9月25日「忘れていた来訪者⑧」
「アナタは結果として助けられなかったという事になるわけね」
「まさか・・・有り得なくない? 大人しく他人の言う事を聞くとは思えないけど・・・」
僕は聞いた話に信じられない気持ちだった。
あの「祈」がこの世に居ないと言うのだ。しかもこの施設の役員の手によってだ。
同時にこの場所は「施設」だという事を知った。
「取引をしてた様子だったわね? どんな内容か知らないけれど、それで納得したのではないかしら?」
ベッドに腰をかけたままの天宮院 香具羅は軽い口調で言うが、普通に考えて「この世に居なくなる取引」なんてするとは思えない。
「普通死ぬのを了承するような理由なんて無いじゃないかっ! 騙されたとかも考えづらいよ!?」
「・・・構わないけれど、信頼してるのねえ・・・。でも、彼女がアナタの思っているような状況じゃなかったとしたら? 例えば錯乱していたとか」
「それも考えづらいよ。 彼女・・・祈はそんなに弱くは・・・」
弱くないといいかけた。だが、最後に彼女を見た僕には既に「祈とは違う誰か」に思える変わりぶりだったじゃないか?
祈は学校で誰かを抱えて泣いていた。それが学校での一番の親友だったりとかなら錯乱してもおかしくないのかもしれない。
いや、きっとそうなのだろう。そう考えると現実を知らないような幼い子供のような彼女は納得出来る。
正確には現実を見たくなかったのだろうけど…
「なるほど・・・。だったら祈は・・・」
まともじゃなかったわけだ。冷静な判断が出来ていたら祈は生きていただろう。
短い付き合い・・・といっても、もう大分経つ気がするけど、逆に癖が強いので印象に残りやすい。
「そんな事より逃げないと…」
この場所は危険だと感覚が告げている。
敵である者達に命を助けて貰ったようだが、利用されるに決まっている。
まだ敵と決まったわけでは無いが、体が無事なら遠慮する必要は無い。
天宮院の娘を人質にして…。
「あ…」
そこまで考えて自分が着替えさせられている事に気付く。
武器も携帯も手元に無い。
流石に丸腰で人質を取るのは至難の技だった。
「どうしたのよ?協力する気になった?」
少し長考していると訝しい目つきで天宮院の現当主でもある香具羅は、軽い調子で聞いてきた。 彼女も期待はしてないのだろう。
それに本来なら肉親の仇の僕を仲間に入れる等は論外だろう。
「……祈は本当に死んだの?」
「そう言ってたわ。この研究所の所長がね」
「研究所…所長? いや、それより君は見ていないの?祈が死ぬ所を」
「実物は見ていないけど、彼女の身に付けていた所持品。服、下着を残して身だけ消えてなくなっていたわ。たぶん所長が痕跡さえも消したのだと思う。警察のお世話になりたくないものね?」
「!! 今更良く言うよ! 何人もの無関係な人を君は殺してるじゃないか!」
「お互い様でしょう? 貴方が先に私の大切な物を奪ったのよ? 今すぐにでも殺してやりたいわよ!」
そうだ。
僕も彼女の両親を手に掛けているじゃないか。
言える立場では無かった。
「……ごめん」
「謝って済むわけないでしょ!?」
当たり前だ。許される訳がない。だけど、僕は謝るしか無かった。
人を殺める事は、相手は勿論、その周囲の人間まで苦しめる。それが最愛の人ならば、狂人になってもおかしくないだろう。
そんな当たり前の事を僕は祈の生死不明という状況になって初めて気が付いた。
死んだ者は二度と動かない。泣かないし、怒らないし、笑わない。
残された者の記憶に残り続けるだけだ。
もっと話したかった
もっと触れていたかった
もっと愛したかった
その生者と死者の気持ちが重なる事は無い。
だから悲しくなるのか。だから虚しくなるのか。
汐留祈と出会って彼女の規格外な所に当てられた。
僕は遠い昔のような感覚で祈の事を思い出す。
…そうか。
祈はあの小学校での友人達に同じように思ったのか…。
この天宮院の娘のように、狂ってしまったから…。
「……」
僕は決意した。
「カグラって言ったっけ? 僕と一緒に行こう」
僕の言葉に香具羅は目を丸くした。
「はあ!? こっちが誘ってるのよ? なんで私が貴方に付くような言い方? 頭打ち過ぎたんじゃないの?」
なんか祈を思い出すような罵倒をされているけど、僕は気が触れたとかじゃないつもりだ。
「僕に…償わせて欲しいんだ。許してくれないとは思うけど、せめて君が笑顔で暮らせるように何かしてあげたい」
「い、今更何を…っ!」
「でも、君はこんな所に居ちゃいけない。 僕は殺しの仕事を辞める! 君も一緒に辞めよう!」
「な…っ!? 何一人で盛り上がってるの!? あ…あたしは!」
「組織とかに追われても大丈夫!僕が守るから!」
「ぼ!? あ…え…いや…」
「いくよ!」
「………はい」
足を踏み出す。体は幸い普通に動いた。なんとなく違和感はあったけど、寝たきりだったんだから仕方無いよね?
何故か香具羅の動きがノロノロとしていた。顔も赤い。
体調が悪いのかな?
でも、ぐずぐずしてはいられない。
香具羅の手を引いて、部屋を出ようとドアノブに手を伸ばした瞬間、ドアが勝手に開いた。自動ドアでは無い普通の手動のドアは、こちら側に開いて誰か入ってくる。
「ミチオ! ぐずぐずしてないで出るわよ!」
見覚えも無く、声も聞いた事が無い16才ぐらいの少女がそこに居た。
でも、感覚が告げる。
その姿が違っても…。
「えとえと!? 君は祈!?」
僕は驚きながらも聞かずにいられなかった。
同時に開かれたドアから飛び出るように部屋を抜け出した。
その後に香具羅も着いてくる。
「こっちよ!」
先行する祈(?)は迷う事無く一直線に出口に向かうつもりらしい。
結構な広さがあるようで、途中幾つか分かれ道等があった。
長い髪を左右に揺らし走りながら新・祈は簡単に説明をしてくれた。
「ごめんねミチオ! 私、やっと思い出したの!」
「な、なんの事!?」
声色が違う事に違和感があるが、しゃべり方は祈だ。慣れないが、気にしないようにしようと思う。
「私がミチオに会いに来た理由よ! 忘れてたから適当に言ってたけど!」
「そうなんだ!? でも今は脱出が先だね!」
「そうよ!この施設はミチオにとっては敵よ! 逃走の邪魔になったら打っちゃっていいから!」
「ほんとソレ!? でも僕は…」
丸腰だよ?と言おうとすると何かを投げ寄越された。走りながら「ソレ」を受け取る。よく手に馴染む感覚がした。
「僕の銃!」
見間違う事は無い。
愛銃を手に半身を取り戻した気持ちだった。
だが、先程二度と殺しはしないと約束したばかりだったのに、手には簡単に相手の命を奪う武器…。
正確には『殺しの仕事はしない』だけど…。
祈が知ったらどう思うだろう?
自分で決めた事なのにそれが気になってしまった。
前は僕に強くなるように望んでいたハズだ。
それは敵を倒す技術を磨く事で、敵を殺す技術だった。
祈の望んだ僕じゃなくなったら…祈は失望するのかな?
「後で携帯とかも渡してあげるから!ほら! あそこのエレベーターに乗ればゴールよ!」
いや、考えるより今はこの場所を脱出する事が先決だ。
後の事は後で考えればいいんだ。
ぐずぐずしてると「後」は無いかもしれないのだから…。
「分かった!」
だから僕は力強い答えてエレベーターを目指した。
目前でエレベーターが到着して扉が開かれる。
エレベーターの場所から左右に通路が分かれている。
「二人ともダメ!」
そこで香具羅が叫んだ。その意図を瞬時に読み取って祈が短く吠える。
「左2!右1!」
通路から敵が来ると言いたいのだろう。
「右!」
「オケッ!」
僕は右側から来る敵を相手する旨を伝える。そんな短いやり取りでお互い分かり会える事に祈本人だと確信出来た。
ちなみに僕が一人の方を引き受けるのは単純に効率の問題だ。マグナムは連射には向かないのと祈の腕を信頼したまでだ。
祈の言う通り、僕の方に一人銃を持った警備員のような敵が現れた。
予め来る事が分かっていた分、僕の引き金を引く方が早かった。銃弾を胸に受けて「ぐあっ!」と倒れる警備員。
だが…
祈だって万能じゃないハズだ。
一人だけだと思っていたら実は二人だとか…
そう思った瞬間、右側の通路の天上の通気孔から暗視ゴーグルを着けた敵が顔を出した。
「チッ!」
脊椎反射のように引き金を引く。
それを額に受けて暗視ゴーグル男(?)は絶命した。
殺らなければ殺られていた。
心の中でそんなありきたりな事を思いながら、息つく暇が無いぐらい、次の敵の気配を探しながら、エレベーターを一瞥した。
「ひゅぅ♪ あら。成果有りね?」
「わざとじゃないよね!?」
祈はすでにエレベーターに乗り込んで居た。
祈の方には通路に2人、エレベーターから2人居たようだ。
血溜まりの中に動かない塊が4つあったから…。
こちらの二人分の時間で殲滅する能力の底が知れない。祈は口癖のように言う「神」を体言している。
まさに神業だった。
「乱戦はマニュアル通りにはいかないって口で説明するよりは良かったでしょ?」
「和んでる場合かアンタラ!?」
エレベーターに乗り込み安堵した香具羅は緊張に耐えきれずに祈に絡みだした。
着いてくるだけでやっとと言った感じだったが、乗り込む前に敵が持っていた機関銃を拾って警戒する臨機応変さは少し感心する。
「うっさい荷物ね? なんでそんなの拾ってきたのよ貴方」
エレベーターの1のボタンを押して半眼で嘆息する祈。点灯していた階層はB5。地下での銃撃戦で地上に聞こえる事は無かっただろう。
そして、あの場所でやられていたら…秘密裏に処分されていたのだろう。
『組織の施設』という信憑性はかなり高くなったと言える。
まぁ…そんな事より…
「荷物って何よ!? アンタ死んだんじゃなかったの!?」
香具羅は僕が一番したい質問をしてくれた。
というか、彼女自身から聞いただけだったので嘘かとも思えたが、僕は祈が別人の姿になっている事が答えな気がした。
「死んだ! 復活した! 文句ある?」
祈の答えは簡潔だった。
「文句しか無いわよ! ゲームのキャラかってのよ!」
B4でエレベーターが止まる。
施設の人間が止めたのだろう。扉が開いてしまうので「閉」を押す。
だが、一度は完全に開いてからしか閉まらないから打たれたら終わりだ。
口論してる場合じゃない。
「二人とも! 迂闊だよ!」
開いたエレベーターの扉の向こうには2人居た。
扉が空いたと同時にそいつらは後ろに倒れた。
相手に認識される前に撃ったようだ。香具羅が。
タタンッ!と一瞬聞こえただけだったから2、3発しか撃ってない。
「へぇ…。上手いじゃないの貴女」
パンパンパンっ!
「5歳の時から英才教育受けてればこれぐらいっ!」
タタタン!
「奇遇ね? 私もよ」
パパパパパンっ!
「何歳か分からない化け物の癖にキモいわよ!」
タタタタタタン!
「二人がキモいよ!?」
B3、B2、B1と段々敵が増えていくが、二人は喧嘩しながらドアを見ずに正確に一発づつ打ち込んでいた。
僕は「閉」を押し続けていただけだ。
『『貴方一回死んでみる?』』
銃口を同時にこちらに向けられた。
「すごく仲良いね!?」
そして一階。
もうすぐ抜け出せる。
日本に居ながら銃声をこんなに聞くなんて完全に非日常だと今更思う。
いつからこんな事になるレールに乗ったんだろう?少なくとも『汐留祈』と出会うまでは平凡な毎日を過ごしていたハズだ。
探偵まがいの便利屋…相談所を生業にして、毎月の返済に頭を悩ませながらも…平穏だったと思う。
愛銃でさえ、しばらく握ってなかった。
日本には表舞台に銃社会は存在しない。
銃が無くても生きていけるからだ。
だけど…。今はそれを手放す事は生きる事を放棄すると同義だ。
この目的を『忘れていた来訪者』が僕の日常を変えてしまったのか?
そこまで考えていると、エレベーターが一階に着いた。
刹那響くのは銃声では無く、罵声でも無く…。
発射音と悲鳴だった。
「きゃあ!?」
「うわっ!?」
「おっと!」
何かがエレベーターに向かって飛んできた。
僕らは入り口から飛び出すように転がって脱出した。
一瞬後、エレベーターが爆砕した。
バズーカ砲並みの威力の武器をぶっ放されたようだ。
「騒がしい客人逹だ。人の研究所を廃墟にするつもりか?」
筒状の物を抱えながら、一人の黒い服の男が現れ、低い声が響いた。
バズーカ(?)を放ったのが彼なら一番壊してると突っ込むべきか悩む。
「くっ…誰だよお前は!」
「岩倉紋治博士…」
警戒しながら叫ぶ僕の隣で香具羅が呟く。
その向こうで一人だけ仁王立ちしている少女は無防備に見える。
そんな状況からでも脅威は無いという自信から来るのだろう。
ただ、祈は現れた男をすぐに打ち倒す事はせず、手の中の銃(ハンドメイドの小さな銃―確か特別な銃弾を打ち出す為の超技術を有する銃―)をクルクル回しながら口を開いた。
「とーちゃん。元気な事で…。コレ使わせて貰うわよ?」
「お父さんなの!?」
0.5秒で突っ込む僕。
お父さん死んだんじゃなかったの!?
「違うわよ。紋って統に似てるでしょ? だからとーちゃん」
「音」だけで分かりにくかったが、言われてなんとなく漢字が頭に浮かんだ。
そんな愛称(?)で呼び合うような仲なのだろうか?
岩倉という名前は何処かで聞いたような…?
「そんな呼び方するのは君だけだ。千代君」
黒衣の男は祈を見ながら「ちよ」と呼んだ。
僕が此処に来て寝ている時に聞いた名前だった。
「私は祈よ。撃ち殺すわよ?」
「出来ればするといいだろう。お互い無理な話なのだから…」
「無理じゃないわ。私は神よ」
「ふむ…。取り戻して居たのか。ならその姿も納得いく…」
(さっきから何を話してるのか分からないね?)
(顔近いっ!? わ、私に振らないでよ!)
つい暇で香具羅に話しかけてみたけど、顔を赤くされて怒られた。
分かってない者同士馴れ合ってはくれないらしい。残念。
「ミチオ!こいつがラスボスよ!倒して脱出するわよ!」
「りょ、了解!」
急に振られて戸惑ったが、体は動いて、僕は愛銃の引き金を引いていた。
コルト・キングコブラから放たれるマグナム弾は、見るからに細い男の胸を貫通………しない。
「えぇ!?」
見えない壁にでも当たったかのようにポトリと男の胸から弾が落ちた。
完全に威力が殺されていた。
「怯まず! あそこに打ち込みなさい!」
『あそこ』。
祈が見ている先は『あそこ』だった。
一瞬なんの冗談かと思ったが、祈が放つ銃撃は岩倉紋治の下半身を集中砲火していた。
「うわぁ…」
敵ながら…同情したくなるよ…。
「ぐあぁぁぁぁぁあぁぁあぅぐぁぃぉぉぉぁ!!!」
祈の弾は見頃に直撃したらしく、断末魔のような悲惨な声をあげる紋治。
見てるだけで涙が出そうだ。
「まだよ!完全に不能にしてあげなさい!」
「戦闘不能って意味だよね!?」
場所が場所だけに勘繰ってしまう。
僕が拷問に匹敵する一発を放とうと銃を構え直すと、苦しみ膝を折る紋治に小さな少女が割って入ってきた。
「マスター岩倉!」
「君は!?」
「来たわね人形」
「マロン!? あんたコアになったんじゃ!?」
なんと現れたのはマロンという義手の女の子だった。これでこの子に会うのは三回目だったけど…。
岩倉紋治がこの子のマスター?
「マスター下がって……。マスターは…私が守る!」
マロンちゃんは武器らしい武器を持っていなかったが、小さなナイフを一つだけ構えて祈に飛び掛かった。
「プロトタイプが出張るんじゃないわよっ!」
それを祈は腕を横に薙ぎ払う。
それだけでゴムボールのようにマロンちゃんは弾き飛ばされた。
地面に一度バウンドするが、すぐに立ち上がるマロンちゃん。
「っ! …違う」
言葉とナイフを祈へ同時に飛ばした。
「元は生身の人間だったのに操られているのが人形じゃなきゃ玩具ね!」
そんな物に当たる祈では無く、飛んでくるナイフを空中で掴み、すぐに投げ返した。
ザクッとそれがマロンちゃんの肩に刺さる。
「! …はぁっ! 違う違う違う違う!」
ダメージも無いように、間合いを詰めて祈を何度も殴ろうと腕を振り回すが…。
「マニュアル化された動きを繰り返す出来損ない! 次に出てきたら容赦しないって言ったのを覚えてるんでしょうね!」
祈には全て防がれていた。完全に子供相手にじゃれているようにしか見えないが、祈も合間に反撃しているので均衡しているようにも見える。
「祈の攻撃が弾かれてる…。手加減してるわけじゃないよね? …撃てば分かるね!」
対峙にしている祈に当てないように慎重に狙いをマロンちゃんの義手に定める。武器を持っていなくてもあの部分で殴られたら痛そうだから破壊させて貰う。
…つもりだったんだ。
「!? マグナム弾が弾かれる!?」
小気味良くカキーン!とかいわれた。
ただの短銃じゃなくて世界に誇るコルト社のマグナムだよ!?
なんかインチキしてるよ絶対!
「覚悟…貴女逹は私の大切な家族を傷付けた…! だから覚悟するのは貴女逹!」
家族とはエレベーターまでの施設員達を言っているのか。撃たれた衝撃でこちらに気付いて狙いを僕に変更した。
睨み付けながら殺気を纏って向かってくる。
それを遮るように祈が発砲する。
「!何故!?」
祈の銃撃はマロンちゃんの義手に命中して穴を空けた。
マグナム弾以上の火力!?と一瞬思ったが、発射音からはその威力は感じられない程音が軽い。弾自体に仕掛けがあるのかもしれない。
「正義はどちらかにあるかじゃない…」
防ぐ事が出来ない攻撃にマロンちゃんから緊張感が顔に出ているのが分かった。
今までは「脅威」になる敵が居なかっただけ。
だか神罰を与えるかのように、祈は厳かに構え、弾けるように跳躍した。
「貴女と同じ様に退くわけにはいかないのよ!」
マロンちゃんを上から飛び掛かるように蹴りを放つ祈。
「私の…大好きなマスターを苦しめる悪鬼逹っ!」
マロンちゃんは吠えながら祈の蹴りを両手で払うように弾き飛ばした。
「善悪が決まるのは…」
転倒する事無くひらりと着地し、拳を強く握る祈。
小さい体だった頃とは違って迫力があって様になっていた。
「自分の足で立っていた者だけよ!」
そう叫んで弾丸のようにマロンちゃんに突撃する。
「きゃあぁっ!」
殴ったのか体当たりしたのか早くて分からなかったが、祈の攻撃でマロンちゃんはうつ伏せになって倒れた。
「ハァハァ…遺言は?」
「……」
祈の言葉に、返事は無かった。ダメージで動けないのかもしれない。
「あら?何も無いの?」
「…ます…」
くぐもった小さな呟きがした。
声を出すのも難しいのかもしれない。
「ん?聞こえないわ」
「おね…します…」
「……。遺言は無いって事でいいわね」
腕を振り上げてトドメを刺そうとする祈。その声と気配を察してマロンちゃんは上身だけ起こして泣き声のように叫んだ。
「!? お願いします!! マスターだけは助けて下さい!」
「…それが貴女の遺言ね」
祈が静かに笑う。
「……」
「確かに聞いたわ。遺言を聞くだけで叶えるとは言ってないわよね?」
「!?そ…んなっ!」
その祈の目には冷たさと憂いを帯びていた。
「甘過ぎるわよ。さようなら」
ゴト…。
振り下ろした祈の手刀は、音も無く動かない骸を作り出した。
悲鳴さえ無かった。
鮮血が錆びた鉄の臭いを充満させる。
「じゃあ帰るわよミチオ」
祈は「マロンちゃんだった物」をひょいと抱えて言った。
「え!?それ持って帰ってどうするの!?」
僕はやっと口を開いて喋る事が出来た。
異質な状況に言葉を無くしていたのだ。
「……」
「ちょっと待ってよ!君は本当に祈なの!?」
僕の問い掛けを無視して歩き出す祈。慌てて後を追う。
「……正確にはアナタが知っているイノリとは少し違うわね」
「それって似てるだけの他人!?」
口調と技術は祈だが、声色も姿も違う。
記憶を共有しているだけに見える。
僕らはやっと外の空気を吸う事が出来た。
施設を出ると、見覚えのある場所に出た。
駅前のワンダーストリート…。
振り返ると施設はただの「医院」だった。
黒衣の者が出てくるとかブラックジャックじゃないんだから…。
なんにしろ、岩倉紋治はマロンちゃんとの戦闘中に姿を消した。
身を呈してマロンちゃんの遺言は果たされたのかもしれない。
外は暗く、祈に返して貰った携帯には「AM三時十二分」と表示されていた。
同時に未読メールが20件近くあった。
それは後回しにして…
今は確かめたい事がある。
人に会わないように裏路地を歩きながら、自称汐留祈はこちらが何か聞く前に話し出した。
「私の本当の名前は醍禅千代。汐留祈の体を借りていたブレインドールよ」
「ぶ…ブレインドール??」
聞いた事の無い単語だった。
TAMもそうだったが、一般人には知らされない特殊な世界があるのだろう。
だけどブレインドールという名前からして…なんとなくニュアンスで理解した。
だから「祈であって祈じゃない」が正解なのだろう。
後で聞いた話だけど、TAMとは根本的に違うが、「人では無い作られた者」という点では同じらしい。
「まぁ…言ってみれば神の器ね」
汐留祈が入った人間。いや人形?
彼女は『創造主』という意味か…。
「だから私は神よ」
そう言って笑う彼女の顔は自信満々だった。
【第1部 完】