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狡猾な女で何が悪い  作者: ゴリエ
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 好きで好きでたまらない人になんて、生涯のうちでそう何度も出会えたりはしない。まだ二十三年しか生きていない自分のこの先の未来など想像もつかないけれど、それでも、これほど好きになれる相手には、もう二度と巡り会えないだろうと、私は直感的に思った。

 恋に落ちるとはよく言ったもので、本当に、不意に足を踏み外して、知らぬ間に奈落の底に落ちてしまった。彼のことをあきらめることなんて、できなかった。

 一年という長い葛藤の末に、私は結局欲望に逆らうことをやめて、彼女のいる高橋さんを、自分のものにしてしまおうと決心した。

 今までの我慢の反動もあり、開き直った私は、実に合理的な思考をするようになっていた。高橋さんのことを確実に手に入れる。そのためなら、どんなことをしたっていい。

 高橋さんは、私よりも五つ年上の会社の先輩だ。去年新入社員として入職した私の教育担当になった人だった。

 彼は人当たりが良くて仕事もできて、加えて容姿もそこそこ良いという、後輩から見ていわゆる素敵な憧れの先輩だった。社内で高橋さんの悪い噂を聞いたことなど一度もないし、後輩だけでなく、同僚や上司など、誰からも好かれるタイプの人だ。

 「高橋さんが教育担当でいいな」と、何度同期に羨ましがられたことか。しかし、私自身は、魅力的な異性の先輩ともなると、話すときに緊張してしまうし、思ったことを素直に言いにくい、相談もしづらいという部分があって、正直初めのうちは、やりにくいとさえ思っていた。むしろ、気安くざっくばらんに接してくれる同性の先輩が教育担当についた同期の方が、よほど楽しそうに見えた。

 言わずもがな、彼は非常によくもてる。近くで見ていると、それがとてもよくわかる。取引先の人が女性ならなおのこと、男性であっても、その人当たりの良さから、大抵気に入られることが多い。イケメンは得だなと内心で思ったものだし、だからといって、何も彼が顔だけで人から信頼を得ているというわけではないことも、十分わかった。彼に付いて学ぶことで、勉強になる機会はとても多かった。

 私は人と比べて、人を好きになりにくいタイプの人間だと思う。どうしても先に疑ってかかってしまったり、頭で理屈をこねることからまずは始めてしまう。自分の感情よりも理性を優先すると言えば聞こえは良いが、ようは、自分の気持ちに素直になることが怖い臆病者なのだ。友達でも異性でも、本当は、極力自分のテリトリー内には、入ってきてほしくない。

 このまま自分は、きっと恋なんてできない。いや、恋愛なんて面倒なもの、むしろしなくても構わない。人を好きになって恋人ができて、それから結婚して――だから何だというのだろう。

 恋人の話題で盛り上がる友人や同僚を見て、その盲目さ加減を心中で馬鹿にすることもあったし、陰で嗤うこともあった。しかし、本当のところは、自分にないものを持っている彼らが、心底羨ましかっただけなのだ。

 そんな私だったから、まさか自分に限って、こんなに誰かに夢中になる日が来るなんて、想像もしていなかった。普段から色恋沙汰に無頓着な人間ほど、いざ自分が当事者になると、天地がひっくり返ったように、考え方が根本から覆されるのだということを、思い知った。

 好きだと確信するまでに、特にこれといった出来事はなかったように思う。しいて言えば、きっかけは、混雑したエレベーターの中で、高橋さんと向き合って密着状態になってしまったときのことが、彼を意識する小さな始まりだったのかもしれない。

 高橋さんは、普段から香水や整髪料などは使用しない人だ。それなのに、彼のスーツの胸元からは、かすかにとても良い匂いがした。人工的な香りならすぐにそれとわかるけれど、明らかに、やや汗ばんだ男性の体臭だった。それが、近くで嗅いでもまったく不快ではなく、むしろその匂いがとても落ち着くというか、極端に言えば、もっと近づいて、肌の匂いを直に嗅いでみたいとさえ思ってしまった。

 こんなことは恥ずかしくて、口が裂けても誰にも言えない。ようするに、私はそのとき高橋さんに欲情したのだ。

 それからは、高橋さんの行動や言動、一挙一動が気になって仕方なくなった。ふと目で彼を追っていたり、視界に入っていないときでも、常に彼の気配を探していた。そうなって初めて、高橋さんのことを、先輩という枠組み以外の位置付けで、自分が見ていることに気が付いた。

 恋をしてわかったことだけれど、以前の冷めた自分とは打って変わって、ひたすら感情に振り回され続けるという毎日が続いた。仕事でミスをして、高橋さんに注意を受けたり迷惑をかけてしまうと、これまでにないくらいに落ち込んだし、かと思えば、仕事が上手くいって褒められたりすると、いとも簡単に有頂天になる。この極端な浮き沈みで疲れることも多いけれど、心が実にわかりやすく単純に反応するので、自分のことながら、それがとても面白かった。

 毎日会社に行くのが楽しくなったし、実際にやる気もあふれてくる。お洒落にもまったく興味がなかったのに、今ではもっと可愛くなりたいという気持ちが芽生えて、自分に似合いそうな服装や化粧のやり方を、友達に聞いたり雑誌で研究したりして、少しずつ覚えていった。

 恋をすることで、生きる活力を自然と得られているのだと気付いてからは、毎日がとても充実した。

だから、高橋さんに恋人がいても、何も関係のないことだ。私が彼を好きなことと、彼に恋人がいることは、物事として何の繋がりも持たない。

 しかし、そばで見ていられるだけで幸せ、と健気に片想いで終わらせられるほど無欲でもない。ようは、高橋さんに、彼女よりも私のことを好きになってもらえばいい。

 彼は彼女と結婚も婚約もしていないし、現時点で何も縛られていない状態なのだから。

 これがもしも成功すれば、いわゆる略奪愛というものになるのだろうか。高橋さんの彼女に対して、罪悪感をまったく感じないと言えばやはり嘘になる。ただ、この人を逃したら、私はきっと一生後悔する。

 あまり知りもしない他人のことを気遣う余裕は、今の私にはない。それに、私の方が絶対に彼のことが好きだ。この気持ちだけは、他の誰にも負けない自信がある。

 高橋さんから、以前に彼女の話を少し聞かせてもらったことがあった。合コンで知り合った保育士さんらしい。ちょうど私が入社した頃と同じ一年前くらいから、彼女の猛烈なアタックで交際が始まったという。料理が上手で家庭的だと、高橋さんは話していた。

 一度だけ、二人のデートの現場を目撃したことがあった。高橋さんと付き合える女性とは、一体どれだけの美人なのかと思っていたけれど、想像していたよりも、かなり肩透かしを食らった。やや小柄な体型の、それ以外はこれといった特徴のない、あまりぱっとしない容姿の持ち主だった。年齢は、服装や肌の質感から見て、おそらくは高橋さんと同じくらいのアラサー世代かと推測できた。

 私にはわからなくても、高橋さんにとっては、特別な魅力を感じる女性なのかもしれない。けれども、残念ながら、それが理解できない他人の私には、冴えない女、高橋さんとは到底つり合わないと思った。これは嫉妬からくる気持ちだけではなく、あくまで率直な私の感想だった。この女に彼はもったいない。

だから、そのときに思ったのだ。このちぐはぐな二人は、遅かれ早かれ、いずれうまくいかなくなる日が来るだろうと。

 そして、私の予感は的中した。

 今日、高橋さんがいつもより少し元気がなかったので、「何かあったんですか?」と声をかけた。すると高橋さんは、少し戸惑ったようだけれど、「横田さんは鋭いな」と事の経緯を話してくれた。

「実は今、彼女とちょっと揉めててね」

「え? そうなんですか……」

 内心喜んでいるということは悟られないように、あくまで、先輩のことを健気に気遣う良き後輩を演じた。

「今までも結構話し合ったりしてたんだけどね。どうにもすれ違いが続くことが多くて、正直少し参ってる。会うたびに言い合いになるから、精神的にも肉体的にも疲れたよ」

「それは……大変でしたね。ただでさえ、このところ仕事も忙しかったじゃないですか。高橋さん、ちゃんと寝てますか? ずっと顔色も良くなかったし、倒れちゃったりしないか心配だったんですよ。私で良ければ、残っている雑務でも何でもお手伝いしますので、言ってくださいね」

「ありがとう。そう言ってもらえるだけでも、救われるよ」

「本当に、何でも言いつけてください。この書類、今日までに片付けないといけないやつですよね? 私、今日は余裕があるので、ぱぱっとやっちゃいますね」

 私は高橋さんから、半ば強引に書類を奪い取った。

「いや、悪いよ。横田さんだって、たまには定時に帰って彼氏とデートでもしたいだろう」

「それ、わざと言ってます? 残念ながら、彼氏なんていませんよ。しんどいときくらいは、私にも頼ってくださいね」

 私は明るく笑って自分のデスクに戻り、パソコンに向かって作業を始めた。「ありがとう」と気弱に言う高橋さんには、会釈で返事をした。

 本格的に動き出さなければならないと思った。これは、自分に巡ってきたチャンスだ。

 社内でも人気のある高橋さんだ。彼女と別れるのを、何もせずに指をくわえて待っているだけでは、そのうちすぐに誰かに取られてしまうだろう。そうなる前に、早めに手を打たなければ。

 しかし、私は何も、自分から高橋さんに言い寄ったりするつもりは、微塵もない。


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