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闇化粧

 川べりに立つ一本の柳の下に、ひっそりと佇む少女がいた。

 女学生のように額を出して後ろ髪を下げ、明るい縞模様の銘仙(めいせん)蘇芳(すおう)の帯を締めている。誰かを待っているのか、時折吐息をこぼしながらぼんやりと空を見上げている。

 学校をさぼって土手で昼寝をしていた四宮(よつみや)市之助は、見ないふりをしながらも少女が気になっていた。

 人にしてはやけに美しすぎる。あれは人の美貌ではなく、妖しの美しさだ。

 だが気配はどうも人間だ。年の頃も見たまま、十八、九といったところか。

 何かの妖力を借りたのかと思うのだが―――術を遣った禍々しさはない。邪気も漂わせてはいない。

 ―――どうも‥‥おかしな具合だ。

 妖しの力を意図して借りているのなら、どこかに妖力を発する源を秘めているはずなのだが、少女に漂う妖力は全体をほんわりと包みこんでいる。むしろ、少女自身が妖しであるかのようだ。

 土手を上がり、離れた位置からもう一度じっくりと眺める。

 そこへ少女の待ち人らしき青年が、息を切らせて走ってきた。学生のようだ。

 不安げだった顔がぱあっと明るく輝き、少女の全身が光り輝いた―――いや常人には見えないのだろうが。

 少女が青年に駆けよったほんの一瞬、背中に寄り添う長い黒髪の女の姿がゆらりと市之助の目に映った。それはすぐに消えて、少女の身体に吸いこまれてしまった。

 ―――あれか。

 一瞬だけしか見えなかったが、芸者のような婀娜っぽい女だ。ぞくりと背中が寒くなるような色気が匂い立っている。

 ―――あの学生さん。取り殺されるかもしれねェなア‥。

 のんびり昼寝をしている気分じゃなくなって、帰ろうと背を向けて歩き出す。

 するといつの間にいたのか、隣にすっと女の姿が立った。風呂敷包みにまとめ髪の地味ななりを目指しているようだが、赤過ぎる(べに)で台無しだ。

「坊ちゃん。あの女が気になるのかい? ふふ、うっとりしちゃって、可愛いねえ‥。力は並みの大人以上だけど、中味はやっぱり年頃の坊やってとこかい?」

「‥そんな派手ななりでそばに寄ってくんなよ、お白。」

「あらやだ照れちゃって。」 

 にやにや笑いながらついてきたお白は、板塀の角を曲がるなり、ぶんと白猫に変わった。

 足を止めずにすたすたと歩き続ける市之助の、前になり後になりして()いてくる。

「冗談はともかくさァ、あの女は見逃してやっておくれよ。ただバカなだけなのサ。」

「‥‥バカ?」

 お白はうなずくと、ぴょんと板塀に跳び乗って、上方から肩ごしに耳もとへ囁く。

「そうなんだよ。あの娘に同情しちゃって、妖力を貸してやってるだけなのサ。娘は娘でね、身寄りもないし、器量がいいのを見こまれて十六からとある旦那の世話になってたんだけどさァ。先月旦那は、家族を連れて田舎へ帰っちまったんだよ。ご時勢がキナ臭くなってきたろう? 潮時だとばかりに、娘にはわずかばっかりの小金と、ま、家だけは遺してくれたけど縁切りだよ。水商売上がりならともかく、世間知らずで株屋の妾上がりの小娘に一人でどうしろってんだろうねえ? ‥ってのはあの女が言ってたんだよ。」

 市之助は振り向かず、ふうん、と気のなさそうな声を返した。

 お白はその返事を勝手に、もっと聞きたいと解釈したらしく、話を続ける。

「でね。途方に暮れてた娘の前に現れたのが、さっきの男なんだよ。ちょっと様子のいい男だろ? 娘は中味はただの小娘だからサ、ぽおっとなっちまって‥。あの女はほだされて、娘が男を首尾良く掴まえられるようにって手を貸してやってンだよ。呆れたことに取り殺すつもりはないンだってサ、それがあの女の本分だってのに‥。だからバカだって言ってンだけどね。」

 ―――なるほど。それで邪気が感じられねェわけだ。

「な? 見逃してやってくれるだろう? 取り殺さないンだからサ。」

「‥見逃すも何もねェよ。俺には関係ない話だ。」

 お白はにやっと嗤った。

 ありがとよ、とつぶやくとふっと姿を消す。

 市之助は苦笑した。お白のことだ、タダではないのだろう。小遣い稼ぎに使いやがって、と思うものの、別に腹も立たなかった。

 空を見上げる。五月晴れのいい天気だった。


 市之助は昨春中等学校へ進学した。今は数えで十四になる。

 別に勉学で身を立てるつもりはなかったが、親も行けと言うし、ひそかに尊敬している静香の父親にも勧められたのでその気になったのだ。

 静香の父―――骨董屋『懐古堂』店主、吉成(よしなり)薫嵩(ゆきたか)は博学の人だった。

 高等教育を受けているわけではないが、歴史や美術に明るく、骨董については若い時には伝手(つて)を頼り、各土地の旧家や寺社の蔵などを実際に訪ね歩いて勉強したそうだ。

 とっくり狸の件で毎日のように出入りしていた間に、市之助は薫嵩とすっかり仲良くなっていた。

 薫嵩は市之助に、店の中にあるさまざまな品について訥々(とつとつ)と由来を語ってくれる。

 どちらも口数の多いほうではないので、傍目(はため)には会話が弾んでいるようには見えないらしいが、市之助は子どもながらにも、薫嵩と話をするのは楽しいし楽だと感じていた。

 薫嵩が選んで口にする少ない言葉には、常に多くの意味が含まれている。くどくどと言葉を連ねることなく、短く端的に言いたいことの本質を表現することができる、その思考の明解さに市之助は崇敬の念を抱いた。

 生来口の重い市之助は、言葉足らずのために誤解されることがとても多い。

 面倒だからよほど必要がない限り、誤解させたままにしておくけれど、もしもあんなふうに無駄のない言葉選びができれば面倒ごとはだいぶ減るはずだとつくづく思った。

 そのひそかに私淑している薫嵩に、昨年三月のある日、市ちゃんは中学へ進学するんだろう、と訊ねられた。

「ああ‥まあそんな話になってる。」

 面倒だけど、と市之助は顔をしかめた。

 薫嵩は穏やかに微笑んだ。

「いいことだよ。市ちゃんは頭もいいし、いずれ家業を継ぐにしても学問は無駄にはならんよ。」

 親父さんがそう言うならそうなんだろうな―――と答えた市之助は、その時に最終的に進学を決めたのだった。

 しかし一年余り経った今のところ、学校は学問の場ではなくなっていた。

 毎日続く軍事教練。ばかばかしいと思っていたら、先月、教官に怒鳴られた。

「能力者は邪魔だ。おまえ、結界を張っておるだろう? 軍事教練で結界を張っていては皆の気分が安穏となり、命を懸けて国を護るという意識が養われんのだ。」

 そして能力者ならば結界護持の任務へ志願するべきだ、卑怯者め、と散々に罵られた。

 そうは言われても、と市之助は腹の中で愚痴をこぼす。

 結界護持の任務に就くには、能力者として認定されなければならないのだが、あいにくと市之助は四宮本家にまだ認められていなかった。

 四宮の霊力は開祖以来、女にのみ承継されてきて男に顕現した前例はない。この四百四十年余り例外は一つとしてないと本家は主張する。

 なので四宮の男である市之助は、血統が逆に邪魔をして認定試験さえ受けさせてもらえないのだ。

 だがそれは市之助の個人的事情にすぎない。

 漫然と学校へ行って皆の障りになるのも申し訳ないし、意味もなく非難されるのも面倒なので、とりあえず学校へは行かずこうして毎日暇つぶしをしていた。

 何しろ今は戦時中で、大人は誰も彼もがぴりぴりしているのだ。

 無理もないと思う。この戦争では有史以来という夥しい数の戦死者を出していて、鎮魂のための祈祷に駆り出されている能力者の中には、膨大な負の霊気に堪えられず衰弱して死ぬ者もあるほどだと聞いている。

 闇に棲むモノたちが人になりすまして、白昼から往来を闊歩しているのもそのせいなのだろうが、それとなく祖母に尋ねてみても、そこまでいびつには感じていないらしい。

 猫又のお白が言っていた、『夜鴉の旦那たちは戦事(いくさごと)にかまけてる』というのも引っかかっている。

 もしも夜鴉一族が政治の中枢に入りこんで、戦争を仕掛けているのだとしたら。

 本家はいったい何をやってるんだ、と腹立たしくなる。

 夜鴉一族が人の世に(いくさ)を起こさせるよう暗躍するのは、今に始まった話ではない。歴史上頻繁に起きている事実だ。そのたびに夜鴉の闇は黒く濃く膨れあがってきた。

 ご維新の時には四宮も分裂して、日本中の霊能力者たちが新政府側と幕府側で争う羽目になったそうだ。ずいぶんとえげつない新術が数多く編み出され、明治になってからそのほとんどを禁術指定しなければならなかったという呆れた話を聞いた。

 現在の本家当主はその争いを収めた一の姫の末妹に当たる。

 (よわい)九十の高齢で、統治能力はだいぶ怪しげだが、まだ霊力で当主を凌ぐ者が出ないらしい。噂では先年生まれた、まだ七つかそこらの姫にやっと正統なる強い霊力が顕現しているそうで、本家の人々も漸く安堵しているとのことだった。

「ともかく。誰が始めたかァ知らないが‥こんな戦争、さっさと終いにしてくれりゃあいいのにな。」

 思わず呟きがこぼれる。

 市之助は傾きかけた西日の中を、ゆっくりと家へと帰る方向へ歩き始めた。


 それからほんの数日した朝、土手で見かけた少女が川に身投げしたと聞いた。

 卓袱台を囲んだ朝餉時(あさげどき)のことである。

「かわいそうにねえ‥。きれいな子だったのに。」

 母の佐和がおっとりと言えば、父の弦之助は眉間に皺を寄せて腹の立つ話だ、と続けた。

「親の残した借金のかたに株屋なんぞに囲われて。今度はどっかのぼんぼんに瞞されたってンだろ? お嬢さん育ちがあだになっちまったンだな。‥花でも手向けてやるか。」

「瞞されたって‥どうしたの?」

 祖母の紀世(きせ)が静かに訊ねた。

 母が苦笑した。

「学生さんといい仲になったらしいんですよ。でもそちらの親御さんが反対して、別れさせられたとか。」

「まあ‥。それで身投げを? かわいそうに、誰か見てやる者がいなかったかねえ。」

 弦之助はますます険悪な顔になった。

「俺が聞いた話じゃ、そうじゃねェンだよ。株屋に貰った家だの貯金だの、身ぐるみそのぼんぼんに剥がされたってェンだ。まったく純情な学生なんかじゃねェのさ、たいがいのワルだよ。こんなご時勢だってのに色街で借金してたってンだから。学生ってのも帝大生なんかじゃなくって予科崩れらしいよ。」

 女二人はまあ、と同時に叫んで顔を見合わせた。

 血につながりのない嫁姑のわりによく似た二人で、こんなふうに同じ反応をするのは日常茶飯事である。たぶんどっちも暢気者だからなのだろう。

 それに引き替え、父親は気が短い。

 今も噂話に過ぎないはずの哀れな娘の境遇に、頭から湯気が出そうなくらいひどく腹を立てている。

 ―――今どき珍しい、新派(しんぱ)的な悲話だからな‥。

 生粋の江戸っ子で芝居好きの血が騒ぐのだろうが、(くだん)の学生を見つけたら掴まえて殴りつけそうな口ぶりだ。

 市之助は怒っている父親の横で黙々と朝飯を食った。

 やがてひとり食い終わり、ごちそうさま、と手を合わせるとすっと立ち上がる。

 弦之助はおう、と答えながら、ふと気がついたように引き留めた。

「おい、市。おめェ、近頃学校へ行ってねェってのはほんとかい?」

「ああ。」

 静かに振り向くと、弦之助は困惑した様子で首を振った。

「‥‥ま。勉強ってェご時勢でもねェからな。」

「俺がいると邪魔なんだって言われたンだよ。能力者ならさっさとそっちへ行けって。」

 なにっ、と弦之助は色をなした。

「騒ぐこっちゃねェよ、親父。月が代わりゃ工場勤めで、そっちは来るなと言われてないから。」

 市之助は淡々と説明した。

 弦之助は大きく溜息をこぼし、首を振った。ぶつぶつと本家のせいだ、とやや口汚く罵っている。珍しく祖母も同調し始めた。だいたいが身びいきが強く子どもに甘い家系なのだ。

 二人を宥めている母の声を背にして、市之助はそっと部屋を出た。 

 登校していないのはもうバレたので、制服に着替えることなくそのまま門をくぐる。そして足早に、少女が身投げしたという川へ向かった。

 気になるのは身投げした少女に力を貸していたという柳女のことだ。

 せっかく肩入れをしたのに、無情に瞞されて死んだのが事実ならばさぞ怒っていることだろう。

 ―――何が何でも取り殺そうなんぞ考えてなけりゃいいんだが。

 今どきの人間が大人しく取り殺されるわけもない。気がついた時点で霊能力者に頼んでお祓いをと考えるに違いないが、あいにくと正規の霊能力者は国家総動員令で国防に忙しいから、モグリの祓い屋に頼むことになる。

 ―――下手すりゃどっちも死ぬな。

 中途半端な霊力で力任せに剥がせば、取りつかれた男も死ぬし、柳は枯れてしまうだろう。ちゃんと修法を修めた術者ならば、男は無事で柳女は滅せられる。何か理不尽ではあるが四宮の掟に従えばそうなるのだし、霊能力者にとって掟は絶対なのだ。

 川べりの柳は朝の光を受けて輝き、薄緑の葉をさやさやと鳴らしていた。

 市之助はじいっと眺めた。

 そこには禍々しい気配は全くない。それどころか先日察知した妖気も感じ取れない。

 ―――この木に宿ってたんじゃねェのか。

 ではあの柳女の宿木はどこにある?

 身投げした少女の住所を父親から聞いておくのだったと悔やんだものの、理由を訊かれると更に面倒臭い事態になるのは間違いないので、立ち止まって思案した。

 ―――お白に訊いてみるか。

 鰹節はもう手に入らないが、庭で母が作っている大根なら一本くらい貰えるだろう。庭の一部に畑を作るのにはずいぶんと手伝ったのだし。

 思案をまとめた時、すうっと風呂敷包みの女が横に現れた。

「坊ちゃん。‥あたしを呼んだかい?」

 市之助は苦笑した。

「用があったのはそっちだろう。」

 呼んでもいないのに早すぎる。

「ふふふ。まあね。ほんの、ちょっとした頼みがあるンだけどさァ。なに、坊ちゃんからしたら何てことない、些細なことサ。」

 お白の頼みというのは、意外なことに自分の住む地蔵堂に四宮式封印結界の札を貼ってくれというものだった。

 呆れ顔の市之助に、お白は眉根をぐっとひそめて仕方ないんだよ、と言った。

「あたしだけ出入り自由ってふうにできるだろ、坊ちゃん?」

「‥だが居心地は良くないぜ? 何だってそんな‥。」

 お白は大きな吐息をついて、空襲だよ、とつぶやく。

「ここのところますます頻繁にサイレンが鳴ってるだろ? 聞いた限りじゃ、四宮の結界が強力に貼ってあるところには絶対爆弾が落ちないっていうじゃないか? けどあたしらは入れない。こないだは防空壕にまで結界札があってサ、あたしゃ死ぬとこだったよ。」

 ―――そういうわけか。

 まあ物の怪の住まう場所に封印札を貼るのは四宮の掟に反するわけではないし、結界に綻びが一つあっても、見習いならば仕方がないだろう。

 市之助はあっさりと承諾した。

 お白はほっと安堵した様子で良かった、とつぶやいた。

「坊ちゃんの札なら強力に違いないからね。これで万全だ。‥さて。今度は坊ちゃんの番だ、あたしに何か用があったろ?」

 苦笑しつつ、市之助は柳女がどうしているのかと訊ねた。

「あの娘が身投げしたと聞いたから、怒って何かしでかしてねェかと思って。」

 お白はああ、としかめっ面をした。

「あの胸糞悪い男だろ? 怒るどころか、あの女はすっかり人間の男に嫌気がさしちまってサ。廃業するって言ってたよ。」

「廃業?」

「そうサ。柳女は人間の男に惚れて執着してなんぼだろ? 物の怪だから精気を吸って殺しちまうだけで、惚れるのが本分なんだよ。なのに人間の男が信じられなくなっちまったンだからサ、看板引っこめるしかないじゃないか? 近々、物の怪街道へ隠居するって言ってたよ。」

 それなら問題ないな、と市之助が内心ほっとしたところで、お白は耳元に口を寄せて囁いた。

「坊ちゃん。あの娘は身投げしたンじゃないよ。男に川に放りこまれたんだ‥殺されたンだよ。」

「‥殺された?」

 声をひそめて問い返すと、お白は黒目をきゅっと縦に細めてうなずいた。

「そう。身ぐるみ剥がれて家を追い出された娘がサ、泣いて縋ったのを‥迷いもせず川へ蹴落としやがった。ありゃごろつきだね。」

 お白はしかめっ面のままで首を振った。

「昔はごろつきはごろつきらしい顔をしてたもんだけどね‥。あたしもあの女も、純情そうな笑顔にすっかり瞞されちまって。ヤキが回ったもんだ。」

 それで柳女は自分の男を見る目に自信を失って、廃業することにしたわけだ。

 何とも言えない話だ、とつくづく思った。柳女の廃業とその理由(わけ)を祖母に話したら面白がるだろうと思ったが、殺人が絡むのではうっかり話せない。

「ま。柳女が騒ぎを起こすつもりがないならそれでいい。札は今から行って貼ってやるよ。」

 歩き出すとお白はにこにこしながら従いてきた。

 物の怪の話を頭から信じるのもどうかと思うが、なぜかお白を疑う気にはならなかった。

 ―――おかしなもんだ。こいつも俺もヘンな縁ができちまったってことだろうな‥。

 霊能力者と物の怪の関係は、敵か味方の二者択一だ。味方の場合は使役―――力で縛りつけた関係でなければならない。裏切りを絶対に許さないためだ。

 更に言えば物の怪の使役は禁術で、猫の本体に使役印をつけたのならかろうじて使役獣として認められる。今の世の中では、それ以外の縁は許されないと知ってはいた。

 だが市之助はお白を使役するつもりはなかったし、他のどんなモノでも力で縛りつけて無理矢理に従わせるのは嫌だ。

 お白はいい商売になると踏めば、市之助を利用するのも瞞すのも平気でするだろう。だがどうも憎めない。

 そんな自分の感情を市之助は、性分だから仕方がないと思っている。

「やれまァよかった‥。これで今晩から安心して眠れるよ。ありがとな、坊ちゃん。」

 うっすらと金色の結界で輝いた地蔵堂へちゃんと出入りできることを確認すると、お白は心から嬉しそうににまっと嗤った。

 思わずつられて微笑んだ自分に、市之助は心の中でしょうがねェ、と苦笑した。


 真夜中の闇に、ぼうっと鈍い()がともった。

 小さく燃える篝火のようなその灯は、ゆらゆらと揺らぎながら少しずつ大きくなり、やがて人の形となった。

 それは若い女の姿をしていた。

 長い黒髪はほどけて腰まで流れ、身につけている寝間着だか襦袢だか解らぬ薄ものは、片袖が破れて白い腕が覗いている。しかも全身びっしょりと濡れていた。

 女は青白い(おもて)を上げ、目の前の家の玄関に立った。

 こんこん、と引き戸を叩く。

 玄関灯の薄暗い明かりが照らす女の顔には、頬に赤いみみず腫れが走り、左眼の上あたりはどこかに打ちつけたのか赤黒く腫れていた。

 女は黙ってずうっと戸を叩き続けた。

 家の奥で人が起き出すような気配が動く。

「‥‥誰だ?」

 警戒するような低い声が、戸の内側から問う。

 女は可愛らしい声であたしよ、と答えた。

「‥‥あたし? 誰だ、いったい。」

 動揺を隠せない声が訝しげに再び問う。

「開けて。帰ってきたのよ。ここはあたしのうちだもの‥‥あたしが旦那さまから貰ったのよ‥。よく、知ってるでしょ。」

 家の中で息を詰めるような気配がして、一瞬の間があいた。

 沈黙に夜の静寂がびっしりと入りこむ。

 戸の向う側にあった気配は恐怖に震え、ばたばたと奥へと引っこんだ。

 女はがたがたと戸を揺する。

「どうして開けてくれないの‥? 開けて、開けてよ。」

 生温い夜風がさやさやと流れた。

 女はつと振り返り、星明かりに浮かぶ庭の柳の木に目を留める。

「そうか‥。あたしがこんな汚い顔になってしまったから‥だから入れてくれないのね。痣だらけで、化粧もしてないんですもの。」

 女は虚ろな瞳を柳の木に向け、にっこりと嗤った。

「柳のお(ねえ)さん‥。あたしお化粧しなくちゃいけないのよ‥お願い、いつもしてくれたように手伝って。いいでしょ?」

 柳が薄緑色にほんのりと光る。

 女の目が突然険しくつり上がった。

「どうして? 手伝ってって言ってるのに!」

 ―――あんたはもう死んだんだよ。早いとこ成仏しないと、成仏できなくなる‥‥

 幽かな声は女の喚き声でかき消え、女は両腕で幹にがしりと取りついた。

 よくよく見ると背中にたくさんのまっ黒いモノを背負っている。どうやら川に彷徨っていた、形さえ失った浮遊霊と一緒くたになって、怨霊と化してしまったようだ。

 柳からめらめらとどす黒い焔が立ちのぼった。

 ふわりと木から浮き出た(あで)やかな美女が苦悶の表情を浮かべて、闇の中でのたうち回っている。

「あたしに‥あんたの美しさを全部、ちょうだい‥。綺麗にならないと、あの人に会えないのよ‥。いいでしょう、ねえ‥。」

 不気味な笑みをにたあ、と浮かべて怨霊は柳女に抱きついた。

 たちまち怨霊の妄念が真っ黒な焔となって燃え上がった。

 常人には聞こえない絶叫を遺し、柳女はみるみる妖力を吸われていく。

 やがて柳女の姿は怨霊の腕の中で儚く消え、柳の木は真っ黒に朽ちて枯れてしまった。

 ふふ、ふふふ、と軽やかに笑いながら、怨霊はもう一度家の方を振り返った。

 髪は(つや)やかに結われ、真っ白な化粧顔に真っ赤な紅が光る。全身に纏った妖力は柳女から奪ったものだろうか。ほのかな淡い光を放って、ぞっとするほど美しい。

「お化粧したから‥今度は開けてくれるわね?」

 怨霊は今度は手も触れずに戸を開け、まっすぐに駆け込んでいく。

「どこにいるの‥帰ってきたのよ‥? 」

 可愛らしい声が家の中をさえずり回っているようだ。

 やがて来るな、来るなア、と上ずった叫び声が家の奥で響いた。

 次の瞬間、闇夜を焦がして小さな家は炎上した。


 先週の空襲で落ちた不発弾が昨夜になって爆発したんだって、と近所の者らしき人々が噂をしていた。怖いねえ、バチが当たったんだろうよ、などと声が低くこぼれる。

 市之助は人垣の外から茫然と、真っ黒に枯れた柳の枝を見つめていた。

 隣にいるのは猫又のお白だ。口もとを押さえて涙ぐんでいる。

「‥‥川でいろんなモノを拾って、その力でここまでやってきたらしいよ‥。あの娘の無念は解るけど、何もあのお人好しを道連れにしなくってもさァ‥。」

 探ってみるまでもなく、怨霊の焦げついた妖力がそこらじゅうに立ちこめている。思わず鼻を覆いたくなるほどの凄まじい量だ。そして柳女の妖力は残滓というほどしか感知できない。

 何よりあの真っ黒な枝が証拠だろう。何の証拠かと言えば―――妖力を吸われたのだ。

 ―――人が‥物の怪を取り殺すのか。

 背筋が思わずぞっとした。可憐で薄幸な美少女がここまで化けるとは。

 十四の市之助には、殺された娘の一途な念を哀れだとか悲しいものだ、と感じるような余裕はまったくなかった。心底、人の執念とは怖ろしいと思う。

 家の焼け跡を調べていた軍人らしき男たちが出てきて、何か話し合っている。やがてこの場の隊長らしい男が一人の兵卒に四宮を呼べ、と指示したのが聞こえた。言われた男が走り去ったのを機に、彼らは野次馬を追い払い始めた。

「見世物ではない。さっさと立ち去れ。」

 立入禁止だ、と厳しく追い立てていく。

 市之助も去ろうとしていったんは背を向けたが、数歩歩いて何となくもう一度振り返ってみた。

 人垣がなくなったおかげで、柳の木が根元まで真っ黒に朽ちて、地面に半倒しになっている様子が目に入った。常人には見えないだろうが、怨霊の焔の残り火がまだしゅうしゅう音を立てているのが解る。

 ふと根元からわずかに離れた地面に、小さな早緑(さみどり)色のものが揺らめいているのに気づいた。じっと目を凝らすと、どうやら落ちた柳の枝らしい。それだけは朽ちておらず、数枚の葉をつけて風にそよいでいる。

 ―――何とか逃れたのか。

 市之助は迷わず立入禁止の札を越え、柳の枝を拾った。

「おい、何をしている!」

 後ろからいきなりどつかれた。拾った枝は素早く懐に隠し、一緒に拾い上げた真っ黒な小石を差しだす。

「すみません。この石だけ真っ黒だったので‥。もしや不発弾のかけらかなと思って。」

「ばかもの! 勝手な真似をするな! さっさと立ち去らんか、慮外者が!」

 もう一度殴られて、頭を低くして謝り、恐縮したふりでとっととその場を後にした。

 入り組んだ路地を一心に走り抜けて過ぎ、だいぶ離れたあたりまで来てからゆっくりと歩き出す。人目のない場所を選んで足を止め、懐から柳の枝を出してじいっと見入った。

 枝はうっすらと緑色の光で覆われていた。ほのかに柳女の妖力を感じる。先日の川べりで感じた、少女を包みこんでいたあの妖力だ。禍々しくはない、初夏のひざしのようなほんのりと温かい光だった。

「坊ちゃん。あんた‥やっぱり惚れてたのかい?」

 耳元でからかうような声がした。苦笑いを飲みこんで振り向く。

 塀の上から白猫が呆れ顔で見ていた。

「何だって枝なんか拾ったのサ? 何の得にもならないどころか、殴られてたじゃないか。ヘンなことするねえ‥。」

 市之助はお白の疑問には答えず、手の中の枝に自分の霊力を注ぎ、包みこんだ。枝は掌の上でひくひくと震え、葉をぐんと伸ばす。

「お白‥。物の怪街道にはどうやったら行ける?」

「へ? そんなこと聞いてどうするンだい?」

「物の怪街道ってのは、人の世で生きづらくなった物の怪が隠居する場所だと聞いた。つまりそこでは物の怪は人の世にいるより存在が安定するんだろう? なら、こんな弱っちまってるこいつでも、物の怪街道に連れてってもういっぺん植えてやれば‥‥」

「そりゃまあ、生き返るだろうけどサ。‥人の行くとこじゃアないよ、坊ちゃん。物の怪の闇にとっぷり浸かる覚悟があるのかい?」

 市之助は切れ長の瞳を冷ややかに廻らせて、お白をじっと見つめた。

「‥‥入口まででいい。四宮の人間を手引きしたって、他の物の怪にバレたらやばいんだろ? 頼む。」

 お白は緑色の目をぐっとすがめて、まじまじと見返した。

「解らないねえ‥。何だって身の危険を冒して、ちっぽけな妖しの女一人をわざわざ助けようとするンだい? 顔を合わせたことも口を利いたこともないくせにサ? しかもあんた、四宮だろ、四宮の能力者は物の怪なんざ助けちゃならない決まりだろうに。」

 掌にのせた柳の枝に視線を落とし、市之助はふふっと微笑った。

 ―――そんなの知るか。ただ‥放っておけねェだけだよ。

「‥案内するのかしないのか、どっちだ。」

 お白は大きく肩を落として吐息をつき、髭をしんなりと下げた。

「しょうがないねェ‥。案内するよ。だけどさ。人が入れるかどうかは知らないよ。」

 黙ってうなずくと、お白はもう一度溜息をついた。

 そして地面にすっと降り立つと、尻尾をぴん、と立てて先に立って歩き出した。


 その場所は昼間でも鬱蒼と暗い、無人の神社の境内にあった。

 先年の秋に落とした枝を積んだ横に、粗末な造りの古びた柴折(しお)り戸が隠れていた。戸の先には更に薄暗い雑木林に続いている。

「坊ちゃん。あんたにこの木戸の向こうが見えるかい?」

「‥雑木林じゃあないのか?」

 白猫は市之助を見上げて、髭を揺らした。

「あんたほどのお人でも、人は人だねェ‥。この先には闇が続いてるンだよ。」

「ふうん。人避けの結界か‥。壊したらどうなる?」

 猫はふん、と嘲笑うように口もとを歪めた。

「おっそろしいこと言うねェ。物の怪街道の奥には仙山てのがあって、古えの大妖怪さまたちが住まわってらっしゃるって話だ。そのお方たちがどう出るやら、あたしゃ知らないよ。」

 脅しかい、と市之助は苦笑した。

「大妖怪の出入り口にしちゃずいぶんお粗末だが? お偉方用はもっと他に立派なのがあるんだろう? ‥用が済んだら直しときゃ、文句ねェだろが。」

 チッ、と舌打ちが聞こえる。やはり脅しにすぎないらしい。

 市之助は問答無用で、手にした柳の枝を白猫の背に背負わせると、木戸に向かいまっすぐ立って、胸の前で両手を組み合わせる。

 全身から金色の炎が燃えたった。

 お白は慌てて十分な距離を取る。

「行くぞ。ついてこい、お白。」

「えーっ、話が違うよ! ここまででいいって言っただろ?」

「俺の手が遣えるようになるまで、その枝落とすなよ!」

 結界解除の印を結び、呪文を唱える。髪が逆立ち、霊力の波動が渦を巻いて彼の全身を包んだ。そのままで市之助は柴折り戸をぐんと押し開ける。

 木戸から一歩先へ足を踏み出すと、そこは真っ暗な闇だった。

 二歩、三歩と進んで、霊力全開のままで市之助は白猫を振り返り、柳の枝を受け取った。

「ありがとよ、お白。この先は何とか自分で行くよ。」

 眩しそうに見上げながら、お白はふふん、と鼻を鳴らした。

「何言ってンだよ、坊ちゃん。街道沿いの土手まで案内してやるよ。このまま迷子になられたら迷惑だからね。めんどくさいのに見つからないうちに、さっさとすませて帰るンだよ。‥ったく、無茶苦茶な坊やだよ。」

 舌打ちしながら先に立って進んでいく。

 少し意外に思いながらも、市之助は素直に後に続いた。


 市之助が開けた次元の穴の上空に、しばらくして一羽の鴉が飛んできた。

 神社の杉の木のてっぺんに音もなく下りて、ふうわりと翼を閉じると、十四、五の少年の姿に変わる。

 (つや)やかな長い黒髪を一つに束ね、真っ黒な着物と袴を着けている。襟もとから覗く半襟だけが鮮やかな茜色だ。

 少年は神社の周囲に目くらましの幻術をかけて、誰も入ってこられないようにすると、流麗な美しい顔にわくわくした表情を浮かべ、楽しげに微笑んだ。

「一瞬だが凄まじい波動だったな‥。こんな場所で何をしているンだか知らねェが、四宮の姫に違いない。あれほどの力なら‥さぞ美人だろうよ。」

 独り言をつぶやいて、じっと闇の穴を見守っている。

「確かまだ七つだと聞いたが‥。七つでこの力なら相当なもんだぜ。俺の嫁にちょうどいいンだが‥。物の怪街道なんぞで何やってるのかね? 早く出てきて顔を見せてくれってンだよ、もう!」

 時間が経つうちにだんだんと苛々した表情になってきて、終いに少年は艶やかな翼をぶんと広げ、すとんと地面に降り立つ。

 柴折り戸の向こうの闇をじいっと見透かしていたかと思うと、にんまり微笑んだ。

「‥‥いた。」

 そして嬉しそうに翼を広げ、物の怪の闇へと飛びこんでいった。


 物の怪街道は川に沿って続いていた。

 川を遡ってたどってゆけば、まっすぐ仙山へと繋がるそうだが、あいにくと一寸先は闇というのを地でいっているような、物の怪の闇の中だ。山などまったく見えない。

 案内された場所はいくらか川の流れが緩やかになっていて、広々となだらかな土手は湿った草で覆われている。薄暗いので、お白のよく光る猫目がいわば懐中電灯代わりだ。

 市之助は掌に乗せた柳の枝にもう一度自分の霊力を注ぐと、土手の柔らかい草地に上に向けて突き刺した。倒れないようにと一生懸命に周りに土を盛り上げ、しっかりと叩いて固める。それから少し離れて様子を見た。

 柳の葉は物の怪の闇を吸って、きらきらと輝き始めた。

 みるみるうちに根づいたのか、すうっと枝を伸ばし、一メートルほどの若木となる。そして薄緑色の妖力が全体を包みこみ、朧月のようにぼんやり光った。

 ほっと安堵の溜息をついたところで、隣にいたお白がすうっと女の姿になった。袂を目尻に当てて、よかったよォ、とつぶやく。

「まだ人形(ひとがた)を取れるほどじゃないけど‥。ここにいればすぐに回復できるよ。ありがとな、坊ちゃん。実はねえ、これとあたしはお江戸の昔からの古なじみなのサ‥。」

 そうか、と答えて、もう一度柳の木を見遣る。気のせいか枝を微かに震わせて、柳が喜んでいるように見えた。

「よし。じゃお白、すまねェけど帰り道も案内頼む。」

「あいよ。任せといて‥‥わ!」

 お白はいきなり叫んで猫に戻り、市之助の足下に隠れた。

 どうした、と訊ねかけて、頬を撫でてくる空気の流れに気づく。こってりとした暗闇の風だ。

 風のくる左上方をゆっくりと見上げた。

 そこには体をすっぽり覆えるほどに大きな漆黒の翼をはためかせ、空に浮いている少年の姿があった。

 ―――夜鴉か。やっかいなのに見つかっちまったな‥。

 足の間に潜りこんだお白から、ぶるぶると震動が伝わってくる。

 夜鴉の少年は上から漆黒の瞳をまっすぐに向けてきて、市之助の全身をつくづくと眺め渡した。市之助は黙って冷ややかに見返す。

「‥‥何だい。姫だと思ったのに、野郎かよ。ちぇっ!」

 少年は明らかな失望を顔に浮かべ、舌打ちした。

 それから不意に何かに気づいて、あれ、とつぶやく。

「おい。おまえ。四宮の血筋だろう?」

 視線を逸らさずただ黙っていると、少年は不愉快そうに顔を大きく歪めた。しかし好奇心の方が勝ったとみえ、重ねて話しかけてくる。

「ふん。答えなくても解る。その霊力は四宮の力だ。だが‥男だと? うーん。」

 翼をたたんですとんと目の前に下りたち、金色の光をものともせず市之助の頬に手を触れてきた。お白の震えが三倍増しになる。

「惜しいな。女だったら俺好みの美女なんだが‥‥。」

 ムカついたのでかぎ爪のついたその手をバシリ、とはたき落とした。

「‥‥なんだ?」

 誰にもそんなことをされた経験がないらしく、夜鴉の少年は呆気に取られた顔をした。

 市之助は低い声で言い返す。

「気安く触るんじゃねェよ。てめェこそ女みたいな顔してるくせに。」

「はあ? てめェ、だと? まさか俺のことかい?」

「他に誰がいるってンだよ。いきなり現れてなんだ、偉そうに。」

 この野郎、と拳を握りしめ、夜鴉の少年は不意に翼をぶんと広げ、濃厚な妖力の風をぶつけてきた。市之助は瞬時に霊力を全開にしてその風を弾きかえす。

 少年は驚いた顔で、弾きかえされた妖力を受けとめた。そして腕組みをして、にんまりと嗤った。

「驚いた。おまえ‥名は? 」

「夜鴉に名乗る名なんぞあるわけねェだろ。なめんな。」

「そりゃまあそうだ。あはは‥!」

 機嫌良く高笑いする顔を見据えたまま、実のところ内心ではどうやって逃げようかと思案の真っ最中だ。

 つい頭にきて喧嘩腰になってしまったが、余裕綽々の様子から推し量るに―――目の前にいるのはどうやらかなり高位の夜鴉らしい。ただの雛ではなさそうだ、と値踏みする。

「じゃあ名前はいいとして。おまえ、人間のくせに何しに物の怪街道へやってきた?」

「答える義理はねェな。物の怪街道は別に夜鴉の支配下ってわけじゃないはずだ。」

 腕組みをしたまま夜鴉は渋い顔をした。

「‥‥人よりゃ夜鴉に近いはずだが?」

「近かろうが何だろうが関係ない。‥用事がそれだけなら帰らせてもらう。じゃあな。」

 一か八かくるりと背を向け、歩き出す。矜恃が高そうだから背後を襲うような真似はするまいと踏んでの賭けだ。

 お白が慌てて着物の中を這い上がって、懐から顔を出した。まだぶるぶる震えている。

「おい。震えてないで案内しろって‥。」

 こそりと囁くと猫はひと言も声を出さず、前足で方角を指し示した。

 追いかけてくる気配は感じられない。用心しながらもとりあえず振り向かず、すたすたと歩き続ける。

 しばらく歩いて、やっと出口の柴折り戸が見えた。

 その時、背後から頭上をふわっと何かが飛び越していく気配がした。目の前を漆黒の翼が通りすぎ、柴折り戸を抜けて外へと先に出ていく。

 しまった、と思いつつ、市之助は内心の動揺を気取られぬよう悠然と歩いた。

 柴折り戸までたどりついて出口を確かめる。別に懸念したように出入り口が失くなっているわけではなく、何も問題ないようだ。

 ほっとして戸をくぐると、目の前に夜鴉の少年が立っていた。

 ―――しつこい。

 神社の境内に出ると、市之助は夜鴉の少年を無視して、柴折り戸の方を向いた。

 自分がこじあけた穴から霊力をすべて引き揚げ、穴をきっちりと閉じる。同時に霊力で抑えつけておいた、人避けの結界を元に戻して柴折り戸を閉めた。最後に全身に纏っていた霊力の光を身の内に収める。

 柴折り戸の向こうには何事もなく雑木林が見えている。神社の境内には空っぽの静けさが戻ってきていた。

 いつのまにか夜鴉の少年は神社の賽銭箱の上に腰かけ、膝に頬杖をついて見物していたらしかったが、市之助が後始末を終えると綺麗な顔に晴れやかな笑みを浮かべた。

「見事なもんだ‥。認めるよ、生意気な口も許してやる。」

 誰が認めてくれって言った、と再びムカッときたが、今度は口を噤んでいた。

 すると少年は不意に翼を広げ、ふうわりと市之助の目の前に跳んできたと思うと、鼻と鼻が触れそうなくらい近くに顔をぐっと寄せてきた。

「おい。‥俺の方が年上だからな、四宮のガキ。」

「はあ?」

 無視していたつもりが、思わず返事をしてしまった。

 その反応に少年は顔を上げて哄笑する。

「おまえせいぜい十四か十五だろう? 俺は人の時間で言えば二十年と少し生きてるンだからな。憶えておけよ。」

 ははは、と笑いながら夜鴉は唐突に姿を消した。

 ―――何だ‥? 先輩だとでも言いたいのか。

 そもそも夜鴉のくせに年上もへったくれもあるかよ、ばっかやろうめ、と胸の内でひそかに罵った。

 人と物の怪の間に先輩後輩の関係などあるはずもない。上下関係があるとしたら、年齢ではなく純粋に力の差で決まるのだ。

 ともかくも濃厚な気配が完全に消えたのを確認して、市之助は懐から白猫をつまみ出した。どうやら腰が抜けているようだ。

 大丈夫か、と訊ねれば草地の上にどさっと倒れる。

「‥‥ああ疲れた。酷い目にあった。」

 市之助は隣に屈みこんで訊ねた。

「あの夜鴉。何者だい?」

「‥若さまだよ。頭領が目の中に入れても痛くないほど可愛がってらっしゃるってお方サ。坊ちゃん、あんた怖いもの知らずだねェ、まったく。」

 頭領の息子なのかと納得した。道理で偉そうなわけだ。

「女じゃなくて良かったねえ、坊ちゃん。女だったらさ。今頃問答無用で攫われてるところだよ。」

「‥‥四宮の女をか? まさか、均衡は破らないだろうさ。」

 しかしお白は首を振った。

「あのお方なら気に入れば関係ないよ、何しろ美女に目がないンだからさ。」

 思わずしかめっ面になった。

 夜鴉の繁殖適齢期は人より早めらしい。しかも伴侶は同種に拘らないのか。理解不能だ。

「何にしたって、もう逢うこともないよ。」

 どうかね、と疑わしげな声に猫の鳴き声が重なった。

 その声を聞き流して、傾きかけた西日を見上げた。いつのまにか昼をとうに過ぎている。

 家に戻るかと考えたところで、すっかり日常化している空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響き始めた。のんびりしてられそうもない、と気を引き締めて、まだ腰が抜けているお白を再び懐に抱え込み、走り出す。

 白猫が拝むような手つきで前足をすりあわせ、感謝の意を伝えてくる。

 それを横目で見ながら、市之助は苦笑いを浮かべ、防空壕へと一目散に走った。


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