体を洗いに行こうとした時、反対の家の窓が開いて彼女が顔を出した。
昨日はいろいろ言ってたけどやっぱり嬉しくなって、大きく手を振った。彼女は小さく手を振り返してくれた。
二人とも口は動かさなかった。それよりもお互いを見つめ合っていた。このくらい距離があるとあまり恥ずかしさを感じないですむ。
それだけでも僕にとっては眼福であったのだが、頭の中で彼女の良いところを探していってると我慢できなくなった。
聞こえるはずはないとわかっていながら、両手でメガホンを作り叫んだ。
「逢いに行くよ!」
そして、勢いよく階段を降りていった。
〈続く〉