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泣き達磨

1年と8カ月も空いてしまいました‥。

ぼちぼち体調も戻りつつありますので、次はもう少し早めに更新したいと思っております。

連載再開の話にしては今一つ展開がにぶいですが、とりあえず一話上げさせていただきます。


 雪が降りそうなほど冷えこんだ空気に、吉成(よしなり)薫嵩(ゆきたか)は思わず両手を擦り合わせた。

 日暮れまでにはまだ小一時間ほどある。

 手に持ったメモ書きの名前のうち、訪ねていないのはあと一軒だけだった。薫嵩は首巻きを締め直して、目当ての家へと急ぐ。

 戦争が終わって一年と四ヶ月余り。師走を迎え、年越しのためにと家財を売りたがっている家は少なくない。

 なので薫嵩はこのところ、買い取りや査定の依頼を(さば)くのに大忙しだった。

 首巻きはそんな父親のためにと、一人娘の静香が古いウールの着物をほどいて三枚重ねに縫い合わせ、作ってくれたものだ。

 静香は最近めっきりと大人びてきて、家の中の事に加えて留守がちな父親の代わりに店番まできっちりと務めてくれる。

 少しばかりの霊力のせいでやたらと物の怪に絡まれやすかった体質も、四宮三位分家(みいぶんけ)の隠居である紀世(きせ)に基本の修法を教わったおかげで、最近では問題になることもなくなった。しかも修法を習いに行っているついでにと、母のいない静香に、紀世だけでなく奥方の佐和も料理やら裁縫やらと教えこんでくれたので、どこかふわふわと幼かったのが今ではすっかり落ち着いた一人前の娘になった。

 薫嵩は市之助の祖母と母が、まるで自分の娘のように静香を可愛がってくれることを心の底から感謝している。冗談だろうが、いずれは市之助の嫁に、などと弦之助に言われれば、父としての寂しさよりも安堵の気持ちが先に立つほどだ。

 だいたい、薫嵩自身が市之助を可愛がっているので、息子と呼べればこんなに嬉しいことはない。店はもともと自分一代で終わらせるつもりでいたのだし、市之助ならば―――たぶん静香を任せることができるのだ。

 そこで思わず苦笑いがこぼれた。

 二人とも年が明けてやっと十七になるところだ。昔ならいざしらず、今どき十七はまだまだ子ども、それに今のところお互いに意識しているふうにも見えない。

 この先まだまだどうなるか解らない話だというのに、いつのまにか決まったことのように思っている自分を、薫嵩は誡める。

 ―――家の格式も違うのだし‥。なるようにしかならん話じゃないか。

 路地を曲がってすぐ、大きな柿の木が目に入った。

 どうやらそれが目当ての家のようだった。薫嵩はすっぱりと頭を切り換え、ごめんください、と声をかけた。


 その家はもともとは大家(たいか)の妾宅だか隠居所だかであったそうで、小ぶりながらも贅沢な造りをしていた。

 応対に出た女中に案内されて入った座敷には、かなりの量の桐箱やら巻物、人形などが積まれている。薫嵩はその一つ一つを丁寧に見ていった。

 しかし家の造作に反して、並べられた品には見るべきところが少なかった。

 巻物や書などはほとんどはガラクタ同然で、数品だけそこそこの品があったけれど、このご時世では掛け軸や書などはなかなか捌きにくい。せめて陶器などで変わった絵付けや形のものがあれば、と道具類を見たものの、こちらも大した事はなく、粗悪ではないが普及品の安物ばかりだった。

 それでも困窮している様子は窺えるから、一文にもならないとは言えなかった。

 途中で白湯を持って挨拶に来た主人の着物はだいぶくたびれていたし、息子が戦死して、その報が入った日から奥方は伏せっているそうだ。

 薫嵩は本来ならば引き取らない品にまで値を付けて、いくらか多めの数を引き取ると返答した。地方の同業者に、所有者の肩書きをつけて流せば少しは捌けるだろうと踏んだのだ。

 だが予想どおり、主人は失望を隠せない表情でうなずく。

 それでも半金をこの場で払うと言えば、あからさまな安堵の溜息をついた。

 更に値が付くかどうかはわかりませんがと前置いて、進駐軍相手の土産物商売をしている古道具屋への紹介状を渡した。何でも欠けた火鉢まで面白がって買っていく客がいると聞いたので、そちらならばもしかしたら引き取るかもしれないと思ったからだ。

 主人は少しだけ明るい顔になって、礼を言って紹介状を受け取った。

 恐らくは商売人に礼など言ったことのない身分だっただろう。ぶっきらぼうな口調だったが、思わず口を突いて出たとわかるような真摯なひと言だった。

「いえ。あまりお役に立てずに申しわけございません。残りの半金は、年を越す前にお持ちいたしますから。」

 引き取ると決めた品を手早く風呂敷に包みながら、薫嵩は丁寧に答える。

 主人は再び礼を言って、よろしく頼むと付け加えた。


 用を終えて家の近くまで戻ってきた時には、夕暮れがすっかり色濃くあたりを包んでいた。

 ふと店先に人影が見える。客だろうか、と薫嵩は足を早めた。

 近づくにつれ、声が聞こえてきた。男の声で、脅すかのように低く太い声で、何やらとうとうとまくしたてている。

 薫嵩は思い切り眉をひそめ、店へと走った。

 店先を塞ぐように立っている若い男を、無言で肩を掴んでどけると、上がり框に腰を下ろしている男に、おい、と声をかけた。

 振り向いた顔はまだ若造だった。

 この辺りの者ではない、見知らぬ男だ。なりから見てどうやら復員兵のようだった。

「お父さん。」

 静香はほっとした顔で薫嵩を見上げた。うっすらと目が赤い。

 そちらへ微かに頬笑むと、薫嵩は男をじろりと見据えた。

 どうやら短刀を買えと迫っていたらしい。

「出てってくれ。うちは刃物は取り扱っていない。」

 そのまま腕を掴んで立ち上がらせ、背を押した。

 よろけそうになった男はこちらを振り向いたが、薫嵩は態勢を立て直す間を与えずにもう一度突きとばし、店の外へと叩き出した。

「なんだい! この店じゃ客に乱暴するのかよ? やるなら受けて立つぜ。」

 男は立ち上がり、薫嵩に向けて拳を振り上げ殴りかかってきた。

 それを素早く躱し、足を引っかけてよろめかせると、背後に回って腕を捻りあげる。そしてそのまま押し出し、もう一人の男に向かって突きとばした。

「何が客だ。二度とこの辺りに顔を見せるな。次は交番に突き出すぞ。」

 だいぶ外れとはいえ、『懐古堂』は一応商店街の中にある店だ。

 夕暮れ時ではあるが、騒ぎを聞きつけて人がぞろぞろと集まってきた。

 形勢が悪いと見て、二人組の男は何か捨て台詞を吐いて逃げだしてゆく。

 その姿が見えなくなるまでぐっと睨みつけていた薫嵩は、やがていつもの温和な表情で周囲の人たちに頭を下げ、店の中に戻った。


 その夜のことだった。

 薫嵩は夜中に、緊張した顔の静香に起こされて目が覚めた。

「お父さん‥。物音が聞こえるの。何かが動き回っているような‥。」

 耳を澄ましてみたが、薫嵩には聞こえない。

 しかし静香にはずっと聞こえ続けているらしく、耳を押さえて震えていた。

「おまえにしか聞こえないということは‥人じゃないモノなのだろうね。」

「たぶん、そう‥。お店じゃなくて蔵の方から聞こえる。」

「そうか。今日仕入れてきた中に何か憑いているのがあったのかねえ‥。怖いのか、静香?」

 震えている娘を引き寄せて、抱きしめ、頭を撫でてやるといくらか落ち着いたようだった。ゆっくりと首を横に振る。

「悪いモノじゃなさそうだけど‥。目が覚めて困っているみたいなの。」

「困っている?」

「そう‥。とにかく、お父さんに知らせておかなきゃって思って‥。」

 言うだけ言うと、静香は疲れたのか目を閉じる。

 幼い頃のように布団でくるみこんでやり、背中をぽんぽんと軽く叩けば、静香は安心したように眠り始めた。

 気づくと襖の上の柱に、静香が書いたらしい魔除けの札が貼りつけられている。

 どうやらはなから物の怪だと気づいて、紀世に教わったとおりに札を作ったのだろう。静香はそれほど力が強いわけではないと紀世からも聞いているから、念をこめすぎて眠くなってしまったらしい。

 やれやれと苦笑気味に頭を撫で続けた。

 たぶん札を作ったのは、薫嵩を護ろうとしたのだろう。

 頭を撫でられて安心するのだから、いつまでも幼いままかと思えば、とっさに親を護ろうと考えつくほどには大人になったとみえる。親の目から見れば、中途半端で危うい年頃だ。

 ―――今日の事もそうだ。ちょうど間に合ったからいいが、危なかった。

 これからは外商に歩く日は店を閉めようと決めた。

 質屋と似たように思われて押し借りや物取りも現れるかもしれない。十六の小娘一人と侮られれば、何が起きるかわかったものではないし、金ではすまない場合もありうる。

 静香はまだ子どもだ。

 親の庇護をこうして求めてくるのだから。

 しかしそんな風に護ってやれるのも、あとどれくらいなのだろう。

 穏やかな寝息を立てる娘の頭をもう一度撫でながら、薫嵩はしみじみと思った。


そんなことがあってから、数日が過ぎた。

 年の瀬を迎えて賑わい立つ商店街を抜けながら、学校帰りの市之助は、ふと一軒の店の軒先で足を止めた。

 その店は以前は蕎麦屋であったが、最近では温かいすいとんを売り物とする飯屋に看板替えして、たいそう流行っている。今も腹にしみいるようないい匂いが、暖簾ごしに漂ってきていた。

 だが市之助の気を引いたのは、すいとんの匂いではない。入口の横に鎮座している、やけに大きな招き猫だった。

 じいっと見つめていると、招き猫はたらり、とひとすじ汗をたらした。

「‥‥何してるんだ、お白?」

 傍に寄って小声で囁けば、招き猫は青ざめ、大きな顔じゅうにどっと汗を浮かべる。

 ―――は、話しかけンじゃないよ! 誰ぞに聞かれたらどうすんのさ?

 市之助は腕を組んで、冷ややかに見下ろした。

「結界張ってるから問題ねェよ。で、何やってんだ?」

 招き猫は諦めたように大きく息をついて、ぶん、と体を振って白猫の姿になった。

「商売だよ! 決まってるだろ。」

 白猫はふてくされて不機嫌な顔つきで答える。

「そりゃ商売なんだろうが‥。招き猫なんかでどうやって儲けるんだよ?」

 市之助は口の端を微かに綻ばせ、白猫の前に屈みこむと喉を撫でてやった。

 お白は髭を自慢げにぴんと張った。

 気持ちいいのか猫の(さが)なのか、すりすりと喉を掌に押しつけてくる。

「ふふん‥。世間知らずの坊ちゃんにゃあ、このお白の天才的なひらめきは、理解できないだろうよ。」

 偉そうに言ってから、急に慌てて、人に悪さはしてないよ、付け足した。

「お互いに食ってなきゃいけないからねえ。むしろ人に協力してンのさ。文句はないだろ?」

「別に文句つけようってわけじゃねェンだが‥。ま、こんだけ繁盛してりゃ、夜鴉へのシノギは稼げるか。‥‥邪魔したな、頑張れ。」

 独り言のようにつぶやいて、市之助は立ち上がってくるりと背を向けた。

「ありがとな。坊ちゃんも頑張んなよ。」

 ふうっと大きな息を吐いて、お白は招き猫に戻る。

 市之助はすたすたと歩き出し、じゅうぶん離れてからちらりと視線だけで振り返った。

 暖簾の陰から、お白ではない何者かがこちらを伺っていた。

 同い年くらいの少女のようだ。

 三つ編みのお下げに、地味なブラウスとスカート、前掛けを身につけている。すいとん屋の者らしいが、やけにじっとこちらを見つめてくる。

 思わず気配を探った。そして苦笑いが浮かんだ。

 ───元気になったのか。

 微かに感じる妖気の気配は、どうやらいつかの柳女のものだ。

 おそらく宿り木は物の怪街道に置いたままなのだろう。あれは写し身か。

 そうか、と市之助は納得した。

 たぶん彼女が店で働いて、給金をお白に渡しているのだ。

 古なじみだって言っていたくせに、貸しを取り立てて金儲けを手伝わせているんだな、と思えば、ちゃっかりしてやがる、と笑いがこらえきれない。

 ───まあ。あの程度の妖気なら、取り殺される奴も出ないだろうし。

 放っておこうと市之助は足を速めた。


「あのお方があたしの命の恩人さま‥。」

 遠ざかる学生服の背中を見えなくなるまで見送りながら、少女はぼんやりつぶやいた。

 ちょっと見には、二枚目の学生に憧れるすいとん屋の看板娘。よくある話ではある。

 だが中身は二百才を越えたそこそこ有名な物の怪だ。実はそんなによくある話でもない。

 ぽうっと頬を染めうっとりしている少女に、招き猫が呆れた目を向けた。

「お(えん)ちゃん、あのさ。言っただろ、あの坊ちゃんは四宮の人だよ? 惚れたって無駄なんだからね、解ってるのかい?」

 お下げがしょんぼりと下がって、解ってるよ、と答え、少女は店の中に戻る。

 ―――人間の男には愛想が尽きたって言ってたのにサ‥。やれやれ。懲りないねえ。

 しかし男に惚れるのが本性(ほんせい)だと言うのだから、懲りないに決まっているのかもしれない、とお白は考え直した。

 柳女のお艶。

 たった今はすいとん屋の遠縁の娘、今年十六の美鈴と名乗っている。

 むろんそんな娘は実際には存在していないのだが、すいとん屋の夫婦はすっかり丸め込まれていた。

 美鈴は美人で気立てがよく働き者と評判で、彼女めあてにやってくる客も多かった。妖力は―――ほんのぽっちりだけ使っている。

 仕事に戻りながらお艶―――美鈴は、初めて目にした命の恩人の顔を思い浮かべた。

 純粋な人間とは思えぬほど強い霊気と美しい姿。

 あの人がその気になれば、夜鴉の向こうを張って物の怪たちを従えることだって可能だろうに、とまで感じる。

 だが彼は信じられないことに、あの物の怪の天敵、四宮の生まれなのだという。

 物の怪にとって四宮の力と言えば、遭遇しただけで消えてしまいそうな、魂の底からそそけ立つ恐怖の代名詞だ。

 なのに助けてもらった記憶があるせいか、お艶には市之助の霊気は他の四宮とは異なる感じがしてならなかった。確かに四宮の香りが色濃く匂い立つのに、身も凍るような怖ろしさをまったくもって微塵も感じないのである。逆に、優しくて温かい、と感じてしまう。

 それが世の中にとってどんな意味を持つのか、むろんお艶には解りはしないのだけれど。

 ただ彼女にあるのは世の中の何よりも慕わしいという想いだけだ。

 ―――はア‥。惚れるなって言われても無理だよ、お白ちゃん‥。

 お艶は胸の奥をぎゅっと締めつける痛みをこらえ、テーブルの片付けに取りかかった。


 一方で商店街を抜け切った市之助は、外れにある『懐古堂』の前で立ち止まった。

 珍しく戸が閉まって、『休業中』の札が掛かっている。

「‥‥親父さん。俺だよ、市之助だ。留守かい?」

 戸を叩くと、すぐに返事があって静香が顔を出した。

「市ちゃん、久しぶりね。お父さんなら外商に出ているけど、もうじき帰ってくると思うわ。どうぞ上がって。」

 静香はほんわり微笑って、市之助を招き入れた。

 すぐにまた『休業中』の札を直し、戸を閉める。

 勧められるままに奥に上がって、どうかしたのかと訊ねた。

「え? どうかしたかって‥何が?」

「おめェがいるのに店閉めてるからさ。風邪でもひいたのか?」

 静香は笑って、首を振った。

 そして先日の短刀を持ちこんだ男の話をして、当分の間父親が留守の時は店を閉めることになったと説明した。

「ふうん‥。なるほどな。」

 微かに眉をしかめて市之助はうなずく。

 年の瀬には確かにそんな輩も多くなるだろう。

 それでもこの辺りはまだましで、空襲の被害も少なかったおかげで、見慣れない者がいればすぐわかる。とはいえ、『懐古堂』は商店街の賑わいからやや外れているし、薫嵩の懸念はもっともだ。

 出された茶をすすりながら、ちらりと静香を見遣れば、彼女はやりかけだったらしい繕い仕事に戻っていた。

 ふっくらした頬にやや幼さが残るものの、ほっそりとした器用そうな指、なだらかな肩などはずいぶんと女らしくなって大人びて見える。

 ―――中身は相変わらず阿呆だが‥。親父さんも心配するわけだな。

 淡々とそう思いながら、心配しているのは薫嵩だけではないと思い出した。


 市之助の家では、静香の扱いはもうすっかり『うちの()』だ。

 家に帰って、もしうかうかとこんな話を聞かせたりすれば、祖母と母がさぞかしましく騒ぐだろう。話の流れによっては、市之助に学校を休んで見張りにつけなどと言い出しかねない。

 父に至っては窘めるどころか、もっと暴走しそうだ。

 何でも先日は、いずれ市之助の嫁に貰いたいと酔った勢いで薫嵩に口走ったらしい。

 一人娘をいきなり嫁に寄こせとか、それだけでもずいぶんと失礼な話だが、弦之助は調子に乗ってなんなら市之助と交換でもいいんだが、などともちかけたという。

 バカにも程がある。

 翌朝酔いが醒めて青くなり、『懐古堂』へすっとんで行って平謝りに謝っていた。ざまァ、と思ったのは内緒だ。

 市之助自身は嫁だの何だのの前に、自分の将来を考える方が先だった。

 本家は相変わらず頑なだ。能力者として認めてもらうのはもう無理だろうと市之助自身はそう考えている。となると三位分家の跡を嗣ぐのは難しい。

 弦之助が当主になった時には、紀世がまだ元気だったし、他に内弟子の家人が何人もいた。それに男とはいえ十分跡継ぎになれそうな霊力を持った子どもがいたわけで、心配はなかった。

 しかし先の戦争で家人は本家に徴用され、戦後も人手不足を理由に返してくれなかったため、現在三位分家の認定された能力者は、隠居の紀世一人だ。

 もしもこのまま表向き無能力者の市之助が跡を嗣ぐならば、分家のどこからか能力者の女を嫁に迎えるようにと本家からは言われるだろう。

 現にあちこちの分家から打診はたくさん来ている。

 正式な申し込みだけではなく、水も滴る彼の美貌に岡惚れした娘たちから、直接恋文を渡されたり、押しかけて来られたりすることもあった。

 紀世も弦之助もそういう輩には、剣もほろろに門前払いを喰らわせた。だが四宮の女はだいたいが気が強く、どれも男を下に見る傾向があるので、厚かましく居すわろうとして大騒ぎになったりもした。

 市之助にしてみればばかばかしく、面倒くさい限りだ。

 自信たっぷりの女たちは直接会うと大抵、市之助の霊力に驚き、畏怖か崇敬のどちらかを抱くようになる。結局は自分も能力者なだけに格の違いに圧倒され、傲慢な態度はなりをひそめて、誰も彼も最後は打ちのめされたような表情を浮かべて去っていった。

 いい加減にうんざりしている。

 弦之助は本家なんぞ構うこたねェよ、と言う。

 確かに本家が認めようと認めまいと自分は能力者であり、そのうえ三位分家の跡取りだ。

 これは霊力が結びつけた縁であって、認める認めないの話ではなく誰にも変えられない事実である。

 だから市之助がちゃんと能力者として生きようとして、本家と対立すれば、三位分家も対立することになるし、四宮の男としてだけ生きるならば四宮三位分家の在り方に沿った生き方をしなければいけない。

 家も家族も大切に思っているし、まして霊力は自分の半身だ。どれも自分から切り離して考えることなどできないに決まっている。

 紀世はいざとなれば本家と縁を切っても何も困りゃしない、とまで言い切る。

 破門になれば、本家の大結界の庇護を受けられなくなるというのに豪儀なものだ。

 有難いと心底思う反面、せめて紀世が生きているうちはそんな顛末になんぞしたくないとも思う。

 今は学生の身分だから先延ばししているが、卒業すれば本家で一年の執事見習いを務めなければならない。分家の男で四宮に入る者に義務づけられている奉公だ。

 その時に自分の霊力が本家にどう作用するのか―――考えれば考えるほど不安しかなかった。


「市ちゃん‥。どうかしたの?」

「‥ん?」

 振り返れば静香が、少し心配そうな顔をしてこちらを見ていた。

「何だか、今にも溜息つきそうな顔してる。珍しいね。」

 ふふ、と笑ったのは、気遣いだろうか。阿呆のくせに、そんなところだけ妙に勘がいい。

 手慣れたしぐさで玉留めして糸を切り、針を裁縫箱に戻すと、静香は繕っていた着物を丁寧にたたんで、片づけ始めた。

「お茶を淹れなおすから待ってて。」

「ああ‥悪いな。」

 ほんとうは薫嵩に用があるわけではない。単に店が閉まっていたから覗いただけなのだから、さっさと立ち去ればいいのだろうが。

 この店の内は居心地がいい。

 静かで清涼な空気がとても落ち着くのだ―――気持ちも、霊力も。

 そう思った時、市之助はちょっとした違和感に気がついた。

 ほんの微かな気配だが、何かが動いているようだ。

 気配はやがてだんだんと近づいてきて、目の前で止まった。

「お待たせ、市ちゃん。」

「‥‥静香?」

 ちょうどお茶を淹れなおしてきてくれた静香の顔を、まじまじと見上げて、すぐに違和感の正体に気づいた。

「静香。おめェの後ろを従いて歩いているのがいるンだが。解ってるかい?」

 すると静香はちょっと困った顔でうん、とうなずいた。

「市ちゃんには解っちゃうよね‥。何か困ってるみたいで、訴えてきてるんだけど、あたしじゃそれ以上は全然解らなくって‥。ただ悪いモノじゃなさそうだから、放ってあるの。」

「確かに悪さをする感じじゃねェが‥。ちょっとちぐはぐなモンだ。気になるな。」

 静香はきまり悪そうに続けた。

「市ちゃんに相談しようかって言ったら、お父さんに止められちゃって。いくら友だちだからって何でも頼ってはいけないよ、って。」

 市之助はいずれ四宮を嗣ぐのだから、家業となる仕事を、友人だからといつもいつも術料もなしで片づけて貰ってはいけないと諭されたらしい。

 世間一般には、四宮では血族の男は能力者になれないなどと知られていない。

 傘下には男の能力者はむしろ女より多いし、その中には市之助の祖父のように四宮姓の家に婿入りして四宮を名乗る者もいる。

 だから実際に霊力を持ち、修法を身につけていて、三位分家の一人息子である市之助が、よもや能力者認定されないモグリの術者であるなど、誰も思わないのである。

 市之助は苦笑いを浮かべた。

「まあ‥親父さんの言うのはもっともだが、俺は特殊なんだよ。」

「特殊? あ、霊力がすごく強いから?」

「いや、そうじゃねェ。前に言わなかったか? 四宮の血筋では、霊力は普通女にしか出ないんだ。だから俺ァ能力者としちゃモグリなのさ。金が貰える立場じゃねェ。気にしなくていいよ。」

 溜息混じりに説明すると、静香は複雑な表情を浮かべた。

「おめェは憑かれやすいタチだから、悪意がないモノでも心配だしな。遠慮なく相談してくれ。」

 そう続ければ、静香は、ちょっぴり申しわけなさそうな様子ながらもどこか安堵したようにうなずく。

「なんだか市ちゃんの事情につけこんでるみたいだけど‥。でもありがとう。嬉しい。」

 終いには素直にとても嬉しげな笑顔を向けられた。

 ガラにもなくちょっと照れくさい気分になる。

「で? いつからいるんだ、そいつは?」

 いつのまにか静香の横に出てきて、並んで鎮座している黒っぽいモノを見遣り、市之助は訊いた。

 身丈は五十センチほど。姿はぼんやりとしているが、そうしていると頭でっかちの子どもか、でかいお供え餅のようでもある。

「ちょうどさっき話した、嫌なお客さんが来た日から。お父さんが言うには、あの日はいろいろな品をたくさん買い付けしてきたから、そのどれかかもしれないって。」

「なるほどな。」

 じいっと見つめていると、そのモノはぶるぶる震え始めた。

 市之助は静かに問いかける。

「‥‥おまえ。なんでここにいるんだ?」

 黒っぽいモノは悄然とうなだれて、解らないのだと答えた。

「き‥気がついたら、この家にいたんでやんす‥。」

「本体を持っているんだろ? ‥なんで出てきてうろうろしてる?」

「さあ‥本体ってのがあるんでやすかねえ‥? いったい何が何だか、あっしは何なんでやんしょう?」

「思い出せねェのかい? 厄介だな、そりゃ。」

 市之助はどうしたものかと腕を組んだ。

 静香は何だか解らないモノが、はっきりした言葉を喋ったことに驚いている。

 すごい、とか言いながら目を輝かせて、そのぼうっとした輪郭の、子どもの頭みたいに見えるあたりを器用に撫でてやっていた。

 どうやら本体を失って曖昧になってしまったモノのようだが、市之助の見るところ、モノといっても物の怪ではなくもう少し有難いモノだったように見える。

 ―――気配は妖気じゃなくて霊気だな‥。神気と言うほどじゃないから信仰されていたってンでもねェ‥。守護の気配だから、家内守護のお札か、守護精霊か? 

 誰かを、あるいは家を守っていたモノなのだろう、とは解るのだが。

 そういったモノは形を失い、力を失っても、何を守っていたのかだけは覚えているのが普通だと聞く。それが生まれた理由である以上、存在意義を失えばこの世に留まれなくなるからだ。

「どうも‥ヘンな具合だな。自分が何のためにいるか、覚えてないのか?」

「相済みませんこってす‥。面目次第もございやせん‥。」

「体を探してあげれば、思い出せるかしらね?」

 静香の意見に、市之助は少し考えたあと首を傾げた。

「どうだろうな‥。何のために生まれたのか覚えていねェってことは、本体はもともとの形を失くしてるってことだよ。それでも消えずにいるんだから、元はよほど強い力を持っていたンだろうけど‥。」

「強い力?」

「ああ。強力なお守りだったんだと思う。」

「お守りだったの‥。」

「そう言われれば‥。誰かを守っていたような気がしてきやした。」

 真剣ながらも暢気な言いぶりに、さすがの静香でさえ呆れ返ってヘンな顔をしている。

「でも‥。誰を守るのか忘れちゃって、ほんとの体も失くしちゃってるんでしょ? 大丈夫なの?」

「大丈夫かと聞かれれば、大丈夫でやんすが‥。大丈夫じゃない気もしやすね‥。」

 真っ黒な何かが頭を抱えている様子は、どことなく滑稽だが不憫でもあった。

「‥‥探してみるか。」

 振り返った静香は、明らかに期待のこもった視線を向けてくる。

 それをまっすぐ見返して、市之助は訊ねた。

「蔵をちょっと見せてもらっていいか? 」

 うん、と静香は弾むように立ち上がった。


 蔵の中は当然ながら寒い。一歩足を踏み入れれば、息が白く凍るほど冷え冷えとした静謐な空気が身を押し包んでくる。

 そんな静けさの中で、ひょこひょこと後ろをついてくる黒っぽいモノとよく似た気配はすぐに見つかった。

 細々した品がひとくくりに収められている棚を覗くと、うっすらとした霊気を纏う文箱があった。朱塗りの、ひと目で高価だと解るような細工物である。

「この箱なの?」

「いや‥。中にあるみてェだよ。案外と小さいのか‥?」

 二人でそうっと箱を開けてみる。

 その中には数枚の草花などが描かれた手習いの半紙と、色あせたお守り袋が入っていた。

 市之助がお守り袋を手に取ると、一緒に覗きこんでいた黒っぽいモノの霊気が少しだけ強くなった。

 かなり古いその袋を傷つけないように、丁寧に口を開く。中には普通に、薄い木札をはさんだ三つ折りの護符が入っていた。しかし護符はなぜか半分焼け焦げて、失くなっていた。

「この護符がおめェの本体らしいが‥何か、思い出せそうかい?」

 黒っぽいモノは子どものようなしぐさで、首を傾げた。

「確かに、ここにいた気がしやすが‥。よく解りやせん。」

 ふうん、と市之助は考えこんだ。

 同じ気配を纏っているのだから、これが本体なのは間違いないところだ。だがおかしな点がいくつかあった。

 まずは最初の見立て通り守り札ではあったけれど、古いだけで神社でよく売られている一般向けの厄除け札だ。それほど強力なものではない。特別に名前を掲げて祈祷していただいたようなお札とか、霊能力者が念をこめた護符とかを想像していたのに当てが外れた感じだ。

 次は焼け焦げた紙の状態だ。半分焼失しているのが原因で、記憶が欠損しているのだろうけれど、いったいなんで焼けたのだろう?

 しまわれていた袋の紐は、数十年単位でほどいた形跡がなかったように見えた。だが札の焼け具合はそこまで古くも見えない。恐らくは今みたいに抜け出ている時に、何らかの事情で火がついたのだろう。そして今まで眠っていたのか。

 更にどうして『懐古堂』で目が覚めたのだろうか。

 札が焼けたのは古くはないとはいえ、昨日今日の出来事でもなさそうだ。恐らく一年近くは眠っていたのだろうに、何を守っていたのかさえ忘れた弱った状態で、なぜ目覚めたのか。

 静香に懐いて、後をついて歩いている様子を見れば、たぶん静香の気配がもともと護っていた主人―――たぶんこのお守り袋の持ち主である人と似通っているのかもしれない。もしかしたらその人も女性で、ほんのりと霊力を持っている人であったのかも。

 そこで市之助は、静香が押し売りに遭った話を思い出した。

 これがその日に仕入れた品であったならば、薫嵩が止めに入った時、持っていた荷物に入っていて、静香の危難に遭遇したのに違いない。それでお守りの本性に従い、目が覚めたのかもしれない。

「市ちゃん‥?」

 考えに没頭していた市之助は、静香の声に我に返った。

 振り向くと静香は寒いのか体を震わせていて、頬が真っ白になっている。

「すまねェ。ちょっと考えこんじまった。‥戻ろうか。」

 そして静香の手にお守り袋を握らせた。

「事情は解らねェが、これがこいつの本体だよ。たぶんおめェがもとの主人に似ていたンだろう。持っててやんなよ。」

 静香はじっとお守りを見ていたが、ほうっと真っ白な息を吐き出すと、顔を上げてうん、とうなずいた。


 蔵から茶の間へ戻ってまもなく、がらがらと戸が開く音がした。

「ふう、寒い。‥‥おや、市ちゃん。来ていたのかい?」

 かじかんだ手に息を当て、寒そうに身を縮こませた薫嵩が入ってくる。

 市之助は立ち上がって会釈を返した。

「お邪魔しています、親父さん。」

「ちょうど良かった。お客さんに羊羹をいただいたんだよ。‥静香。」

 はあいと返事をした静香は、差しだされた羊羹を見て目を輝かせた。いまどき羊羹なんてなかなか庶民の手に入るものではない。

「美味しそうね! 今切ってくるからちょっと待ってて。」

 奥へ引っこんでゆく静香のあとを、小さな黒いモノがととと、っと追いかけていった。

 その姿を眺めながら、市之助は薫嵩に向きなおった。

「親父さん。あれはもともとお守りだったモノだから、放っておいても大丈夫だよ。どうも静香を新しい主人にしたらしいよ。」

 薫嵩は眼を細めて、市之助の説明を聞いていた。

「そうかい。市ちゃんの見立てなら安心だ。‥もしかして静香に呼ばれたのかい? いつもすまないなあ。」

「いいや、違うよ。たまたま寄ったんだ。ちょっと親父さんと話したくて‥。」、

 首を横に振って、市之助は答えた。特に用があったわけではないが、薫嵩と話したかったのはほんとうだ。

 薫嵩は優しげに目を細めたまま、そうかい、とにっこり微笑った。

 その顔を見たら、胸の奥に押しやっていたさっきまでの二択とは違う将来が、何となく浮かび、つい口をついて出てきた。

「あのさ‥。実は、大学を受けようかと思ってるんだけど。」

「ほう。新制大学かい?」

「うん。それで‥。」

 どうせなるようにしかならないのであれば、とりあえず流れが定まるまでは好きなように生きればいい。そんな気持ちがふつふつと湧いてくる。

 それからすっかり話しこんだ市之助は、結局、静香の作った夕ご飯をご馳走になってから家に帰ることとなった。

 勝手口から外へ出て、見送りに来た静香を振り向き、ごちそうさん、とひと声かける。

「暗いから気をつけて帰ってね。」

 ああ、と答えて歩き出し、路地裏から表通りへと出た。身を切るような冷たい空気に、ほんの一瞬だけ立ち止まる。

 十二月の真っ暗な夜空に、いつのまにか雪がちらちらと舞っていた。



 その女の人は届けられた行李に添えられた手紙を読みながら、さめざめと泣いていた。

 背中までお白粉を塗って、派手な着物に身を包んだその女の、形良く引かれた真っ赤な紅が、仄暗い部屋の中で妙に光って見えた。

 元は裕福な商家の娘だったけれど、十三の年に家が潰れた。父親は病死、母親は首をくくった。残された多額の借金を払うために、彼女は自分から進んで身を売ったそうだ。

 五つ下の弟は絵の才能があったので、手習いの師匠の紹介で着物の絵付け師に弟子入りさせた。

 それからずっと、いつか一人前の絵付け師になった弟と再び一緒に暮らすことだけ夢見て、一日も早く借金を返し終わり年季が明けるようにと、ろくに休みも取らず、贅沢もせず、ただ一生懸命に働いてきたというのに。

 ちょうど八年目の夏。

 見覚えのある小さな行李一つと、分厚い手紙が届いた。

 表書きの字は見慣れた弟のものではなかった。

 それは弟の師匠からで、弟が流行病で亡くなったと知らせるものだった。もう少しで独り立ちできるところだったのに、と愛弟子の死を悼む文が綴られていた。

 行李の中にはわずかな遺品と、弟の手になるという墨一色で描かれた真っ黒な達磨の絵が入っていた。だいぶ経年のわかるその達磨は、片目だけ黒々と真新しい墨が入っており、もう片方は白く空いたままだった。

 師匠の手紙によれば、その絵は弟子入りしたばかりの頃、幼い弟が一生懸命描いたものだという。

 独り立ちができたら片目を入れ、出世して苦界にいる姉を身請けできたならもう片方に目をいれるのだ、と口癖のように言っていたそうだ。

 だから師匠として、一人前となった証しの片目を入れたと手紙にはあった。

 心を落とさず体に気をつけて、無事に年季が明けたならば、もう片方の目に墨を入れてやって欲しい。そう続けられていた。

 涙を拭いて、彼女は墨をすり、達磨の空いている方へ黒々とした目を入れた。

「‥‥年季明けはまだだけど、今日からずっと一緒よ。」

 ぽつんとつぶやいた声がくっきりと響いた瞬間、暗い部屋は不意に明るくなった。

 その後は走馬燈のようにたくさんの情景が流れていく。

 女の人はそれからはいつも微笑んでいて、泣くことはなかった。

 弟の残した習作の絵をモチーフに、着物を仕立てて贈ってくれた優しい旦那様に出会い、年季明けを待たずに身請けされ。

生んだ息子は半年で本妻に引き取られていったけれど、跡取りとして大切に育ててもらい、立派に成長した。

 旦那様の死後は、子どもに書道を教えて慎ましく暮らし、ずいぶんと長生きをして。

 伏せっている友人の見舞いに出た先で、空襲に遭った。

 土地勘のない場所で、彼女が逃げ遅れて転んだところで―――思わず両腕を差しのべて助け起こしていた。

 今までずうっと、ただ見ていただけだったのに。

 急に何か、『自分』という新しいモノが具現化したようだ。

 煙に巻かれ、朦朧とした意識の中で、彼女は老いてなお美しい微笑みをこちらへと向けた。

「ああ‥そうか。今まであたしを守ってきてくれたのは‥あんただったんだねえ‥。達磨さん。」

 ありがとうね、と洩らした声はあまりに細く、とりまく炎と煙はますます大きくなっていく。

 やがて世界は暗転した。


 明け方のほの白い光に目を覚ました静香は、いつのまにかお守り袋をしっかりと握っていたことに気づいた。

 枕もとには顔に焦げ痕のついた、半分しか体のない墨色の達磨が畏まって座っていた。

 やけに現実的な夢だったけれど―――どうやら見ていたのは静香ではなく、この達磨だったのかとすとんと腑に落ちた。

 達磨はまるで泣いているようにしょんぼりとして見えた。

 よくよく見れば目がなかった。

 頭はかろうじてあるのだけれど、二つの目はあるのかないのか、煤で汚れて描線が曖昧になってしまっていた。真一文字に引き結んだ口だけがはっきりしている。

 静香はそうっと布団を抜け出し、小さな頭をぽんぽんと撫でた。綿入れの半纏を羽織って茶の間へと向かう。

 達磨は粛々とついてくる。

 灯油ストーブを点け、その前に背を向けて座ると、お守り袋から焼け焦げのある守り札を取り出した。

 表書きの紙を破かないようにそうっと外すと、木の札との間にもう一枚はさんであったようで、同じように半分焼け落ちた紙が落ちてきた。

 それは『大吉』のおみくじで、裏にあちこち焼け焦げた達磨の絵が描かれていた。

 夢で見たあの達磨の絵は、どうやらおみくじの裏に描かれていたらしい。

 何十年も前に亡くなった少年の、姉への想いが、おみくじの『大吉』にこめられているのかと思えばなんだかとても切ない気がした。

 そして、難しい理屈は解らないけれど、役目を終えたはずの達磨が消えずに残っている理由と今胸に湧いた切ない気持ちは、どこか同じものを持っているように感じる。

 ともかく達磨を―――もう一度達磨に戻してやりたい、と強く思った。

 静香はしばらく思案していたが、やがて思い立って裁縫箱、硯と墨、それに自分の作った魔除けの護符を棚から出してきた。

 護符の何も書かれていない裏側に、達磨の絵を上にして焦げたおみくじを乗せてみる。

 それからいったんおみくじを外すと、目のあった場所へ印を付け、細工用のナイフで目の形に丸く切り抜いた。そしてあらためて魔除けの護符の裏へ達磨の絵を貼りつける。切り抜かれた穴がちょうど目のように見えた。

 満足げにうなずいた静香は、今度は筆を取ると、またちょっと考えた後、達磨の輪郭をなぞり、下に貼った護符まではみ出して失っていた部分を補うように描き足した。紙の継ぎ目や焼け焦げなどを睨みつけながら、体じゅう全部を黒々と塗りつぶす。

 頬に焦げ痕がうっすら残る、真っ黒な達磨が出来上がった。

 最後に両眼をしっかり入れ、筆を置いた静香は、隣に座っている真っ黒なモノを振り向いた。そこにはしっかり目の開いた黒い達磨がかしこまっていた。

「大丈夫。今日からずっと一緒だよ、達磨さん。」

 にっこりと微笑んで手を差しのべると、黒い達磨はもやもやと形が変わっていき、十歳くらいの色の黒い男の子の姿になった。

 男の子は、やっと親にめぐり会った迷子みたいな表情でほっと安堵の溜息をつき、その手を取ると畏まって頭を下げた。

「嬢ちゃん‥。どうぞよろしゅうお願いいたしやす。」

 ゆっくりと頭を上げたその顔は達磨にそっくりで、大きな両目からはさんさんと涙があふれていた。

 こちらこそ、ともう一度微笑みかけながら、その涙が嬉しい涙であることを静香はそっと願った。


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