メガネと宴の後
「あれ? なんか光ってない?」
ようやくパーランダ社がササンの視界に入ってくると、うっすらとだが、屋根の上から空に向かってまっすぐに一筋の光が伸びているのが見えた。
目を凝らさないとはっきりとわからない程度のもので、たまたま見上げなければ気づかなかっただろう。
「あーホントですニャ」
「何だろうね」
「はてー」
不思議に思いながら玄関近くまで来ると、光はふうっと消えた。
「あれ、消えた」
「なんでしょニャ」
二人はしばらく屋根の上を見つめていたが、それ以上は何も起きなかった。
不可思議な出来事を前にして、ササンは実はちょっと怖かったが、パルテアをずっとおぶって歩いてきたために息切れ気味で、真面目に怖がる気力もない。
まずはパルテアをベッドまで運ばなくては。
恐る恐る社内に入ると、局長室からだけ灯りが漏れていた。
「ニャ。局長が戻ってるみたいですニャ」
ササンたちが入ってきたのに気づいたようで、局長室のドアが開き、ミフラが姿を見せた。
「おや、パルテア殿はどうされたのですか?」
「みんなで食事に行ったんですけど、酔っ払っちゃって」
「そうでしたか」
近寄ってきたミフラは優しげな表情を浮かべ、酔って眠っているパルテアの首筋を無造作に撫でた。
それはあまりにも自然な動作で、そんなところを撫でてどうするのか、疑問に思う隙もなかった。
その指先から、ごく微小な、薄い緑色の光が発されたようにササンには見えた。さっきの、屋根の上の光の色に似ているような気がした。
ほんの一瞬のことだったが、妙にゆっくりと時間が流れているように感じられた。
「それでは私は失礼します」
ようやくまともに戸惑うことができたササンをよそに、ミフラはパルテアから手を離し、玄関からさっさと出て行ってしまった。
いまの光は一体なんだったんだろう? 見間違いか?
「クーシュ、いまの見た?」
「何かありましたかニャ?」
クーシュには見えていなかったようだ。やはり自分の見間違いだろうか。
「あ、いや。ミフラさん、やっぱり不思議な人だね。そもそもどこに住んでるんだろう」
「はてさてさっぱりですニャ」
「う、ううん……」パルテアが目を覚ましたようだ。
「あ、パルテアさん、大丈夫ですか?」
「ふああぁ……よく寝た。あれ? 会社? あれ? なんで背負われてるの?」
パルテアは大きなあくびをして、きょろきょろとあたりを見回した。
「パルテアさん、酔っ払って寝ちゃったんですよ」
「あぁ……そうだっけ。あれ。でもわたし、全然酔ってないんだけど。まったく酔いが残ってないわ」
「え?」
仮にパルテアがどれだけ酒に強いとしても、そんなわけないだろうとササンは訝った。少なくとも、四杯か五杯は飲んでいたはずだぞ。
とはいっても、ササンには酔った経験がないので、どれぐらいの量でどれほど酔っ払うのかは憶測するしかないが。
「ああ、でもまだ寝足りないわ。旅行疲れかしら。ササン君、ベッドまで運んで~」
パルテアは、ササンの背中に思い切り体重を預けてきた。
またしてもの胸の感触で、さっきの薄緑光のことは頭から吹っ飛んでしまった。
ササンはよたよたとパルテアを部屋まで運びながら、冷静になるべく、写真師学校で教えられた中でもとりわけ退屈だった、古代の写真技術の講釈を懸命に思い浮かべた。
パルテアの部屋に入り、少し名残惜しい気持ちながら、パルテアをベッドに下ろす。
パルテアの落ち着いた様子を見て、
「もう大丈夫みたいですニャ? それじゃあクーシュは帰りますニャ。ふわわわ~」クーシュはあくびをした。
「うん、クーシュありがとね。また明日」
パルテアはベッドに勢いよく寝転がりながら、部屋を出て行くクーシュに声をかけた。
「……なんというか、クーシュはのんきでいいなあ」
ササンは、とことこ去っていくクーシュの姿を見送りながら、先ほどのミフラのことを思い出していた。
思い起こせば、あの光のあと、首元からにおってくるパルテアさんの酒くささが消えたような……。ミフラさんが一瞬にして酩酊を治癒してしまったとでも? いやいや、そんな馬鹿なことあるわけが。それじゃ魔法だ。でも現にパルテアさんは酔ってないと言ってるし。でもあれだけ飲んでいたわけだし……。
「で、いつまでいるの?」
「はい?」
考え込んでいたササンがパルテアのほうを振り向くと、パルテアは床に就くべく服を脱ごうとしていた。
「うへあっ。す、すみませんっ! おやすみなさい!」
ササンは人生最速の動きでパルテアの部屋を飛び出した。
力が抜けて、そのまま廊下に座り込む。
酔いが残ってないって本当なのかぁ? パルテアさんのさっきの言葉がまるで信用できなくなってきたぞ。
ササンは嘆息して、もう一度考える。
そうか。パルテアさんは酔っ払ってるんじゃなくて寝ぼけてただけか。あー、いやでも。うーん。ミフラさんのあれはやっぱり……ええっと、どんな光だったっけ。
うー……、えー…………。
もう……なんだか、いいや……。体にどっと疲れがやってきた。
おぶってきたのもそうだが、今日一日いろんなことがあって、自分はずいぶんと疲労していたようだ。
さっきのミフラさんのことも正確に思い出したいところなのだが、頭が働かない。全身がだるい。
規則正しく学校に通っていた日々と違って、一日のうちにもいろんなことが起きて、いろんな人に振り回される。働くっていうのはこういうものなのかな。
ササンは内心混乱したものを抱えつつ、自室に戻り、服を脱ぎ散らかしてベッドにもぐりこんだ。




