メガネと写真
その日サヴァーはとりわけ騒々しかった。祭りの中でも最もやかましい日、「踊りの日」である。
パルテアとササンは引き続き祭り取材をするべく、早々にパーランダ社を出ていた。昼を前にして、社内には事務仕事をするクーシュがいるのみだった。
クーシュがニャンニャンと猫っ鼻歌を鳴らして経理書類をさばいていると、局長室のドアが開き、ミフラが姿を現した。クーシュはびくっと身を震わせ、しっぽの毛を逆立たせた。社内には自分のほかに誰もいないと思っていたためである。
「きょくちょー、いらっしゃったんですかニャ。気配を消すならそう言ってほしいですニャ」
「すみません。今日もお二人は取材ですか」
「ですニャー」
「おや、これは……」
ミフラはササンの机の上に散乱している写真に目を留めた。
「祭りの写真ですニャ。サンちゃんさん、とってもたくさん撮ってますニャ」
「ほう」
確かにササンは張り切っているようで、写真を見ると、誌面に使うかどうかは考えずに、とにかく目についたものを撮っているといった風情だった。
山車の写真、鼓笛隊の写真、屋台の写真、食べ物の写真、観衆の写真……、ほとんど何でもある。
ミフラはそれらを手にとって、何気なく見ていったが、何枚か見たところで、手を止めた。
その写真に写っていたのは仮面をかぶる幾人かの観客だった。仮面の造形はそれぞれに違うが、目の所にはみな緑色のレンズが嵌まっている。伝統的な、何の変哲もない仮面であり、何の変哲もないサヴァーの祭りの風景だ。
しかしミフラには、写真の中の、ある一人の男が、明らかに周囲とは違って見えた。
その男の仮面のレンズの輝きは、ほかの観客とは別種のものだった。
それはミフラにとってだけそうとわかる、特殊な光線を持っていた。一見するとなんでもないのに、ひどく引き込まれる妖しい魅力をたたえている。超常なる力の片鱗が感じられ、それはまさに、ミフラが追っていた<石>の力にほかならなかった。
その男の仮面をじっと見つめていると、頭に靄がかかったような気分になってくる。写真を通してまで、<石>の力が薫ってくるのだ。ややもすれば、いま見ているものが何であったか、忘れてしまいそうになる。
ミフラはほんの少し歯噛みし、写真から視線を外した。目蓋を閉じ、やや深く息を吐く。
「……なるほど、心像機とはよくいったものです」
「ニャ?」
下を向いて仕事をしていたクーシュは、ミフラの言葉がよく聞き取れず、顔を上げて首をかしげた。
「いえ、ササン殿には才能があったようですね、と」
「?」
なおも理解できず、クーシュは胡乱な顔をした。
ミフラは薄く笑みを浮かべ、写真をササンの机に戻す。
「さて、私は外出します」
ミフラは速い歩調で玄関に向かった。
「ニャ。祭り見物ですかニャ」
「そんなところです」
ミフラはそう答えて、足早に出て行った。
ドアの閉まる音がし、しんとするパーランダ社内。
「珍しいこともあるもんですニャ~。きょくちょーが行き先を言ってごくふつーに出て行くなんてニャー……」
クーシュはほんの少しの間ドアを見つめていたが、すぐに仕事に戻った。
「あれっ? あれって局長じゃない?」
パルテアは心像機を構えるササンの肩を叩いて呼びかけた。
祭りの「踊りの日」、まだ踊りは始まっていないが、参加者が多数集まり、楽隊も準備をしていて、大通りは騒がしくなりつつあった。ササンたちから少し離れたところでは、エリズが楽隊の様子を眺めていた。
「えっ? どこですか?」
「ほら、あれ」
パルテアの指差すほうを見ると、確かにミフラがいた。群集の間をすり抜けるように、すばやく、しかしそうは見えない奇妙に悠然とした動きで、歩いていた。フードを目深にかぶっていて顔はよく見えないが、服装からしてミフラだろう。
「……局長も踊りに参加するんですかね?」
「まっさかぁ。あっ。脇道入った!」
ミフラは何のためらいもない様子で路地へと滑り込んでいった。明らかに、何か明確な目的があっての行動である。
「あやしい……」
パルテアは不敵な笑みを浮かべた。完全に悪いことを企んでいる。
「まさかの局長、祭りのさなかに逢引き! 痴情のもつれ!」
喜々としてゴシップ発言をするパルテア。
「いやいやそんなありえないでしょう」
「追うわよ!」
「ええー? プライベートへの介入はよくなうわあああ」
ササンに反論する隙も与えず、パルテアはササンの腕をつかみ、引きずるようにして走った。行き先はもちろんミフラが入っていった路地である。
「エリズ、これ持ってて! 食べちゃダメよ!」
パルテアは、持っていたアイナクの酢漬けの包みを放り投げるようにしてエリズに渡し、なおも抵抗するササンを強引に引っ張って行った。アイナクの酢漬けはサヴァー随一のファストフードである。
「わああぁぁ~」
遠ざかっていく情けないササンの声が響く。
パルテアとササンが隘路に消え行くのを静かに見届けたエリズは、
「古今東西、食べちゃダメと言われて食べなかった例はないわね」
ひとりごち、アイナクの酢漬けを口に入れた。
込み入った路地の底で、淡い緑色の閃光が走った。
瞬間のきらめきの中で、若い男女が見つめ合っていた。
男女がたたずむ場所は、大通りから外れた路地だった。周囲の背の高い建物が、祭りの熱気も歓声も遠ざけていた。
女は麗しいドレス姿だった。仮装というわけではないが、祭りを満喫するために、あるいはいい男を引っかけるために、何日も前から入念に選び、用意してきたものだ。あざやかな赤と黄を基調としたそのドレスは、女の魅力を引き立てていた。
男は、祭りらしい衣装といえば仮面を着けていることだけだったが、女は、そのありきたりであるはずの仮面からのぞく男の目に、すっかり魅了されていた。
緑色のレンズを通して見る瞳は、此度においてはやけに美しく、妖しい。
のみならず、仮面の隙間から見える肌も、髪も、何もかもが理想的な造形を成して女の目に映っていた。
女はほとんど正体を失っているといってもよいほどだった。祭りのさなか、互いに素性を知れないまま、こうして路地に入り込んでは一時の色事に耽るのはサヴァーではよくあることだったが、女ののぼせぶりは常軌を逸していた。
女は、お気に入りの宝石が付いたネックレスも指輪も外し、男に差し出した。男はそれらを受け取り、露骨に邪悪な笑みを浮かべる。しかしその微笑は、女にはさらなる恍惚をもたらすだけだった。
靴音が鳴った。
邪魔された男は仮面の下で忌々しげな表情をし、靴音のしたほうへ振り向いた。
見られても何も困ることはない。このレンズの力で、魅了してしまえばいい。何ならそいつからも何か奪ってやれ。
「破廉恥な行為にせよ詐取にせよ、あまり介入したくはないのですが、せめて自分自身の力でやってもらいたいものです」
フードをかぶった靴音の主――ミフラが陰から姿を現して言った。
「あなたが『仮面の君』ですね。とうとう捕まえましたよ」
「捕まえただって?」
男は嘲笑しながらミフラに視線を向けた。男が自分の目に思念をこもらせると、レンズはその緑色をより明瞭にし、瞬間、鮮烈な光を放った。
「無駄ですよ」
フードを脱いだミフラの目は固く閉じられており、魅了の光は届かない。
「けっ。盲人か。それなら逃げるだけさ。盲目ではサヴァーはまともに歩けまい」
男は落ち着き払った様子で、路地の奥へ走った。手には女から頂戴した宝石類がしっかりと握られていた。
男に魅了されていたドレスの女は魅了から解放され、そこにそのまま崩れ落ちる。
ミフラは急ぐこともなく、泰然と男を追いかけ始めた。
「あなたはすでに<認識>済みです。逃がしません」
ミフラがその場から姿を消したところで、パルテアとササンが追いついてきた。
ミフラと、あともう一人誰かが路地の先へ行ったように思われたが、二人にはまだ状況がよくつかめていなかった。
「ちょっとあなた、どうしたの?」
パルテアは、道に座り込んだ女に話しかけたが、女は放心状態で、まともに受け答えができない。
「この蕩けた表情は……もしや『仮面の君』の仕業? とすると、局長が追ってるのは『仮面の君』ってこと? でもどうして局長が?」
パルテアは矢継ぎ早に疑問を口にした。
「ぼくに訊かないでくださ」「よっし。追いかけよう!」
尋ねておきながらササンの答えをろくに聞きもせず、パルテアはふたたび走り出した。
「ちょっ、ちょっとパルテアさんっ! この女の人は?」
「写真は撮っちゃダメよかわいそうだから!」
パルテアは一瞬振り返って答えたが、またすぐ走り始める。
「いやそういうことではなくてですね! 人命救助とかそういうあれが!」
ササンが叫んでも、パルテアの耳には届いていなかった。致し方なく、ササンはパルテアの後を追った。
「なっ。なんで追ってこれるんだ? 目が見えないのに!」
男はサヴァーの道を知り尽くしており、縦横無尽に逃げ回った。が、ミフラを振り切ることができないでいた。
ミフラは振り切られるどころか余裕の表情で、目を閉じたまま、男の逃げる先へどこへでもくっついてきた。
当然ながら、ミフラは盲いであるわけではない。
レンズの力は弱く、感知が難しくなっているため、認識のためには直接視認するしかなかった。しかし迂闊に見ようとすれば魅了に晒される。
それを解決したのがササンの撮った写真であった。ササンが撮った祭りの写真に偶然この男が写っていたのである。写真にまとわりついた魅了の残り香は、そのレンズの存在をミフラに<認識>させた。
これにより、レンズの存在、その力の脈動は、目を閉じていても感知できるところとなった。一度こうなってしまえば、あとはいかようにも追跡することができる。
ミフラは走っている素振りすら見せず、まるで浮かんでいるかのように、地面を滑るようにして男についてきていた。やわらかく微笑し、追跡を楽しんでいるようですらあった。
「お遊びはそろそろ終わりにしましょう」
男が前を向いた一瞬の隙にミフラは目を見開いた。
その目から、一筋の閃光が放たれる。
光は男の頭上を越えて、その一歩手前に雷撃のごとく落ちた。地面が小さくえぐれ、焦げたような匂いが漂う。男はヒッと悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
その時すでに、ミフラの頭環は外されていた。
頭環に隠されていた額には、果たしてもう一つの目があった。
額の中心を縦に裂いて開くその目は、緑色に輝く左右の目よりもはるかに神々しく、力に満ち満ちていた。
威厳すら湛えたその翠緑の目から、先ほどの閃光よりも強烈な、赫奕たる光がほとばしり、男を背面から直撃した。
光に包まれる男。その光の中で、男が着けていた仮面がレンズもろとも砕け散った。
男は気絶し、そして、仰向けにゆっくりと倒れた。
その直前、パルテアとササンはミフラに追いついていた。建物の上から下まで、中から外までさんざんに走らされて、ようやくのことだった。
二人は、ミフラと仮面の男の姿を物陰から見ながら、ぼそぼそと小声で話した。
「パルテアさん、あれはいったい」
「わ、わたしに訊かないでよ」
「うわっ……」
ミフラが額からまばゆい光を放つのと同時に、ミフラの背から、左と右とに光の束が飛び出した。それはさながら翼のようであり、異形のその姿は、二人に畏怖の感情を呼び起こしさえした。
「ゆっ、有翼人……!」
パルテアは、昔話の中に見た単語を思わず口にした。
ササンのほうは、あまりに荘厳なその翼の広がりに気圧され、心像機を手にしながら、何もできないでいた。
仮面が砕けると、光の横溢は収まり、翼もかき消えた。
「手間をかけさせてくれましたね」
ミフラは男のそばに屈み、男の額を指で軽く触れた。
「『仮面の君』だったことについては、夢でも見たと思うことです」
手を額から離し、宙にかざすと、砕け散ったレンズの破片がふわりと浮かび上がり、掌に集まった。破片は、ぽうっと小さく光を発し、幾度か瞬いたが、すぐに消えた。
「…………なるほど、このレンズはそうやって使われてきたわけですか」
ミフラはレンズの破片から、レンズ――その元となった<石>の来歴を感じ取り、すべてを理解した。
「ともあれ、これで<石>の一つは回収できました。さて……」と、ミフラは膝を伸ばす。
「あっ。ディラボーだ! あ、やば」
ミフラが立ち上がったことで仮面の男の顔が見え、パルテアはつい声を上げてしまった。慌てて口をふさぐも、時すでに遅し。
「おやおやこれはご両人。見られてしまいましたか。レンズの回収に気を取られすぎましたかね」
ミフラは酷薄にも見える笑顔を向け、滑らかな動きでパルテアとササンの前に立った。二人は、その人ならざる動き方に、何の反応をする余裕もなかった。
「あ、あの局長? なんかおおおおでこにめめめ目みたいなのがつつ付いてるわよ」
「知ってます」
震え声のパルテアに対して、ミフラは笑顔を張り付かせたまま答えた。
「えーと、これはぼくらは……、ど、どうなって……しまうんでしょう。見てはいけないものを見てしまっ……」
ミフラからにじみ出る雰囲気に圧され、ササンは台詞の途中で口をつぐんだ。
「どうなってしまうのでしょうね」
ミフラがゆっくりと手を伸ばしてきた。
三つの目は淡く緑に輝き、指先からもまばゆい緑色の光がゆらりと漏れ出た。
へたり込むパルテアとササンは何もできず、呆然とその光を眺めた。指先が目の前に来たところで、観念して強く目を瞑った。
そして、何も起こらなかった。




