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メガネ神話紀行  作者: 北条三蔵
第2章
11/23

メガネと図書館

 図書館は、石造りで重厚そうな建物ではあるが、なんとも小さかった。

 古ぼけた外観に威厳も感じられない。さすが技術資料以外のものは大して無い、というだけのことはある。この様子だと、なんでもかんでも地下書庫に突っ込んであるのかもしれない。

 閲覧室へ入ると、傷だらけのカウンター机が二人を迎えた。その席には誰もおらず、どこかで台車を転がしているらしき音がするぐらいで、館内に人の気配は乏しい。

 手近な本棚を見てみると、並んでいたのは本ではなく、辞典ほどのサイズの紙箱だった。それらの箱には、何たら社月報、何たら工房レンズ部門実験記録、何とか川流域鉱石採掘図、何とか技術者組合連絡会議資料……などと書かれたラベルが貼り付けてあった。しかも、どれも相当に古いものだ。

 ほかの棚を眺めてみても同様で、ただひたすらに箱入りの書類が並んでおり、本棚の形をした書類棚に過ぎなかった。

 実に読む気をそそらない。入館者が見当たらないのもむべなるかなという風情である。

 ササンは懇親会でのパルテアの言を思い出し、深く感じ入った。こうした景色への絶望がいまのパルテアさんを生んだのだなあ。

 当のパルテアはつかつかと閲覧室の奥へ歩いて行き、あたりを見回していた。友人だという職員を探しているのだろう。

「おーいエリズー?」

 結構な大声でパルテアが呼びかけたので、ササンは度肝を抜かれた。

 図書館では静謐こそが至上価値であるというのが万国に通じた真理ではなかったのか。

 しかし、ひとけの感じられない館内からは、パルテアに対する不満の念が上がることはなかった。本当に誰も入館者がいないらしい。

 そもそも、館内全体が薄暗いように感じられ、ここはただの倉庫ではないのだろうかという気がした。

 少しして、林立する棚の間から、一人の女性が姿を現した。

「エリズ、久しぶり!」

 パルテアは女性に駆け寄り、歓喜の声で話しかけた。

「何しにきたの?」

 エリズと呼ばれた女性のほうは、まったく再会の喜びを表すことなく、見飽きた物に接するように平静とした様子だった。

「久しぶりに会った友達に言うのがそれ? もっとこう、思わず抱擁するとかあるでしょうよ」

「この恰好で抱きついてほしいの? 特殊な趣味ね」

 不満げなパルテアに対して冷ややかに応答するエリズは、埃ですっかり汚れた作業着姿で、飾り気のない出で立ちだった。

 少々茶色がかった長い黒髪を後ろに雑にまとめ、大きいレンズの無骨なメガネをかけている。これがまたいまいち似合っていない。反射する光の加減からして、レンズには結構傷がついているようにササンには見えた。

 しかしよくよく見れば端整な目鼻立ちをしており、パルテアよりわずかに背が高く、パルテアの豊かな体躯に比べて細く締まった立ち姿は、恰好次第で十分絵になるぞとササンは見て取った。

「エリズ、紹介するわ。一緒に働いてる写真師のササン君。わたしね、サヴァーに戻ってきて雑誌を作ってるの」

「雑誌? へえ、パルテアがね。それは所蔵しがいがありそうだわ」

 冷静を保っていたエリズの目に、少しばかり興味の光が宿った。

「ササン君、この子がこの図書館でほぼ唯一の職員のエリズよ」

「ほぼ唯一?」

「見てのとおりのありさまで、利用する人は滅多にいないし、毎日働いてるのはエリズぐらいなのよ。ほかの職員は時々来るだけ」

「資料はサヴァー中から送られてくるから、整理する仕事はいくらでもあるけど、やりたがる人が少ないからね」

 エリズは初めて会うササンに対するにも、まったく調子を崩さない。

「じゃあエリズさんはそういう仕事がお好きというわけで」

「全然違うわ」

 エリズは即座に否定した。

「私は、そういう資料の中から、神話や民話を記したものを見つけたいだけよ。地下書庫にはまだまだ未整理の資料の山があるし、中にはきっとそういうものがあるはず」

 そう言うエリズの言葉には、わずかに熱がこもっていた。

「とまあこのように、エリズはわたしと同じ、サヴァーじゃ数少ない好事家ってわけよ」

「それで二人は仲がいいということなんですね」

「仲がいい? ふふ、どうだか」

「ちょっとちょっとエリズ! 仲よし! なかよーし!」

 抗議の声をあげてエリズに絡みつくパルテア。

 ササンは、まるでタイプの違うこの二人が友人であることの得心がいった気がした。

 サヴァーにはそういう分野に興味を持つ者が非常に少ないとパルテアは言っていた。が、古今を通じて皆無だったというわけではなく、その種の資料も蓄積されてきてはいるのだろう。

 ただ、それを探そうとしたり、あるいは自らが新しい担い手となろうとする者が極端に少ないのだ。

 パルテアは自らが何かを作り出そうとしてサヴァーを飛び出し、エリズはわずかに残された過去の記録を見つけようとしてサヴァーに留まった。互いにとった行動は違えど、その内奥にある関心は共通しており、それによって友情が醸成された、と。

 かみ合っていないようにも見えるやりとりにはそのような背景があったのであり、志を同じくしつつも、互いにもたれあい馴れ合うわけではない。

 そう考えてみると、ササンには目の前の二人がかっこいい大人に見えた。それぞれに似通った目的を持ちつつも、独立独歩でゆく姿。

 身振り手振りを交えて表情豊かに話すパルテアと、その逆に姿勢を崩さず沈着に応ずるエリズという対比は、とても均整の取れた構図として、ササンの感性を刺激した。

 ササンはおもむろに心像機(カメラ)を取り出し、挨拶代わりの他愛ない雑談を交わしている二人を、写真に収めた。

「あっ。ササン君また勝手に撮った」

「いい写真が撮れました。おふたりとも、完成された絵画のように素敵です」

 言われたエリズがほんの少し頬を染めるのをササンは見逃さなかった。


「それで、今日は雑談しに来たの?」

「まったくもーエリズったら愛想がないわね。今日は、ジル・スペクタクルの社史を見に来たの。エリズも聞いてるんでしょ? 長老がらみよ」

 パルテアはエリズの頬をぷにぷにつつきながら言う。エリズはそれには無反応で、

「社史はこっちに固めてあるわ」

 該当の棚のほうへさっさと歩いて行ってしまった。パルテアは「やれやれ、変わってないな」と嘆息し、後を追った。ササンもついていく。

 さまざまな社史がまとめておいてある棚までやってくると、

「ジルはちょっと特殊でね。社史は二つあるの」

 エリズはそう言って、棚から二冊抜き出して見せた。

 一冊は『ジル・スペクタクル四十年史』と題され、ほとんど埃をかぶっておらず、また四十年史というだけあって分厚い。どうやら発行されてから間もないもののようだ。

 もう一冊には、『ギル・オプティシアン十周年記念誌』とある。退色した革張り、使われている書体からしても、いかにも古そうなものだ。こちらはそれほど分厚くない。

「ジル・スペクタクルは、元々はギル・オプティシアンという社名だったわけ。ギル・オプティシアンって名前はちょっと古風な響きだから、たぶん当世風に社名を変えたんだろうと思うんだけど」

「へえー。さすがエリズ。物知り~」

「まあ、自由に見ていって。私は書庫にいるから、用があったら声かけてちょうだい」

 エリズは近くの閲覧席に二冊を置いて去って行った。社史を置かれた古ぼけた机がギシリと音を立てた。

「ジルが社名変えてたとは、知らなかったわね」

 パルテアは席に座り、『ギル・オプティシアン十周年記念誌』のほうを手に取った。ササンは向かいの席に座る。

「創業者なんだから、こっちよね」

 最初のページに「十周年を記念して」と題された一ページの挨拶文があった。著者はギル。ギル・オプティシアンを創業することになった経緯と、この十年、順調に事業をおこなってこれた旨が書かれていた。

 ページの隅にバストショットの写真があり、これが創業者・ギルであるようだった。現代に比べるとかなり像が粗い写真だが、顔は十分わかる。なかなか美丈夫の中年男性で、精悍な印象だ。

「これがジルの長老が見たという人になるわけですか」

「そういうことね。写真撮っておいて」

「はい」

 ササンはギルの顔を写真に収めた。

 その後のページを見ていくと、ギルのプロフィールが書かれていた。

 ギルはメガネ部品に使われる鉱石掘りでもあったという。ギルは、緑柱石などの良質な鉱脈を発見し、そこから得た利益を元手に自社を設立。社名をギル・オプティシアンとした。

 オプティシアンというのは、最近は使われなくなった言葉だが、要するに「メガネ屋」という意味だ。「レンズ屋」の意味もある。スペクタクルも同じ意味で、こちらは現代でもよく使われる。「当世風にしたのだろう」というエリズの推測は当たっていそうだ。

「でも、ギルをジルと変えるのはどんなもんかしらね? 確かに同じ綴りでそういう発音をすることはあるし、ギルという名前にはちょっと時代を感じるっちゃ感じるけど、個人名までいじっちゃうなんてね」

「そうですねぇ。ブランドとして定着してたでしょうに」

「ね。しかし緑柱石か……さすがに時代が時代だわね」

 パルテアは背もたれに体を預けて嘆息する。

「緑柱石というのがメガネに適してるんですか?」

「レンズの材料として昔はよく使われていたらしいわ。昔っても、本当に大昔のことで、このギルのころだって一部の人が趣味で使っていただけのはずだけど。緑柱石ってのは、淡い緑色の石で、それがこのあたりでよく採れたからサヴァーができたって話……だったと思う」

「へえ。となると昔のメガネは緑色だったんですか」

「いまでもレンズが緑の人はたまにいるけど、当時はもっといたんでしょうね」

「ほう。つまりサヴァー市民は人を色眼鏡で見るという伝統が」

「喧嘩売ってる?」

「滅相もない」

 パルテアとササンは互いに名状しがたい表情で笑い合った。

「あ、そうそう。サヴァーの祭りでは仮装行列をするんだけど、その定番の衣装に、緑色のレンズが嵌め込まれた仮面があるのよ」

「緑柱石あってこそサヴァーが栄えたんだぞ、というわけですね」

「そう。もっとそこの、文化的な意味づけというか、そのレンズの色がもたらした社会への影響とか、そういうことも語られるべきだと前から思ってたの。そうだ、それも記事に書こうっと」

 パルテアはメモ帳を取り出し、ペンを走らせた。

 そこへ、エリズがやってきた。手には書類の束を二つ持っている。

「あら、どうしたのエリズ」

「さっきのジルの社名変更の件、ちょっと気になってね。当時の組合の会合記録を探したら、おもしろいことがわかったわ」

 エリズはパルテアの隣に座り、書類を繰った。

「まずは、その十周年記念誌が出た翌年。ギルが行方不明になったというので議論になってる」

「行方不明ぃ? 翌年ったら、まだまだ順風満帆でしょ?」

「別に経営状態の悪化で遁走したわけじゃないわ。原因ははっきりしてない。ギルは変わらず鉱石掘りもしていたんだけど、ある時からぱったりやめてしまって、ひたすら自分用のメガネ作りに没頭していたらしいわ。そして、それが完成したと思しきのちに……」

「消えちゃったと」

「そう。それで結局見つからず、新しい代表を立てることになった。その経緯がこっちの議事録に載ってる」

 エリズはもう一つの書類の該当箇所を見せ、続けた。

「で、ギルという名前を不吉に思ったか、社名を変えようとしたけど、ブランド維持も考慮して、発音を当世風にしたという体裁をとった、と」

「ふーむ。爺さんがギルを見たってんで大騒ぎするのもわかるほどの事件ね。ざっと四十年ほど前に失踪した人が、昔のままの姿で現れた――少なくともそう見間違えるほどの人を見たわけだから」

「没頭していたというメガネ作りは失踪に何か関係あるんでしょうか?」

「う~ん。何かに取り憑かれたようになっちゃうってのは、職人仕事ではありそうなストーリーだけど……。どうなのかしらね? そもそもサヴァーではその手の話聞いたことないわ。エリズ、そういう伝説とか逸話なんてあるもの?」

「そういう話が簡単に見つかれば苦労も退屈もない人生が送れたでしょうね」

「だよねー」

 パルテアは苦笑してエリズの肩をぽんぽん叩いて慰めた。

「一応ジルの爺さんにインタビューしてみましょうか。昔のことすぎて憶えてないかもしれないけど。ってことでエリズ、」

「何?」

「暇な時でいいからササン君を工房まで連れて行ってくんない?」

「えええ? ぼくがインタビューするんですか?」

 ササンは机に身を乗り出した。

「自信ないですよ」

「だいじょぶだいじょぶ。別にそんなハイクオリティ求めてるわけじゃないから! 書きたい原稿が溜まってきてるから、私はそっちに時間かけたいのよね」

「というのは言い訳で、本当は工房に近寄りたくないんでしょう?」パルテアの目が泳いだのを見逃さず、エリズは鋭く指摘した。

「うっ」

 痛いところを突かれてパルテアはうなだれる。

 工房に行けば、両親との遭遇との危険のみならず、工房の連中からやいのやいの言われる可能性があるのだ。

 カイチに「工房に写真を見に来い」と誘われたときに挙動不審になっていたのは、そういうわけだったのだろう。

「パルテアさん……」

 ササンが不満を表明しようした矢先、

「まあ、いいわ。請け負いましょう」

 エリズは嫌みの一つも言わずあっさり引き受けた。

 ササンは感心してしまった。これが友情の為せる技、いや友情を成す技か。それともエリズが単に会話に無頓着なのか。

 いずれにせよ、この清々しさは、人を冷たくあしらいがちなエリズが、パルテアに好かれるわけであるのだろう。

「うう~エリズぅ~愛してるー」

「気味が悪いこと言わないで」

 パルテアはエリズに愛の抱擁を迫ったが、エリズは淡々と退けた。

「でもカイチさんからパルテアさんのご両親に何か情報が行ってしまうのでは?」

「カイチはそこまではお節介じゃないからだいじょうぶ。……と思う」

 自信ありげだったパルテアの声は、最後でしぼんだ。

「会ってきたの?」

「さっきね。ちょっと雑談を」

「不用意なことするのね」

 冷ややかに言うエリズ。

「だって仕事が……。ま、まあ、面倒なことになったらしばらくサヴァーから行方くらますから、そのときはよろしくねササン君」

「ええー。無茶をおっしゃる」

「はい、この話題終わり終わり! エリズ、最近なんかおもしろい噂ないの?」パルテアは強引に話を逸らした。

 そんなに恐ろしい両親なのだろうかとササンは不思議に思ったが、聞かぬが花だろうか。

「噂。そうね。前の祭りのことで、ちょっと話題になったことがあるわ。艶話なんだけど」

 冷厳なるエリズさんも噂話はちゃんとしてるんだな……、とササンはひそかにサヴァー人の生態に思いを馳せた。

「祭り中じゃ珍しくもないじゃない」

「それが、男のほうが相当なやり手だったというか、まあ美男だったんでしょうね、祭りの期間中かなりの数の女性をものにしていて、しかも女性が金品を差し出してしまうほどの魅力だったというの」

「お金までとられてたんじゃ、結構な事件じゃない」

「でも、当の女性たちは満足げでね。なぜそこまで入れあげてしまったのかはわからないけど、恨む気持ちは湧いてこないのだそうよ。だから『祭りによくある話』で済んでしまっているというわけ」

「なんともすごい男ですね……」

 色恋にまったく経験がないササンには、想像しがたい事態だ。

「ササン君もそれぐらいになれるよう努力することね」パルテアが茶々を入れる。

「パルテアさんにだけモテればぼくは本望です」ササンはすばやく言い返した。

「んなっ」

 パルテアはガタッと椅子を揺らした。心も揺れていた。

「あら素敵な告白ね」

 エリズは淡々と論評する。

「それで話の続きは?」

 パルテアの動揺を意に介さず、ササンはエリズを促した。

「こんにゃろう」

 パルテアは机越しにササンの鼻をしたたかに引っ張りあげた。ササンはふごふごと苦悶の声を漏らす。

 エリズは、二人のささやかな喧嘩を気にすることがない様子で続けた。

「その男は、女性たちの間では『仮面の君』と呼ばれていたそうよ。仮面自体はありふれたものだったらしいけれど、神々しいほどの魅力があったんですって」

「『仮面の君』って……なんか恥ずかしいわね」

「さらにおもしろいことに、祭りの後も、その『仮面の君』はたびたび現れては女性を虜にしているらしいわ」

「その場の雰囲気に流されて、だけではないというわけね。ふーむこれは事件のにおい……。エリズは逢ってないの?」

 パルテアはにやつきながらエリズの肩をつついた。

「祭り行ってないもの」

 エリズは表情を変えることなく簡潔に事実を述べる。

「そういうとこ変わってないのね……」

 残念。そういう話に縁がなさそうなエリズの、稀に見る恥ずかしいエピソードがあったらおもしろかったのに。

「もったいないですねえ。エリズさん、華やかな仮装したらきっと祭りで大人気ですよ。ぼく、写真に撮りたいです」

「わたしもこの子は磨けば光ると思ってるんだけどね。何度誘っても来ないのよ」

「では、せめてここで髪とか整えて一枚! パルテアさん、エリズさんのために替えのスタイリッシュなメガネを!」ササンは心像機(カメラ)を構えて意気込んだが、

「持ってねーよ!」パルテアは即座にはねつけた。

 その時、二人の掛け合いが可笑しかったのだろう、エリズが表情を崩し、本当にかすかに、微笑んだ。

 無論ササンはシャッターボタンを押していた。



「じゃあこれ、会社の住所だから。よろしくね」

 図書館の出口で、パルテアはエリズに紙片を渡した。

「あとこれ、ありがとね」

 パルテアの手には、クーシュが作っていたというミニコミ誌があった。

 そういったものが寄贈されてくるのは珍しいとのことで、エリズがよく憶えており、すぐに見つけることができた。

 館内でぱらぱらと眺めたのだが、止まらなくなりそうだったので借りて帰ることにしたのである。というのは、おもしろかったからというのもあるが、『ケモノ道大全』を見たササンが、写真を撮りに魔宮へ踏み込むべきか否か、煩悶が止まらなくなりそうだったのである。

「エリズさん、当日はよろしくお願いします」

「構わないわ。何か変わった話が聞けるかもしれないしね」

「そうよね」

 面倒事を避けられたものだからパルテアはすっかり上機嫌だ。

「エリズ、ササン君が喜ぶから、おめかししてきてね」

「そんなサービス精神も服も持ち合わせていないわ」

 ササンは恐縮した顔をしていたが、エリズの答えを聞き、内心残念な思いだった。しかし今後チャンスはあるであろう。じっと我慢が肝要だ。




 図書館を出て会社に戻った。

 それからエリズとの約束の日までは、ひたすらに刊行のための準備の日々だった。

 小さい雑誌とはいえ、いろいろとやることがある。

 原稿執筆や写真の選別はもちろんのこと、作った雑誌を置いてもらうために、いろんな店にお願いして回らなければならない。流通ルートは自分たちで開拓するのだ。

 この点では、クーシュが活躍した。以前に同様のものを作っていて、それなりに評判もよかったからである。店の人たちの覚えもよく、つつがなく挨拶回りをすることができた。

 そのほかにも、機材調達や印刷の手配など、八面六臂の働きだった。

 ササンには、この時ばかりは背の低いクーシュがとても大きく見えたものだった。

「クーシュには感謝感謝だね。すごい人脈だよ」

「ニャッフッフ。尊敬しましたかニャ?」

「猫族の誉れ高き才媛クーシュさん! 晴れやかな笑顔お願いします!」

「ニャッ☆」

 すばらしい笑顔を写真に収めることができた。

「公道でやるのやめなさいねあなたたち」

 挨拶回りの帰り道、パルテアはげんなりした様子で言った。ここ数日、こういったやりとりを何度もしているためだ。ササンたちは飽きずにやっているが、パルテアはうんざりしていた。

「あっ」ササンが突然声を上げた。

「何よ」

「い……いまの人、なんかメガネがこう……生っぽくなかったですか?」

 通りすがった人をこっそり指差しながら、ササンは小さい声で言う。

「生っぽいって……あれは骨よ。フレームが動物の骨でできてんの」

「骨! 骨ときましたか。さすがサヴァー。すごい。で、骨にすることにどんな意味があるんです?」

「むずかしいこと訊かないでよ」

「いつもむずかしいこと記事に書いてるじゃないですかー」

 こんなやりとりも日常茶飯事になっていた。

 ところが今日は、クーシュがとんでもないことを言い出した。

「たまにはゲテモノ屋台でも冷やかして帰りますかニャ?」

 パルテアとササンは一瞬硬直した。

「ぼ、ぼくは明日エリズさんと取材なんで、今日は早めに寝たいですし、パルテアさんどうぞ」

「ササン君……そういう逃げ方するか」

「いやー残念です。いやほんと取材さえなければなー」

 パルテアの頬がひくひく引きつっているのがササンの視界に入ったが、気がつかなかったことにしたのは言うまでもない。

「見た目は悪いけど、結構おいしいと思いますニャ。ほら行きましょニャー」

 パルテアはクーシュに強引に連れられていった。どうやらクーシュは思いのほか力持ちでもあったようで、パルテアの抵抗はむなしいものとなった。

 ササンは、隘路に消えゆく二人の姿に、深い祈りを捧げた。


 その後、パルテアがまともに原稿を書けるようになるまで、数日を要した。

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