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始めの始め

申し訳ありませんが、このお話から読んで下さる方には多少説明不足な箇所があります。ただただ作者の力量不足ゆえにそんなことになっております。。お話自体は独立しているので、めんどくさい裏事情はどうでもいい、というおおらかな方にはまあまあ楽しめるかと思いますので、読んでみてよかったら拙作『懐古堂奇譚』をご参照ください。。

 そこにいたのは一匹の白猫だった。

 毎日学校へ通う道端の、植えこみから顔を出してじっとこちらを見ている。

 少女は、その猫の目つきがやけに賢そうに見えて、無性に気になり立ち止まった。

 猫の前に屈みこみ、そうっと手を伸ばして頭を撫でると、猫は少女をまっすぐに見返し、にやりと笑った―――ほんとうに笑ったのである。

 大抵の子どもは猫のそんな表情に出くわしたならば、不気味に思って走って立ち去るだろう。

 だが少女はなぜか、とても可愛いと感じた。

 鞄をさぐって、弁当の包みを出し、おかかの握り飯を分けてやろうと考えた。

 その時少女の肩に誰かの手が触れた。

「よしなよ。そんなもんと縁ができちまったら、やっかいだぜ?」

 振り返ると同級生の、名と顔だけは知っている少年が立っていた。

 彼が猫に向かって、()きな、と小さく言うと、白猫はぷんとふくれた―――ほんとうにふくれ顔をしたのである。

 少年は冷ややかな、断固とした視線を猫に向け、もう一度立ち去るよう命じた。すると猫は眼をぐっと細め、ふくれっ面をしたまま、ふいに姿を消した。

「あ! ‥消えちゃった?」

 少女が驚いて小さく叫ぶと、少年は呆れ顔でこちらを見た。

「やっぱり解ってなかったのかい? 前から危なっかしい女だと思ってたけど。おめェ、自分が()える性質(タチ)だって、知らねェンだな?」

「う‥」

 切れ長の涼やかな瞳でまっすぐ見据えられて、少女は言葉に詰まった。もともと他人と話をするのは得手(えて)ではない。

 少年はあからさまな溜息を一つついて、少女の手を掴み、立たせた。

 行こう、と言われて、なぜか手を繋いだまま歩く。まあ行き先は同じなのだから、一緒に歩くのは問題ない。

 けれども、こうして往来を男の子と手なんか繋いで歩いて行くのは、もしかしたらいけないことではないのか、と校門にたどりついて初めて思い至った。先生に注意されてしまうかもしれないし、同級の女生徒たちにまた陰口を叩かれるかもしれない。

 少年はまったく頓着していない様子だった。

 同じように登校してきた誰彼と、そのままで挨拶を交わしている。教頭先生にも会ったが、何事もない顔で頬笑んで挨拶を返してくれた。

 少年はそのまま、少女の手をしっかり握って教室に入る。

 別に男の子と手を繋いだくらいで叱る人などいないのか、考えすぎだったかと少女はほっとして、少年に一応礼を言うと自分の席に着いた。

「おい。帰りも一緒に帰るから待ってろよ。」

「え? なんで?」

 一瞬まじまじと少年は少女を見て、それからまた溜息をついた。

「おめェ、ほんと解っちゃねェな。だから目ェつけられんだよ。」

 ぽかんとした少女の顔をつくづく見て、少年はくすっと微笑った。意外と優しい表情になる。

「いいか? あの白猫は繋ぎだよ。あのままおめェを、物の怪の領域(なわばり)に連れこむ手はずだったんだ。」

 少女は心の底から驚いた。

「つ、連れこむって‥。物の怪のナワバリに連れて行かれるとどうなるの? 帰れないの?」

「たぶん‥喰われるかな。」

「え? く、喰われるって‥。食べられちゃうわけ? 」

 青ざめた少女に向かって、少年は再びにやりと笑った。

「何とかしてやるよ。俺の務めだからな。」

 少女はそこで少年の家の生業(なりわい)を思い出した。確か―――四宮(よつみや)という、妖し封じの名門の出だ。

「だから、誰かに一緒に帰ろうと言われても、今日は絶対に断れよ。俺と帰るからと言え。小妖怪ならそれだけで引き下がるから。」

 少年は―――四宮(よつみや)市之助(いちのすけ)はそれだけ告げると、自分の席へと向かった。


 少女の名は吉成(よしなり)静香(しずか)といった。

 『懐古堂(かいこどう)』という骨董屋の一人娘で、父親と二人で暮らしている。

 母がなぜいないのか、静香は知らない。近所の噂話で、静香が生まれてすぐに出ていったとか、死んだとか聞いた覚えがあるけれど、父は何も話さないし家には仏壇がなかった。

 父親はあまり他人と親しくする性質ではないらしく、友人だとか親戚だとかが来宅したためしはない。

 骨董屋の客はそこそこあるけれど、店を訪れる客よりも手紙などでやり取りし、父が出かけていく方が多かった。そのため学校から戻れば自ずと、ひとりでひっそりと店番をすることになる。

 春になって小学校を終えたら、たぶん一日中店番をして過ごすのだろう、と漠然と思っているけれど、だからどうだというわけでもない。ひとりでいるのが楽だから、むしろ学校に通うより好ましいかもしれなかった。

 市之助とは家が近いので、学校に上がる前から知ってはいる。だがこんなにいっぱい話したのは今朝が初めてだった。

 彼は朝の言葉通りに、授業を終えると静香の近くにやってきた。

 帰るぞ、と再び彼女の手を取って繋ぐ。ちらちらと振り返る者もいたが、誰も何も言わなかった。

 二人はただ黙って歩いた。

 市之助はどうか知らないが、静香は用もないのに喋るというのがそもそも苦手だ。母のいない子だからね、とよく言われるが―――自分はそんなにヘンなのだろうか? 数えで十二と言えば、確かにもう少し世間を知っているものなのかもしれない。

 沈黙が続く中で、静香はぼんやりと空を見ていた。

 ―――今日は天気がいいなあ‥。

 冬のきりりと澄み切った青い空を、ゆったりと流れていく白い雲。

 不意に呆れ声が耳に入った。

「おい。前くらい自分で見て歩けよ。俺が手ェ引いてるからって、何上向いてンだよ?」

「あ‥。ごめんなさい。ついぼんやりしちゃって‥。」

 謝ると市之助はまったく、と小さく舌打ちした。

 それから今度は同じ沈黙でも、少し気まずい沈黙が続く。

 途中でまた白猫を見かけたけれど、白猫は市之助を見るとさっさと植えこみに引っこんだ。次には白塗りのお面を被ってチラシを配っている人に会い、チラシを手の中に押しこまれそうになったが、やはり市之助が一瞥するとその人は逃げていった。

 そうこうしているうちに静香の家―――『懐古堂』に着いた。

 商店街の賑わいからだいぶ離れた、通りの端っこにぽつんと看板を掲げている小さな店だ。二階が住居になっている。

「‥‥やっぱりか。」

 市之助は眉をひそめて看板をじっと見つめ、入ろうとした静香を押しとどめた。

「えっと‥。ここがあたしんちだけど?」

「阿呆、解ってるよ。ちょっと待てって言ってンのさ。」

 戸口前に仁王立ちになった市之助は、目を閉じて何か小さくつぶやいた。

 驚いたことに彼の体じゅうから、金色の炎がうっすらと立ちのぼる。静香は思わず息をのんだ。

 彼は目を開けて店の真ん中を見据えると、指で何か切るような動作をして金色の光を視線の先にある何かに向け、放った。

 何かがぼっ、と燃えたったような気がしたけれど、それはほんの一瞬のことで、光が消えると彼は今度は、懐から一枚のお札を出した。そして念をこめるしぐさをして、その札を店の入口に貼りつけて、静香を振り向いた。

「もう入ってもいいぜ。」

「あ‥うん。」

 何だかさっぱり解らないけれど、静香はどことなく明るい気分になって家に入った。

 市之助はあたりまえのごとく、続いて入ってくる。

「お父さん、ただいま帰りました。」

 二階へ声をかけたけれども、父は留守のようだった。

「お父さんは留守みたい。どうぞ。」

 客と話をする三畳ほどの畳間を指し示すと、市之助はうなずいて畳間に上がった。

 お茶を淹れながら、静香は何気なく訊ねてみる。

「さっきのって、何をしたの?」

「ん? ああ‥。邪気を払って、魔除け札を貼っただけだ。」

 へえ、と静香は心の底から感心した。

「すごいねえ‥。四宮くんて、もう家業のお務めができるんだ?」

 市之助はお茶を受け取り、やや渋い顔でまあ、と答えた。

「修業しろって祖母ちゃんがうるさいんだよ。俺んちはさ、ほんとは女が継ぐもんなんだが‥。親父も俺も一人っ子だからな。めんどくせェがしょうがねェンだ。」

「そうなの、たいへんねえ。でも何だか解らないけど、ありがとね。おかげであたし、物の怪に食べられないですんだんでしょ?」

 お茶をすすりながら、彼はちらりと目を上げて静香を見た。

「ここについてた妖気は払ったが、どこから来たのかわからねェと、まだくるかもな。おめェみてェに中途半端に視えると、やっかいなんだよ。」

 市之助はぐるりと店の中を見まわした。

「ここは護符で結界を張ったから、物の怪は普通は入れねェ。だが客に化けて声をかけられたら、たぶんおめェは戸を開けちまうだろうし、どうぞって言うだろう? そうすりゃ物の怪は入れちまう。」

「どうぞって言ったらいけないの?」

「家のもんがいいって言えば、結界は関係ねェのさ。そういう決まりだ。」

 背中がぞぞっとして、静香は無性に怖くなった。

「じゃあどうしたらいいの?」

 うーんと考えこんで、市之助は小さく吐息をついた。

「白猫婆アに、誰に頼まれたか聞いてみるか。」

 それから静香を振り返り、手を出しな、と言った。

 言われるままに広げた掌に、彼は指で何か紋様を描いた。そして再び金色の光を今度は手だけにぼっと生じさせると、今描いた紋様に光を当てる。すると静香の小さな掌の上に、金色の不思議な紋様が刻みこまれた。

「当分の間、これがおめェを護ってくれるよ。ま、おめェを狙ってる物の怪が、俺の手に負えねェような大物じゃなかったらだがな。」

 金色の光は何だかとても温かくて、静香はすごく安心した気分になった。

「ありがとう、四宮くん。」

 いや、と少し照れくさそうに答えた市之助は、市之助でいい、と付け加えた。


 夜になって帰宅した父親に、静香は市之助から聞いた話をそっくりそのまま話した。すると父親の顔色が変わった。

「四宮の坊ちゃんがそう言ったのかい‥物の怪がおまえを狙ってるって?」

 うん、と静香はうなずき、掌を開いて見せた。

「市ちゃんの手に負えないほどの大物じゃなければ、この紋様が護ってくれるんだって。それからあたしにはよく解らないけど、何とかしてやるって。」

 そうか、と父は安堵の吐息をついた。

「あそこは四宮でも格の高い三位(みい)分家だからな。そこの跡取りが言うんなら、たぶん大丈夫だろう。‥‥静香、おまえは当分店番に立つな。」

「え? いいの?」

 ああ、とうなずいた父の顔はやけに深刻で、それ以上何かを訊ねてはいけない気がした。

 父はしばらく黙りこんで何か考えていたが、やがて静香を振り向き、いつもの優しい顔で、夕飯にしようか、と頬笑んだ。

 なので静香はほっとして、うん、と大きくうなずいた。


 商店街から少し離れた雑木林の傍らに、寂れた小さな地蔵堂があった。お詣りする者もいないのか、だいぶ荒れた状態だ。

 そこへ夕闇に紛れて、こそこそと一匹の白猫がやってきた。

 猫はあたりを用心深く窺い、そうっとお堂の裏側に入りこもうと背中を丸めた。

 その時、不意に猫の全身を金色の光が包みこみ、猫はぎゃっ、と叫んで尻餅をついた。

「おい、白猫。」

 白猫は嫌そうに髭をしならせ、眼をくっとすがめて声の主を見上げた。

「あたしゃ何も知らないよ。他をあたっとくれな。」

 猫の傍らに屈みこんだのは市之助だった。彼は冷めた視線を猫に向け、訊ねた。

「今朝のことだよ。誰に頼まれた?」

「さて。何のことだか‥。」

 猫は目を逸らしてとぼけようとしたが、じいっと見据えられてうろたえ始めた。

「解ったよ、あの嬢ちゃんにはもう構わないって約束するよ。だから解放しておくれな、な、坊ちゃん?」

 半泣き顔で頼み込んでくる様子に、市之助は微かに顔をしかめた。

「‥‥口に出せねェほどの相手なのかい?」

「ん? ああ‥。ま、そこそこかねえ‥。」

 渋い顔で白猫は、市之助を値踏みするようにじいっと見つめた。それからにやっと、やけに愛想のいい顔に変わる。

「そうだねえ‥。坊ちゃんがあたしも護ってくれるってンなら、教えてもいいよ。」

 顔を寄せて、小声でひそひそと囁いてくる。

 市之助は黙ったまま、目線だけで促した。白猫は了解とみて、更に声をひそめ、話を続けた。

「とっくり狸って爺いだよ。三丁目の、こないだつぶれた料亭があるだろ? あそこの玄関先にいる信楽(しがらき)の狸だ。」

「‥付喪(つくも)かい?」

 白猫はうーんと呻った。

「ありゃ何だろねえ? 付喪じゃないね、昔は人だったもんだよ。怨霊まではいかないけどさ、悪念がついて化けたんだろ。うすのろのくせに、馬鹿力でさア‥。」

 白猫は怖そうにぶるぶるっと身を震わせた。

「乱暴者なんだよ。まったくね、夜鴉の旦那が何とかしてくれりゃいいんだけど、旦那方は最近、軍事(いくさごと)にかまけてあたしらの面倒なんか見ちゃくれないのサ。」

 愚痴は聞き流して、市之助は考えこんだ。

「何のために狙ってるのか、聞いてるかい?」

「さアね。聞いちゃないけどさ、喰うんだろうよ。十三詣りの前に、とか言ってたっけ。子どもを喰らう物の怪ってのもさア、最近じゃ減ったけどねえ‥。ま、あの嬢ちゃんはこのとこ他でも評判だよ。」

 白猫は婀娜っぽい目つきで市之助を見遣り、ふふん、と鼻で笑った。

「急に評判になったからね。おおかた護り札でも失くしたんじゃないのかい?」

 市之助は懐手で考えこんだ。

 遠くで宵闇の鐘の音が聞こえる。日は既にとっぷり暮れた。

 白猫はしばらく見守っていたが、やがてあくびを一つこぼすともういいかい、と訊ねた。

「ああ‥。だいたい解った。邪魔したな。」

 くるりと背中を向けた市之助の膝元に、白猫は尻尾を絡ませて引き留めた。

「ちょいと。あたしを護ってくれるって話はどうなったンだい、坊ちゃん?」

 静かな瞳がじろりと振り向く。

「そうだったな。じゃ、使役印をつけてやろうか。」

「ひえっ! し、使役印だって!」

 白猫は慌てて跳び退き、地蔵堂の裏に逃げこんだ。

「冗談じゃないよ、まったく! 四宮の使役印なんぞ刻まれたら最後、二度と商売ができなくなるじゃアないかえ? ‥‥あの狸を片してくれりゃあいいんだよ!」

「ふうん‥。それが本音かい?」

 チッと舌打ちが聞こえ、猫の呻り声がした。それから急にしんと静かになる。

 市之助は小さく吐息をつき、声をかけた。

「おい。教えてくれてありがとよ。礼に明日、鰹節を持ってきてやるよ。」

 鰹節、とか細い声がおずおずと聞こえてくる。

 市之助はうなずいて、けどな、と続けた。

「俺の知り合いにちょっかい出さなきゃ、だぜ? 他の奴らにも広めとけよ。あいつに手出しするヤツは俺が相手になる。容赦しねェよ、ってな。」

 あいよ、と機嫌の直った声が地蔵堂の中から跳ね返ってくる。

「坊ちゃん。ちゃんと広めるからさ、鰹節は上物(じようもの)を奮発しておくれよ?」

 ふふっと微笑い、市之助はうなずいた。


 翌朝市之助は、鰹節を持っていつもよりだいぶ早く家を出た。

 地蔵堂へ寄り、持っていた鰹節を供えると、どこからか猫の喉をごろごろならす音が聞こえてくる。

「‥‥有難いねェ。こりゃほんに上物だ。」

 ひそひそと声がする。

 当然だ、とひそかに市之助は胸を張った。

 何しろ鰹節には滅法うるさい父親が、配給制になる前にとたくさん買いだめしておいた秘蔵の鰹節だ。むろんこっそり持ち出したのではなく、畳に頭をすりつけて一生懸命頼んで分けてもらったものだった。

 満足した気分で立ち去ろうとした背中を、白猫が呼びとめた。

「四宮の坊ちゃん。鰹節は確かに受け取ったからね、交渉は成立だ。猫又のお白の名にかけて、約束は守るよ。」

 振り向くと、地蔵堂の陰から緑色の目がこちらをじっと見つめていた。

 ―――猫又のお白か‥。

 自分で名前を明かすとは少し奇妙な感じがしたが、その時はそれほど深くは考えなかった。軽くうなずき、そのまま走って今度は静香の家に向かった。


 静香の家では父親が出てきて、丁寧に礼を言った。

「昨日は札を貼っていただいたそうで‥。晦日(みそか)には払いに行くと当主どのにお伝えいただけますか。」

 大人に対するような口調で言われて、市之助は少々面食らった。

「いや、俺はまだ本家に認められていないから‥。ちゃんとした術師じゃないから、対価をもらえる身分じゃないんです。ただのガキだよ、そんなあらたまった挨拶されても困るよ、親父さん。」

 静香の父親は少しだけほっとしたように頬を緩めたが、しかし、と言葉を続けた。

「四宮の拝み料も護符も、そこらの神社より破格に高いと聞いている。そんな高価なものを無料(ただ)でというわけには‥。」

「昨日静香に‥いえ、静香さんにお茶をごちそうになったし、礼も言ってもらいました。まったく無料(ただ)ってわけじゃないから。」

 それに同級生だから、とちょっぴり照れくさそうにつぶやいた市之助に、静香の父親はそうか、と答えて穏やかに微笑んだ。

 そこへ静香が奥から出てきた。

「やっぱり市ちゃんの声だったのね‥。何だかいっぱい喋ってるから、驚いちゃった。」

 暢気な声でそう言うと、にっこりと微笑む。

 色が白くてくっきり二重まぶたの大きな瞳、長い睫毛。本人はまったく知らないようだが、実は同級の男子児童の間では吉成静香は可愛いと評判だった。

 だから昨日の朝は、なんで手を繋いで登校したのかとちょっとした騒ぎになったのだが、静香はまったく気づいていないらしい。阿呆だからな、と市之助は冷めた瞳で無邪気な顔を見遣る。

「行こうか。」

「うん。」

 父親に見送られて、また手を繋いで歩いてゆく。

 曲がり角を過ぎたところで、ぼそっと市之助は静香に言った。

「おめェを狙ってるってのは、子どもを喰う物の怪らしいから、十三詣りを終えればとりあえず安心だ。それまであとひと月は送り迎えしてやる。」

「ありがとう。」

 ただ素直に礼を言われて、どうやらそれ以上は何も言わなくていいと気づいた。

 ―――ま。これはこれで楽だな。

 昨日はなんで、なんで、といろいろ聞いてきたが、それは静香にとって市之助は『知らない人』だったからだろう。今日は恐らく『知っている人』に格上げになったわけだ。

 ふと振り向けば静香はまたほんわりとのどかな顔をして、枝先の小鳥なんかをじっと見ていた。

 ほんとうに危なっかしいと市之助は内心で溜息をつく。

 あれはただの小鳥だが―――そうでなかったらどうする気なのか。目が合っただけで縁ができてしまうかもしれないのに。

「おい。うかつに目を合わせるな。」

「ふぁ?」

 びっくりして間抜けな声を出している。

「今、何を見てた?」

「えっと‥あれは何だろう? 初めは鶯かな、って‥でも違うみたいで‥。」

 しどろもどろに説明し始める。そうじゃねェ、と市之助はほんとうに溜息をついた。

「鳥の種類はどうでもいいんだよ。思い出してみな、昨日だってただの猫だと思ってたんだろ?」

「あ‥! そういうことね‥。」

 やっと気がついたようだ。ごめんなさい、と少し赤くなってうつむいた。

 やれやれ、と呆れながら少し足を速めた。

 ―――面倒だが‥しょうがねェ。

 放っとけねェやな、とつぶやいた。


 桃の花が咲いて上巳(じようし)の節句が終わる頃、静香は無事に十三詣りを終えた。

 市之助は猫又のお白の注進で、前日の夜半過ぎに現れたとっくり狸を路上で待ち伏せし、見事に滅した。しかし静香や静香の父はもちろん、他の誰にもその事は言わなかった。

 現場に居合わせたお白は、手も触れずに霊力だけで鮮やかに札を操る姿を目のあたりにし、震えあがって市之助の前に手をついた。

「坊ちゃん‥。あんた、本物だね。お願いだから見逃しておくれよ、あたしゃあんたの役に立っただろ?」

「‥どうせあの狸からも、何かせしめてたんだろう? 猫又のお白。」

 名前を呼ばれて尻尾の毛までぴんと逆立て、お白はがたがたと震える。

 市之助はふふっと微笑うと、お白の隣に屈みこんだ。

「今夜はおかげで助かったよ。約束通り他の奴らにも、広めてくれたようだしな。ありがとよ。」

 喉を撫でられて、だんだんと震えが収まってきた白猫は、ごろごろと喉をならし始めた。

「むろん商売はちゃんと仕切るのサ。坊ちゃんとは上物の鰹節で交渉成立したし‥。」

「ふふん、二股商売のくせに。」

 からかい口調で揶揄すると、猫は威張って髭をぴんと張った。

「そりゃそうサ。何たって猫又だからねえ。尻尾と同じ、二股上等ってもんだろ?」

 呆れ返りながらも、お白をどうこうする気にはなれなかった。四宮の掟に照らせば、問答無用で滅するところだろうが―――どうせまだ見習いの身だ。

 ―――鰹節で交渉成立か‥。それもいいかもしれねェよ。

 市之助は静かに立ち上がり、尾の先が分かれた白猫にまたな、と告げた。そしてひっそりと家に帰った。

 後に東京じゅうの物の怪にその名が知れ渡ることとなる、交渉屋四宮市之助のこれが最初の仕事である。

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