⑫スクランブル交差点
僕の中に微かに残る、鈍い痛みが何だったのかさえ今では思い出せないけど、僕の小さな分身が、愛くるしい笑みを見せ、つい顔を綻ばせる。
軽快な音楽が鳴り、一斉に横断を始める。前から歩いて来る女性に、僕は何故か、目を奪われてしまう。
振り返り見ると、その女性もこちらを見ていた。
音楽に急かされ渡り切ってから、また振り返る。
「あの人が、どうかしたの?」
いやっと言って、僕はにっこり微笑んで、何でもないと答える。
「浮気はダメだからね」
「しないよ。するわけないだろ。ただ、どこかで会った気がしたからさ」
「ほら~。危険危険」
「危険って」
ケラケラと笑いながら、僕ら夫婦は歩いて商店街に向かって、歩いて行く。
「鈴美、どうかした?」
「うん。さっきの人、どこかで会った気がしたんだよね」
「患者さんじゃないの」
「そうかな?」
「あ、やばいよ。急がないと電車に乗り遅れちゃう。急ごう」
「やっば~。婦長に怒られる~」
二人連れの女性は横断歩道を渡り、駅に向い小走りで去って行く。
――そして、
「もう、10年経ったんだね」
「美耶子、最後に笑っていたな」
「きっと良い夢を見てたのよ」
真っ青なその空にのぼる煙を見上げながら、パパとママはそんなことを話していたから、私は、うんとあの日も答えた。
ママ、私恋をしたんだよ。飛び切りの恋。
その人の思い出があれば、もう一人でも寂しくないよ。
ねぇヒナタ。あなたの記憶には私はもういない。けどいいんだ。私の中にはあなたがいるから。
バイバイ。
ひらりと蝶々が鮮やかな羽根を広げ舞う。
「あら」
妻の声に僕は足を止める。
「綺麗な蝶ね」
「アゲハチョウか。今時分に珍しいなぁ」
そして、またゆっくりと歩き始める。
遠い日、僕は忘れたくない恋をしていた。
微かに残る雨の湿気た臭いと、切ない痛み。
改札を抜ける。
無数に残った傷跡。
生きて行こうと強く思えたあの日。
あの夢が私を救ってくれた。
僕は、
私は、
きっと、あの春の日、恋をしていたんだと思う。
(おわり)
街はいろんなものが溢れています。それぞれの思いを抱えて行き交う人を、その少年はびくとも動かずに、ずっと先を見詰めていました。
ポツリポツリと降り出した雨。やがてその粒は大きくなり、誰の足も早まって行きます。
それでもその少年は、真っ暗になってしまっている道の先を見つめたままなのです。
彼にどんなことがあったんだろう。そんな事を思いながらふと浮かんだ物語です。
それから彼を見かけることは有りませんが、道の先に素晴らしいものが見つけられたことと信じて、この物語を一先ず結ぼうと思います。




