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メガネ神話紀行  作者: 北条三蔵
第1章
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メガネと出会い

 明るい色のケープをまとった、編み上げブーツのすらりとした女性が、船の甲板に立っていた。

 船は晴れた湖をゆったりと進んでいる。

 船室から甲板へ出てきたところでその女性をみとめた旅装コートの少年・ササンは、あざやかな陽光の中、手すりにもたれて立つ彼女の姿に、しばし見とれた。

 ケープと同様に明るい色の長い髪が、風に揺れている。さわやかな水音と輝く飛沫が、華を添えていた。

 ササンは思い立って、背嚢から心像機(カメラ)を取り出し、女性に向かって構えた。

 揺れる船の動きに呼吸を合わせる。

 ――良い写真を撮るには、まず撮影者の身体が据わっていなければならない。そして、太陽がもっともよく女性を輝かせる瞬間を、辛抱強く待つことだ――。ササンは、つい先日まで写真師学校で教えられていたことを、今一度反芻した。

 シャッターボタンに指を添える。

 あたりにはやわらかな水鳥の鳴き声と、進む船によって割られていく心地よい水の音がしているが、ササンの耳には次第に届かなくなっていった。

 彼女を世界の中心に置き、自らはまわりの風景に溶け込んで、意識を平らかにする。

 わずかにあった雲が切れ、完全な青空のもと、少しだけ強い風が女性の髪をなびかせた。

 すぐに風はやみ、浮かび上がった髪が、その一瞬でしか存在し得ない空中で、動きを止める。

 いまだ。シャッター。

 その瞬間、彼女がすばやく振り返り意地悪く微笑んだ。

 ササンがうひっと声を漏らす間に、彼女はつかつかとササンのもとへやってきて、

「だ~れに断って写真撮ってんだこのガキはー」

 言いながらササンの頭をがしっとつかみ、こめかみに拳頭をぐりぐりとねじ込んでくる。

「おおうおおおうすみませんすみませんつい見とれてしまいましてああおうとってもきれいだと思ったんでうへふ写真に収めろと神の啓示がうひひいきっと誰もが美を形容するのにあなたを例に挙げうよよよおうおうおう」

 ササンは彼女の邪悪な笑みに見下ろされぐりぐりされつつも、必死で言葉を並べた。

 写真師たるもの、被写体の魅力を最大限引き出すべく、多様な語彙でもって褒めそやし、気分よく写真に写ってもらえるように気を払わなければならない。もちろん、いいかげんな言葉を並べ立てるのではなく、本心からの言葉によってである。

 まして相手が魅力的な異性となれば、そこにあるべき「誠意」は親への忠孝よりも深くなくてはならない。

 写真師学校初等課程、「被写体倫理概論」の教えである。

 熱く語る講師の姿を思い出しながら、ひとしきりじたばたと褒め言葉を乱発したところで、ようやく解放された。

「まったく、写真師ってのは口が回るわね。子供のくせに」

「いえ、本当に、きっといま人生で一番大事な瞬間が目の前にあるんだって、思ったんですよ」

 ササンはこめかみをさすりつつもさらに言葉を継ぐ。

「もういいってば。恥ずかしくなってくるでしょ」

 さらなるササンの言葉に女性は少し顔を赤らめ、むこうを向いてしまった。

 ササンは、けっして酔狂で言っているのではない。

 邪な心をもってシャッターを切れば、相応の写真が出来上がる。他者が感動する写真を撮るためにはまず己が感動せよ、と教えられてきた。

 お仕着せの美的感覚や、被写体への思い入れの軽薄さは、必ず写真に悪い影響を及ぼす。単に光を記録しているのではなく、「心に抱いた像」を画として結んでいるのだと思え。その心象の繊細さ次第で、写真を見る者に伝わる現実味と、情感の精彩さに差が出る。ゆえにこの機械は心像機(カメラ・エティーラ)と呼ぶのである――ということは、どの授業においても強調されてきたことだ。

「どうも失礼しました。ぼく、ササンといいます。フォクシーの写真師学校の中等課程を終えたばかりです。そちらはご旅行ですか?」

 心像機(カメラ)を仕舞い、頭を下げて自己紹介するササン。

 女性は軽くせきばらいして、ササンのほうに向き直った。かつっと踵が鳴る。まっすぐ立つと、ササンよりも頭半分ほど背が高い。

 先ほどは気づかなかった豊満な胸に思わず視線が行きそうになる。

「フォクシーか。結構大きな町から来たのね。わたしはパルテア。この船の行き先、サヴァーの出身よ。今日は久しぶりの里帰りなの」

「そうでしたか。やはりメガネ職人のお家なんですか?」

 サヴァーはメガネ職人の町である。

 山がちな土地で、昔から、レンズをはじめとしたメガネ部品の材料に適した鉱石が豊富に採れた。次第に職人が集まるようになって町ができ、いまや多種多様なメガネを各地に送り出す、一大生産地となっている。

 サヴァーでは、現代的なメガネのみならず、視力矯正という目的をもはや達せないような、伝統的・中世的なメガネも作られ続けれており、日常的に着用している者さえいるという。

 それは独特のファッション文化ということもできるだろうが、サヴァー市民は、そういった文化的な面を町の外に知らしめようという気質を持たないため、実のところそれが本当にファッションなのか、ほかに何か目的があるのか、あまりその実情は知られていない。

 観光業が発達しておらず、メガネの商売に関わろうとするのでなければ、外から人が流入してくることは多くないため、余計に知られる機会が少なくなっている。

「わたしの家は職人の家系じゃないわ。だけどサヴァーってところは町中が職人気質でね。それが嫌になって、両親の反対を押し切って飛び出したの。戻るのはそれ以来ってわけ」

 それを象徴するかのように、パルテアはメガネをかけていなかった。

「なるほど、お名前にちょっと異国の響きがありますし、なんというか、ぴったりという感じがしますね」

「そう? そんなこと言われたの初めてだわ。そっちはどうしてサヴァーに?」

「ぼくの通っている写真師学校は、中等課程を終えると、最低半年は実地研修に出なけりゃならないんです。今回、サヴァーで募集してる出版社があったので……」

「……出版社? 見習い? んんー?」

 パルテアは腕組みして考え込んだ。

「どうかしましたか?」

 何かおかしいことを言っただろうかとササンは今しがた自分が言ったことを思い出してみたが、思い当たることはない。

「えーっと、もしかしてその出版社、パーランダって名前?」

「えっ。えっ。どうしてそれを」

 見事言い当てられたことにササンは驚嘆した。やはり自分は知らない間に何でもぺらぺらしゃべっていたのではないかという気がしてきた。写真師の業だろうか、時々記憶にないほど口が滑っていることがある。

「やーその……わたしが今回里帰りしたのは、その会社に招かれてのことなんだよね。わたしのほかに見習い写真師がひとり入るからって聞いてて」

「招かれてって……」

 ササンが学校でもらった研修受入リストから見つけたパーランダ社は、創立されたばかりの、個人経営の小さな出版社だった。

 サヴァーの町のニュースや文化を紹介する、ミニコミ誌だかタウン誌だかを創刊するという趣旨で立ち上げられた会社であると、ササンは聞き及んでいた。まだ一号も出ておらず、ゼロからのスタートに参画するということになる。

「てことは、パルテアさんは編集者か作家さんなのですか?」

「つい最近まで、『ハラキリ』ってところで編集兼ライターをしてたわ。兼というか、ほとんどライターだったけど」

「ええーっ」

 雑誌『ハラキリ』は写真師志望者にとっては憧れである。毎号の表紙を飾る熱のこもった写真に感化されない写真師学校生徒はいない。

 そして、それに負けない筆致の記事は熱狂的なファンを獲得しており、たとえファンでなくとも誌名は知っている人が少なくない。

 小部数であることも手伝って、バックナンバーに大変な高価がつけられることもある。

「え、ああ、おおお会いできて光栄です」

「そんなたいしたこっちゃないわよ。固定ファンが結構ついてくれた雑誌ではあるけど、小さいしね。わたしが書いてたのはコラムばっかりだし」

 パルテアは苦笑するが、ササンはすっかり恐縮して、ここは握手を求めるべきだろうかと煩悶し、挙動不審になった。

「し、しかしなぜそれを辞めてパーランダに?」

 しどろもどろになりつつ、ササンは問いかける。

 故郷を飛び出し、立派な雑誌の仕事をするまでに至ったのに、いくら里帰りとはいえ、できたばかりの零細出版社に転職するというのは、いったいどういうわけだろう?

 将来、誰もが知るような有名雑誌の誌面を自分の写真で飾ってみたいと夢想していたササンには、到底想像がつかなかった。もしササンが『ハラキリ』で働けることになったなら、クビにされるまでそこにいただろう。

「まーそれは、話せば長くなるような、そうでもないような事情があって……」

 パルテアが言葉を濁したその時、船の警笛が甲高く鳴った。

 目的地が近いことの合図だ。

 二人が船の先に目線を移すと、小高い山の大部分を家々が覆い、その家々の上にまた家々が積み重なって建つ、壮大にして混沌とした町並みが見えてきた。

「相変わらずいいかげんな町だわ……」

 パルテアがぼそりとぼやいた。



 サヴァーの基礎を築いた初期の住民である職人たちは、メガネの製作以外にはまったく無頓着であったらしく、新しく家を建てようというときに、古い空き家を土台にして、その上に建ててしまうことがしばしばあった。

 危険ではないかという声もないではなかったが、「こんな山に家を建てるのは大変なんだから、下の家が平らな土台になってくれて便利じゃねーか」という、あやしい説得力によって、家の上に家が建つありさまとなった。いや、実際には、きちんと整地してから建設されたといわれているが。

 理由はともあれ、度重なる増改築が為され、下の家との通路を作ってしまう者も現れ、さらには近隣の家ともつながってしまい、家と家との境目はより混沌とし、迷い込むと出られなくなるとさえいわれる。それはさながら、山の地上と地下とにわたって作られた巨大な蟻の巣のようであった。

 パルテアも幼少のころ古い家の「層」に入り込んでしまい、さんざん迷った挙句ようやく出られたと思ったら、そこはまったく見たこともない町の外れであり、泣き叫んで一騒動となったことがある。

 一応、そういう事態も想定して、町中に住所標示や地図、指定公用道路が設置されており、それに従えばどこかしら見知った場所に出られるのだが、幼いパルテアにはまだそれがよくわかっていなかったのだった。

 パルテアにとって、そんな「迷宮」が日常にあることは、楽しいことも多かったが、サヴァーが嫌になる理由のひとつだったかもしれない。


 パルテアはやれやれといった様子で町を眺めていたが、ササンにとっては刺激的な光景であり、ふたたび心像機(カメラ)を持って、あれこれと立ち位置を変えては町の姿を撮影していた。

「いやー実際に見るとすごいですね! まさに家の山だ! いや、家の塔かな?」

 ちょこちょこ動き回りながら歓喜の声を上げるササン。その様子が可笑しかったらしく、パルテアの表情がほころんだ。

 その表情を横目に捉えたササンは、思わず「きれいだなぁ」とつぶやいた。

 故郷の風景にあまり良いイメージのないパルテアは、

「えー? あの町が?」と呆れて言った。

「いえ、パルテアさんがです」ササンは真顔で返す。

「っ。……だーかーらー、そういうのやめなさいって、ばー」

 パルテアはササンの髪の毛をわしわしと引っかき回した。

「あうあう。すみません。つい」

「悪い気はしないけどさ。なんかむずがゆくなってくるのよね」

「写真師の性ということで、どうか寛大な心でお許しを……」

「しょうがないわねーまったく。ま、ブリッジよりは広い心で受けとめてあげるわ」

「ブリッジ?」

「メガネのレンズとレンズの間にあるやつよ」

「ああ、なるほど。しゃれた言い回しですね。さすがサヴァー出身。………………もうちょっと広くなりませんか」

 ササンは、メガネの眉間部分の、ほんの指一本分ほどの幅を想像し悲しくなったが、「いやいやそれよりは広いということなのだから、可能性は無限大だ」と善意に解釈することにした。

「ま、とりあえず。同僚ってことよね。これからよろしく」

 パルテアが手を差し出す。

「はい。いきなりこんなプロの方とご一緒できるなんてツイてます。よろしくお願いします」

 ササンは恐る恐るパルテアの手を握った。

 それだけで、自分が少し高いレベルに至った気がしてくるから不思議だ。

「サヴァーは見てのとおりのごちゃごちゃした町よ。人種も雑多。慣れないことも多いだろうけど、作るのはリトル・マガジンなんだし、肩肘張らず楽しくやりましょ」

 リトル・マガジンか、出版史の授業で習ったな、とササンは思い出す。

 詳しいことは忘れてしまったが、要するに、好き放題の内容で出版する極小部数の雑誌だ。

 ほとんどが個人経営であり、財政が潤沢であることは滅多にない。趣味全開の内容からして、大きな売上も当然期待できない。ただ「形にしてみたい」「世に出してみたい」という、至極単純な欲求から来る出版形態だ。

 それにしては、編集者一人に写真師(見習い)一人を外から雇い入れるとは、パーランダ社は人員多めだなとササンは思ったが、スポンサーが道楽家なのかもしれない。まあ、行ってみればわかるだろうと、ササンは深く考えないことにした。こっちは研修の身だ。

 そういえば、パルテアさんがなぜそのリトル・マガジンなんてものをやる気になったのか、聞いてなかったな。

 考えている間もなく、船は港に到着した。

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