1. 9月16日 謎を見つけた月曜日 前編
元名探偵と名乗る少女、東浦明と彼女の率いる「ミスド」を巡る日常系の推理小説。
主人公の川井は生徒会役員。
と言ってもクラスメートに半ば押し付けられた格好で本人はあまり乗り気でない様子。
でも、彼には生徒会役員以外のもう一つの顔があって……
1
これから歩むであろう人生を学生ながらに大雑把に俯瞰してみると、我々の行く道の先にはいくつかのイベントがあることがわかる。入学、進級、就職。もちろん人の一生なんて千差万別なのだから、この他にも様々なイベントがあるだろう。その内の一つ、恋愛。
俺は右手に持った封筒を見つめる。封筒。この封筒が曲者なのだ。
日付は九月十六日、時刻は七時三十分を回ったところ。場所は日本某所にある私立清鳥高校。下駄箱と下駄箱に挟まれた狭い通路。早朝だからか、俺以外の生徒の姿はない。
生徒会の朝の定例会に参加するため早めに登校して来たのだが。
右手の封筒に再度目を落とす。下駄箱を開けると、俺の上履きの上にこれが乗っていた。
どこにでもあるような白の洋形封筒。裏面の宛名の欄には川井相馬様――俺の名前だ――と書かれており、表面の蓋は真っ赤なハートのシールで封がしてある。シチュエーションとしては出来過ぎである感が否めないが、もしかすると、もしかするかもしれない。俺は「落ち着け」と心のなかで唱えながら、目を瞑る。
落ち着け、俺は名探偵だ。名探偵はどんな時でも冷静に、事態を分析しなければならぬ。
耳の奥で規則正しくドクドクと鳴っているこの音は、心臓の鼓動音か血の流れる音か。
とにかく、状況を整理しろ。俺は早朝に登校してきた。上履きに履き替えるために靴箱を開けたら、そこに封筒が入っていた。何やらハートマークのシールとかも付いてる。もしかすると、これは俗にいうラブレターという奴ではなかろうか。
「なーにしてるのっ」
突然、離れた場所から、聞き慣れた声が聞こえた。
「……何しているように見える?」
俺はさり気なく、封筒を制服であるブレザーの内ポケットに仕舞う。
「んーとね、靴箱の中を確認したらラブレターが入ってて、驚いている中学生に見えたかな」
顔を上げ、声がした方に顔を向ける。声の主は新見陽代子だった。
靴箱のすぐ側に置かれた簀子を通って、昇降口側からまっすぐに、こちらに向かってくる。
服装は学校制服。赤と白にネイビーの線が走っているプリーツスカート。白のブラウスに、スカートと同じ色彩のネクタイ。グレーのセーター。清鳥高校の夏服である。
毛先がクルリとまわるショートボブは薄い茶色――彼女曰く地毛――で、左耳の上辺りにつけているヘアクリップには、控えめなサイズの黄色の花飾りがついている。早朝の寒さ故か頬は少し赤いが、ニコニコと屈託なく笑う様から人の良さがにじみ出ている。
「高校生、の間違いだろ?」
「初々しさも含めて、ってことだよ」
さようですか。
「それにしても、名探偵さんにもついに春がやってきたんだねー」
「他のやつらには言うなよ? 絶対だぞ」
「わかってるよー。ああ~恥ずかしがる川井くんもいいよ~」
そう言いながら、陽代子は顔に手をあて、ブンブンと首をふる。
「聞こえてるんだが……」
「それが何か?」
て、手強い……。
名探偵。世界のありとあらゆる謎を解く、探偵の中の探偵。そう、俺は名探偵だ。学校に通いながら様々な難事件を解決……する予定の名探偵だ。助手のワトソンも、ライバルの怪盗もまだ居ないんだが。
陽代子はこの学校で、俺が名探偵であることを知る数少ない人物だ。時々変なところでスイッチが入ることを除けば、いい奴である。もちろん、口止めはしてある。ウチの学校に極悪非道の犯罪者がいると考えたくはないが、もし居るとすれば、そいつが俺を名探偵だと知れば始末しにくるかもしれないからな。
……それは冗談だとしても、こういうことは無闇にバラすことではない。わざわざ尋ねられてもいないことを答える必要はない。変に波風が立つのは避けたいのだ。名探偵でも。
「手紙、誰からだったの? ああ、教えたくなければ教えてくれなくてもいいんだけど」
陽代子は俺を追い越し、振り返って尋ねる。
「まだ開けてねーよ」
「あ、そうなの? 誰からにしても、付き合うなら誠実なお付き合いをしなきゃダメだよ。一応、生徒会役員なんだから」
「お前も生徒会役員なんだし、その変な癖は治したらどうだ」
「無理だよー。だって川井くん、かわいいもん」
陽代子は歩きながら、言う。いつものことながら、こいつの「かわいい」という基準はよく分からん。犬猫小動物はともかく、新車やボールペン、この前は消しゴムにまでかわいいと言っていた。本人は「初々しいからかわいいの」と言っていたが、近所の公園にあったボロボロの滑り台にもかわいいと言っていたし、本当は大した基準なんてないのだろう。
廊下まで行くと歩みを止め「そんなことよりさ」と陽代子は俺に呼びかける。
「そろそろ行こうよ。定例会、始まっちゃうよ?」
「……それもそうだな」
こんなところで油を売ってる暇はないのだ。生徒会が主催する毎朝の定例会。生徒会役員である俺はこれに参加するために、わざわざこんな早い時間に登校してきたのだから。
「行くか」
俺は開けっ放しにしていた靴箱を閉めた。木製の靴箱の蓋は、バタンと重い音を立てて閉まる。俺は廊下に向かって歩き始めた。陽代子は俺が追いつくのを待って、隣に並ぶ。行き先は生徒会室だ。階段を登り、廊下を歩く。数分して生徒会室に着くと、そのまま朝の定例会に参加した。会長や副会長などの挨拶からそれぞれの局への通達、連絡事項。時間にして約三十分。やることはいつもと同じだ。俺はぼんやりとその光景を眺めながら、考える。
手紙の差出人は一体、誰なんだろう。
2
午前中の授業も何の問題もなく終わり、昼休み。今ならたっぷり時間はある。
「さて」
俺は机の中から封筒を取り出す。胸の鼓動を抑えながら、改めて観察する。何の変哲もない洋形封筒だ。裏面の「川井様」という宛名以外は何も書いてない。真っ白だ。重さはほとんどない。軽い。厚みもない。宛名以外の特徴と言っても封をしてあるシールぐらいしかない。りんごのような真っ赤な色したハート形だ。まったく、目に悪い(精神的にも悪い)色である。
目を瞑り「ふう」と呼吸を整える。
ここまで来たのだ、覚悟を決めよう。慎重に、シールを破いてしまわないように、封を開け中身を取り出した。一枚の紙。折りたたまれているため、内容は分からない。とりあえず、開けてみよう。
「なんだこれ……」
紙に並んでいる均等で無機質な文字から察するに、どうやらこの手紙はパソコンか何かで作られ印刷されたものであろうことが推測できる。問題は内容だ。
『川井様の入部を認めるかどうかのテストをおこないます。放課後、部室に来てください。 ミスド』
川井、という部分はインクのにじみ具合からして、手書きらしい。だが、問題はそんな所ではない。
「……なんだこれ」
再度、黙読。再再度、黙読。
三度読み返しても、手紙の内容に変わりはなかった。俺の予想していた「付き合う」とか「恋人」とかいう言葉はひとつもなく――いや、まあ、年齢=彼女いない歴の俺にラブレターが来るなんておかしいとおもったけども――手紙には、ただただ入部だのテストだの訳の分からない言葉が並んでいる。
まあ、何だ。つまりラブレターではなかった、と。
力尽き、机に倒れこむ。
「おい、川井が倒れたぞ!」
「頭から行ったな~」
そりゃそうだよな。スポーツができる訳でもない、面白い話ができる訳でもない、部活に入って活躍してるでもない。そんな男に誰がラブレターを出すんだよ。
「あ、あの。川井くん、大丈夫? これ食べて、元気出してよ」
「お、新見が行ったぞ」
「駄目だな。まったく聞こえてねえよ」
そもそも何で男女共学の学校に入ってしまったのだろうか。「ああーこれだけ女子がいるんだから彼女の一人ができるかも」とヌルい考えで入学を決めた去年の八月の俺を蹴飛ばしてやりたい。「試験も楽勝だったし、これで三年間の男子校生活ともおさらばだぜ!」と呑気な考えで春休みを謳歌していた二月の俺をぶん殴ってやりたい。
だいたい、何だよこの手紙。この文末の「ミスド」って何だよ。あの有名なドーナツチェーン店のことか? いや、だとしても内容は意味不明だ。部室に来いと書いてあるが、部室ってどこだよ。確かあの店は駅前にはあったはずだけど、そこに行けば良いのだろうか。と、考えを巡らせつつ、横目で手紙を見ていると、何故か「入部」という言葉に自然と目がいった。
入部。部に入ること。学校で「部」と言えば、十中八九、部活動のことだ。文末にある部室という言葉。これは部の部屋。学校で「部室」と言えば、クラブが活動を行う場所を指す。これらの言葉から導き出されるミスドの正体……それはずばり、部活動。そう、ミスドというのは部活動の名前なのである!
……いやいや。待て待て。それでもおかしい。そんな変な名前の部活があってたまるか。そんな変な名前の部活なんて……。
……
「何ですか、この変な名前の部活」
俺は机の上に置かれた平面のタブレットを見ながら、感想を述べた。
場所は通称作業部屋と呼ばれる場所。生徒会室の隣にある少々狭い教室である。
「私も詳しくは知りません。名前からして、ドーナッツの研究でもしているんじゃないですか?」
そう説明したのは生徒会の古藤先輩。清鳥高校生徒会の部活局――部活全体をとりまとめる生徒会下部組織の一つ――の局長、早い話が生徒会役員のお偉いさんである。今は教室で使っているような茶の机で、両手を口の前で組んでる。(いわゆるゲンドウポーズである)
後ろに撫で付けられた髪。細い眉に涼しげな一重瞼。緩く弧を描いた口元。紺のブレザーに灰色のズボン。着崩し一つないピシリとした制服姿だ。ただ礼儀正しい優男という訳ではない。制服越しでも分かる上腕や胸筋の膨らみがそれを証明している。
「はあ、ドーナツですか」
「はい。ドーナッツです」
古藤先輩は答えた。手の甲越しに見える顔は笑っていて、細い目で俺の姿をじっと見つめている。それきり、何も言わない。……あれ。俺、何か悪いこと言ったかな。
しばらくして。
「……冗談ですよ。名探偵がどんな反応をするか、見たかっただけです」
古藤先輩は組んでいた手を離し、体重を背もたれにのせた。
「楽にしてもらって構いませんよ。同じ生徒会役員同士でしょう……カワ、カワオくん?」
「はあ。そうですか、すみません。あと、俺の名前は川井です」
「ああそうでした、そうでした。どうも存在感のない人の名前を覚えるのは難しいですね」
悪びれた態度もなく。さらりとなじられる。というか。
「あの、先輩。俺が名探偵だって誰から聞いたんですか」
「ん? だいぶ前に、あなたの同級生の方にお聞きしましたけど」
同級生? …………陽代子か。
あれほど人には言うなと釘を指しておいたのに、しかもよりによって先輩に話しやがって。
「名探偵だなんて凄いですねえ。浅学なもので、探偵と言ってもシャーロック・ホームズぐらいしか存じておりませんが、アレでしょう? 真実はじっちゃんの名にかけて一つ、とか言う」
それは某少年探偵じゃなかろうか……しかも、台詞微妙に混ざってるし。
「ま、まあ、そんなものです」
しかし、否定するだけの度胸もない俺は適当に誤魔化す。
「すごいですねえ。サインを頂いてもいいですか?」
「いや、あの、サインなんてないですし」
陽代子め、今度会ったら覚えておけよ……。
「そうですか、それは残念です」
古藤先輩はチラリと左手の腕時計を見る。
「確認しますが『用事』の時間は六時でしたね」
「え、ええ。なので、できれば五時にはここを出たいんですけど」
用事と言っても何のことはない。家の手伝いをさせられるだけなのだが。通学時間から逆算して、ここを一時間前に出れば、ギリギリ間に合うだろう。
古藤先輩は腕時計を見たままぼそりと「仕方ない」と呟いた。
「話を始めましょう……君は、部活監査というものを知っていますか?」
「確か、部活動関係の制度だったと思いますけど、詳しくは……」
「記憶していないのなら、読んでないのと同じですね」
ご尤もです。
古藤先輩は何も見ずに、スラスラと校則を諳んじる。
「部活監査とは『部活動運営が適切に行われているかを調査するために、生徒会執行部が特定の部活へ入部し、一時的にその部活動の運営及び活動を行うこと』です。校則七章第十二条に書いてありますから、確認してください」
「わ、分かりました」
校則は生徒手帳に載ってたはず。でも生徒手帳なんて持ってたかな。ズボンのポケットを探る。ない。じゃあブレザーの胸ポケットは……あった。
「校則に書いてある通りで、付け加えることも特にありません。部活監査は文字通り、我々生徒会役員がある特定の部活に仮入部し、その部活を監査する、という制度です」
「仮入部?」
「調査が終わるまで、一時的に部活動のメンバーになることです。新入生が年度初めに、部活動へお試しで入部するのと同じようなものだと考えてもらって構いません」
「はあ。でも、何でわざわざ、そんな監査なんてするんですか?」
部活なんて趣味の延長みたいなものなんだし、好きにやらせればいいと思うが。
「君は清鳥高校の伝統である『自立自治』について知っていますか」
古藤先輩は椅子の背もたれに寄りかかり、リラックスした姿勢のまま尋ねる。
「はい、一応」
自立自治の精神は「学生自ら立ち、自らの手で創りゆくこと」だったかな。確か、我が清鳥高校の創立者の言葉だったはずだ。
「それは話が早いですね。清鳥高校の伝統は自立と自治です。自立とは生徒が学校に頼りきりになることを良しとせず、自ら立ち清鳥の伝統の継承と発展に貢献すること。そのための新しい制度や、活動を行う環境は他校と比べても非常に整っています」
言われてみれば、このタブレットもそういう「新しい制度」の賜物か。
俺は机の上に置いてあるそれに視線を注ぐ。
タブレット。いわゆるタブレット型端末はB5サイズ程の大きさで、フレームはワインレッド。俺らの学年章と同じ色だ。これは私物ではない。強いて言うなら生徒会の物である。毎年度、生徒会役員の希望者にこれが貸し出される。用途は書類作成や情報共有で目的は作業の効率化。二年前から試験的に始まったと言われているこの制度も、他の学校にはない清鳥の「自立」の精神から生まれたものだと言える。
「しかし、生徒の中には『自立』の意味を勘違いする者もいます。『自立』と『自由』は違うのです。我々生徒会の仕事には、そのような生徒を律することも含まれます」
「つまり、部活監査っていうのは自由にかこつけて、部活が色々やり過ぎてないか生徒会がチェックするって制度なんですかね」
「そういうことですね。さすが名探偵。飲み込みが早いですね。
では具体的な話に入ります。生徒会会則の第十三条を読んで下さい」
「えっと……『第十三条、調査期間は三ヶ月、調査人数は二人を原則とし、調査項目は運営、会計、活動の三点とする』」
「そこに書いてある通りですが、川井くんにはこれから三ヶ月間、『ミスド』の部活監査を行うため、ミスドの部活動に参加してもらいます」
そう言って、古藤先輩は俺の手元にあるタブレットへと視線を注いだ。
俺も自然と、タブレットに注目する。ミスド、ねえ。
液晶画面には横書きの文章が表示されている。一段目には大きなフォントで「部活申請用紙」というタイトル。以下コマゴマと部活動の詳細が書かれているのだが。
『部活動名:ミスド』
いきなり理解につまずいた。ミスドって何だよ。ドーナツ屋か? 活動概要も謎だ。
『活動概要:この世に存在するありとあらゆる物体・現象及びこの世に存在しない思考仮定上の諸事象について研究し、有意義な学生生活を送ること』
うん、さっぱり分からん。研究する、とあるがその対象はべらぼうに多く、結局何を研究するのかは明確でない。唯一推測できるのは、少なくとも、この部活がドーナツ屋ではないだろうということだ。
「……とりあえず、やることは分かりましたけど、なんで俺なんですか?」
「部活監査は毎年、生徒会役員の中の新人、期待の一年生が行うことが慣例になっています。芽が出そうな新人のさらなる成長の糧となるように。これもまた一つの伝統です。
君はクラブに所属していませんでしたよね?」
「はい。特には」
束の間の放課後くらい、自由に使いたいしな。高校生になって遊べる時間も減った。中学生の頃から読み漁っている小説だって、近頃は授業の合間や放課後を使わないと満足に消化できない。生徒会の活動も義務でなければ、本音を言えばご遠慮したいところだ。
「なら、放課後は問題なさそうですね。あなたには期待しています。よろしく頼みますよ」
期待してる割には、扱いが雑すぎませんかね。さっきの名前の間違いとかさ。
「他、毎年出る質問はタブレットの共有フォルダの『よくある質問』にまとめてあります。部活動の詳細、所属する部員等の資料も入れてありますから、後で参照して下さい」
「……分かりました」
何かと引っかかりはするが、面と向かって期待していると言われると断りにくいのも事実だった。三ヶ月はちと長いが、要領良くさくっと終わらせば良いか。
「具体的にその監査とやらはいつから始めればいいんですか?」
「期間としては今日からでも、と思ってたのですが……君にはこの後予定があるんですよね」
「そう、ですね」
家の手伝いがある。そういえば、今は何時だろう。俺はタブレットを見た。タブレットの右上の端に時刻が表示されている。五時三十分。って時間過ぎてる!?
「先輩、そろそろ、俺!」
「先方には話を通してありますので、川井くんはできるだけ早く部活動の責任者とコンタクトをとるようにしてください。今日はもう帰ってもらって構いませんよ」
「はい! お疲れ様でした!」
俺は机の横にかけていた平たい学生鞄を手に取った。机の上のタブレットをしまい、急いで作業部屋を後にした。
……
そうだった。ミスドは部活動の名前だ!
俺は目を開け、体を起こし、机の上の手紙に目をやる。
『川井様の入部を認めるかどうかのテストをおこないます。放課後、部室に来てください』
入部、部室。今ではだいたいの意味がとれる。「生徒会役員のあなたに入部資格があるかテストします。放課後部室に来てください」ってことか。……でも待てよ、部室ってどこだ。
頭の中に、古藤先輩の笑顔が浮かぶ。
「毎年出る質問はタブレットの『よくある質問』にまとめてあります」
……タブレット!
俺は机の脇にかけられた平たい学生鞄を開け、中身を覗く。鞄の中には、教科書やノートに混じり、黒い布袋がある。これがないとフレームが傷つくんだよな。
袋を鞄から出し、袋の中身を取り出す。赤色のタブレット。
いつも通り、側面のスイッチを押すと一分も経たずにホーム画面へ。無事、起動したようだ。
あの時、タブレットで見た「部活申請用紙」。あれは部活動を作る際に提出する書類のコピーだ。あの書類になら、部室の場所も載っているだろう。
目当てのファイルを指でタッチして、起動。数秒のロードの後、企画部屋で見た「部活申請用紙」という文字が表示される。画面をゆっくりとスクロール。目当ての情報がないか、文字を目で追う。ほどなくして「部室」という項目を見つけた。
『部室:C207』
頭文字のCはその教室の場所――つまりはC棟――を指し、番号の百番代はその教室の階層――つまりは二階――を指す。ミスドの部室はC207、C棟の二階だ。現在俺の居る一年生の教室があるのはA棟。位置は少し離れている。直接向かうなら、生徒会室や職員室のあるB棟を経由することになるだろう。
これでとりあえず、何をすれば良いのかは分かった。机の上にある小さな飴を手に取り、袋を開ける。包み紙は毒々しい蛍光色に彩られていたが、中身は薄い色の至って普通の飴だった。指で摘み、そのまま口の中に放り込む。
しかし、手紙にはテストをするとは書いてあったが、何をするのかは書いてなかったな。この書類にも、詳しいことは何も書いてない。俺はタブレットに目を落とす。
『活動説明:この世に存在するありとあらゆる物体・現象及びこの世に存在しない思考仮定上の諸事象について研究し、有意義な学生生活を送ること』
相変わらず、一読しただけではどんな活動か分からない。研究すると書いてあるのだから、何かの研究会かもしれない。ウチの学校には野球部からカバディ同好会、ロシア語研究会からご当地アイドル研究会まで何でもあるからな。ミスドも、そんな趣味サークルの一つだろう。
軽い電子音が教室に響く。昼休の終わりを告げるチャイムだ。
「……ま、なんとかなるか」
俺は一息つき、タブレットから目を話した。視線を窓の外へと向ける。
いつの間にか、空は濃厚な灰色に染まっていた。厚い雲が垂れ込め、遠くは影に沈み見通せない。下校するまで降らなければいいのだが。
あれ。そういえば、俺、飴なんて持ってきてないぞ。
窓から視線を教室に戻す。教室の後方入口近くの席で、右手をとヒラヒラさせている陽代子を見つける。あいつ、なのか? そういえば、包み紙のセンスはヤバかったな。
陽代子の感性は独特だ。小学校の時、遠足で持ってきたシートが鳥獣戯画のような墨絵柄だったのを今でも覚えている
うん。多分、あいつだ。とりあえず、俺も軽く右手を振って応える。
……どこに鼻血を出してぶっ倒れる要素があったのか、俺には理解できない。
3
午後の授業は飛ぶように過ぎていった。楽しい時間はあっという間だというが、さりとて今日の授業内容が普段と違って面白かったかというと、そうでもない気がする。どうやら緊張を感じていても時間は早く過ぎるらしい。
授業が終わると、俺は教室を出た。片手にはタブレットを持っている。
教室の場所は暗記していたが、念のためタブレットは持って行くことにした。何かと情報も詰まっているし、役に立つかもしれない。「テスト」とやらが持ち込み禁止なら、使うこともないんだろうけど。あとは「手紙」くらいか。これは、ブレザーの内側にあるポケットにしまってある。こういう時、ポケットが沢山あるブレザーは便利だ。
C棟には多目的教室、理科で使う実験室や家庭科室が集まっている。この学校が出来た当初からある建物らしく、他の建物より建物の外観はやや古びていて、中の教室や廊下も、隠し切れない年月の重みで所々くすんでいる。
すれ違う友人に「また明日」と声をかけられ「おう、また明日」と俺は軽く手を振った。実験室やらがメインだから、放課後は人が少なくてもおかしくない。しかし、C棟に入ってからも、数人とすれ違う。恐らく、実験室が理科系の部活動で使われるからだろう。
考えてみれば、放課後というのは不思議な時間だ。授業をやっている時間よりも、帰宅や部活で生徒の行き来が増す。活気がある。学校の主な目的である授業時よりも、それの終わった放課後の方が、人気がある。この言いようのない静かな喧騒は生徒がただ学ぶために学校に来ているのではないことの証ではないだろうか……などというポエミーなことを考えていると、階段を見逃しそうになった。いかん、いかん。
B棟とC棟を繋ぐ二階の渡り廊下。そこからC棟に入って、階段を半分下る。そして元は乳白色だったのであろうリノリウムの廊下を進んでいくと、また階段が見えてくる。校内案内図によればC207、ミスドの部室はこの階段を登った先にあるそうだ。
鈍く光る手すりを頼りに、階段を登っていく。階段は照明も点いておらず、薄暗かった。
遠くで「イチ、ニ、イチ、ニ」と掛け声が聞こえる。どこかで運動部が練習しているのだろうか。
すぐに二階の踊り場に着く。階段の折り返し部分。がらんとしたスペースから、廊下は右に伸びている。さて、行くか。足を動かし、右折する。
廊下は思ったより伸びていた。向かって右側は窓に、左側は教室になっている。窓から差し込む光は弱々しい。雨こそ降りだしていないのものの、空は相変わらずのようだった。
視線を手前の教室に向ける。ドアの上の教室表示にはC201。部室はC207。どうやら、場所は合っているみたいだ。俺はそのまま廊下を奥へと進んだ。歩きながら、教室表示を確認する。C202、表示なし、204、205、表示なし。時折ある何も書かれていない教室表示は何なんだろう。元から付いていなかったのか、長い年月に耐え切れずどこかへいってしまったのか。そして。
「……ここか」
廊下の突き当り。その一歩手前に、C207はあった。廊下の他の教室同様、ドアは左開きになっている。色は壁面と似たくすんだ白。所々に見える傷が過ごしてきた年月を物語っている。くたびれきったドアノブが、ぎらりと光った気がした。
「……よし」
意を決して、ドアをノックする。乾いた音が廊下に響いた。
「すみません」
無音。反応、なし。もう一度、「すみません」と言いながら強めにドアを叩く。相変わらず、反応はない。居ないのか?
「すみませ」
言葉の途中でガチャリとドアが引かれ、数センチの隙間ができる。おっと。
「だ、誰だすか?」
隙間から上ずった返事が、ドアの向こう側から返ってきた。訛り、ではなさそうだ。
ドアの向こう側から「いっ」と聞こえ、再びドアが閉まった。中からは何やら声にならない悲鳴が聞こえる。まさか、噛んだのだろうか……。再び、ドアが開く。
「誰だ?」
警戒心を含んだ声。高めの声質から女性だと推測。視線を下げる。ドアの隙間から、誰かがそっと覗いていた。
小さな顔だと思った。顔の位置も、俺と頭一個分くらい違う。下級生だろうか? 表情が硬いのは、緊張しているからかもしれない。健康的に色づいた肌。軽くウェーブした黒髪は左耳の上辺りで、ゴムを使ってくくってる。強気な言動とは裏腹に、 こちらを覗く瞳、コーギーを思わせるような小さく愛らしい目は、今は少し潤んでいる。何かに堪えるように口をへの字に締め眉を寄せる様は、先程の失態がどれほどの痛みを伴うものだったのかを如実に語っている。
「誰だ!」
「……ああ、ごめん、ごめん。生徒会の川井です。古藤先輩からお話聞いてませんか?」
下級生とはいえ初対面の女子だ。ここは敬語を使おう。
彼女の服装は、制服ではなさそうだった。赤の前開きジャージ。白のシャツ。これは確か、女子の体操着だ。でも、何故に体操服? ミスドは運動部なのか?
「コトウセンパイ? すまないが、聞き覚えがないな。部屋を間違ってないか」
ぶっきらぼうに、彼女は言った。
「あれ、マジですか。先輩はそちらに話は通してあると言っていたのですが……」
「じゃあ、私はこれで」
「ちょ、ちょっと待って!」
閉めかけられたドアが再び少し開き、先程の顔が覗く。
「まだ何か用か?」
まだも何も、未だに内容には一切触れていない俺を門前払いするなんて、酷すぎる。
「そもそも、何しに来たんだ、お前は。ここはコトウの部屋じゃないぞ?」
「俺、部活監査に来たんですけど」
「ブカツ、カンサ?」
彼女は独特なイントネーションでそう言うと、黙りこむ。目を細め、険しい顔をしている。
もしかして、部活監査を知らないのか?
「えっと、部活監査ってのは生徒会が毎年やってる部活動のチェックみたいなもんで」
「生徒会……」
「うん。生徒会が毎年やってる行事でね」
――――バタン。
俺の説明が終わる前に、無慈悲にドアが閉まる。
「は?」
ドアの向こう側から「お前、生徒会の手先か!」とトゲトゲしい声が聞こえる。
「手先というか、役員です。監査が来ることは事前に通達がいってるはずなんだが、部長とか先輩に聞いてないか? 今日から生徒会役員が来るとか、新入部員が来るとか」
もしくはテストを受けに来るって。
「おかしいな。そんなこと、トーラ言ってたかな……」
ドア一枚隔てているとはいえ古くなったドアだ。独り事のつもりでも、ドアの向こう側の声は丸聞こえである。トーラ。アダ名か何かかな。
再びドアが開き、先程の女生徒が顔を出す。
「……少しだけなら、話を聞いてやる」
どうやら、第一関門は突破したみたいだ。
「ありがとう。俺は川井相馬。生徒会の部活局に所属してる一年生だ」
「……相良すみれ。一年」
一年。この身長で高一とか思えないが……ああ、中一か。ウチの学校は中高一貫校。文化系の部活の中には、中学と高校で一緒の部室を使っている所もあるらしい。ここも、そうなのだろう。なるほど、これで得心もいった。中学生なら校則なんて知らなくて当然だ。当然、部活監査にも馴染みがないだろう。
「相良さんね。じゃあ、改めて確認なんだけど、部の先輩方から、部活監査について何か聞いてない?」
「ブカツ、カンサ?」
「もしかして、まったく聞いてないの?」
「いや、聞いていたか聞いていないかについて、断定する材料がいささか不足していて、すぐには答えることができないが、まあ、言われていたか言われていないかで言うと、言われていなかった可能性の方がわずかに高いな」
早口だった。焦っているのか、声も上ずっている。
「えーっと、聞いてなかった、ということでいいのかな?」
「い、いや、聞いてなかった可能性がわずかに高いだけで、聞いていた可能性も十分あるぞ!」
どっちだよ!
「……正直に、答えてくれるかな?」
「……聞いてない」
目をそらし、ぼそりと呟いた。頬をふくらませ、なんだか不機嫌そうだ。
「そ、そっかー。じゃあ、部長とか副部長の先輩達を出してくれないかな? 多分、その人達なら知ってると思うし」
「でもアマツ、まだ来てない。トーラも」
アマツ、これも人の名前だろうか。
「高等部の先輩なら誰でもいいよ。君より上の先輩はいないかな?」
「私より上となるとミノリしかいないぞ。ミノリはまだ来てないし」
「誰か居るだろ? この際高二でも高一でもいいから」
ピシリ、と相良の笑みが凍りつく。
「川井、私が何年生か言ってみろ」
なんだか、声のトーンが違う。強気なのは一緒だが、何かを抑えようとしているような。
「どうした? 早く答えろ」
「……一年生だろ? 中等部の」
俺が返答を返すやいなや、ドアが勢い良く閉まる。
「あっ、おい!」
ドアノブを握る。ガチャガチャと二三度回してみるが、硬い手応えがあるだけでドアが開くことはない。
「ばーかばーか! 生徒会のやつらなんか大嫌いだ!」
ドアの向こう側から大きな声が聞こえる。心なしかさっきより声が震えている気がする。
いや、冷静に分析してる場合じゃないんだけどさ。
「おいおい、どうしたんだ。いきなり怒り出して」
「ふんっ! お前にお教えることなんて何もない! さっさと帰れ!」
「あのさあ。さっきから言ってるけど、俺がここに来たのはこの部活に仮入部するためで」
「うるさいうるさい! どうせ、さっきの話も嘘っぱちなんだろ! 証拠出せよ証拠!」
そんな都合の良い物などもっていない。俺の持ち物はタブレットくらいだ。
「ほーら、証拠も出せないってことはやっぱりウソツキだったんだな! ばーかばーか!」
だんだん、イライラしてくる。コミュニケーションをとろうとしない相手との会話はなんて無意味だ。それこそ、壁に向かって独り言を喋ってるのと一緒。時間の無駄。
「いや、俺は君達の部活から呼ばれてだね」
「やっぱりおかしいと思ったんだ! あんなに頭の悪そうな人間が部活のテストなんてできるわけない! 私は騙されないぞ!」
カチンと来た。感情を堰き止めていた最後の一線、彼女の言葉はそれを安々と踏み越えた。昼、ラブレターをもらったとウキウキして開けてみればテストのお知らせ。放課後、わざわざ聞いたこともないような部の部室に来てみればろくに話も聞かずにウソツキ扱い。おまけに頭が悪そうと来た。頭が悪そう……名探偵の俺に向かって頭が悪そう……。
「悔しかったら証拠の一つも出してみろ! 川井!」
「……よーし、分かった。今から証拠をもってきてやる。そうしたらこのドアを開けろよ!」
右手に力を込め、ドアを一度、叩く。待ってろよこのチビ!
俺は踵を返し、ミスドの部室を後にした。
行き先は生徒会だった。古藤先輩を連れて行こう。先輩から詳しい話を聞けば、あいつも俺を部室に入れざるを得なくなるだろう。なんたって、古藤先輩は部活をとりまとめる部活局の長、清鳥高校の生徒会執行部のお偉いさんである。
全速力で階段を下り、廊下を駆け抜け、生徒会室に走りこむ。生徒会室はいつものように、何人かが各々作業を行っていた。書類を整理している人もいれば、教員と思わしき人と交渉している人もいる。しかし、中をざっと見渡しても古藤先輩の姿は見当たらなかった。どこにいったんだろう。とりあえず、近くに居た女子の先輩に「すみません」と話しかける。
「ん? ああ、君は……確か川井くんだっけ、どうしたの?」
先輩は眠そうな眼で答える。古藤先輩とは違い、俺の名前を知っていてくれたらしい。ありがたいことだ……俺はこの先輩の名前を覚えていなんだけど。
「古藤先輩はどちらに居らっしゃるか、ご存じないですか」
「古藤くんかー。少なくとも、ここには居ないよ。彼はこの時間、だいたい部活をやってるし」
「いつ頃戻ってくるとか分かります?」
「帰りはいつもだったら六時頃になると思うけど。古藤くんに何か用事でも有るの?」
「いえ、古藤先輩じゃなきゃいけないって訳ではないですけど」
六時って、まだまだ先じゃないか! 部活をわざわざ中途で抜けて来てもらうのもなあ。くそっ、早速計画が頓挫じゃないか! あの中学生に言われっぱなしなのはシャクだ。なんとか証拠をバシッと出してこちらが正しいということを見せつけてやりたいんだが。
「えっと、俺が部活監査に来たってのは、どうやって証明すればいいっすかね」
「部活監査? ああ、もうそんな時期なんだねえ。で、証明ってどういうこと? 」
「部活監査に来たって言ってもとりあってもらえなくて。あのチ……その子に、何か証拠をもっていけばわかってもらえるかな、と」
「なるほど、それで古藤君を。でも、うーん……証明かあ。改めて言われると難しいなあ」
先輩は「普通、誰が部活監査に行くかは、予め連絡が行ってるはずだしね」と付け加える。
「何かないですかね。このままだと監査をする以前に、入部すらできないっすよ」
「うーん、困ったねえ」
「どうかしたのかい?」
声がした方に、顔を向ける。俺達へ話しかけて来たのは、生徒ではなく教員だった。先程まで別の生徒との話し合いをしていたようだが、今は一人である。グレーのスーツにズボン。若そうな風貌とは裏腹に、髪には白い物が目立っている。
「自分は部活監査に来た生徒会役員だって、証明が必要で困ってるそうなんです、彼」
「へえー。部活監査か。生徒会は今も昔も変わらないんだね」
先輩の言葉に、教員は顎に手を当て、少しの間考えこむ。
「……僕らの頃は、生徒会の活動は一つ一つ記録や議事録をとっておいたものなんだけど。勿論、部活監査も含めてね。今はどうなってるんだい?」
「ああ、記録ですか。それなら多分、どこかにファイリングされてますねー」
「それってどこにあります!?」
それは証拠になりそうだ!
「そんなに詰め寄らなくても探してあげるよ。ちょっと待ってね……はい」
先輩は本棚にあったクリアファイルから書類を一枚抜き出し、俺に手渡す。
俺は「ありがとうございます!」と言って先輩に頭を下げた。
「お礼なんていいって。もし提出を求められたら、コピーなり何なりすればいいと思うよ。原本だから終わったら返してねー」
「相変わらず几帳面だね、ここは」
「先生も、ありがとうございました!」
「役に立てたのなら良かったよ。監査、頑張ってね」
先輩と教員に見送られ、俺は生徒会室を出た。書類はタブレットと一緒に右手に抱えている。
これで証拠をゲットだ。待ってろよチビ!
階段を駆け登り、再び部屋の前へ。勢いそのままに、ドアをノックする。
「おい、証拠を持ってきたぞ! 開けろ!」
今度は何を言われたって引くつもりはない。俺は間違ってないのだから。
「開いてるぞ」
中から聞こえた声は先程とは違い、落ち着いた様子だった。というか、声質自体が違う。あの下級生より、低い。
不思議に思いつつ、引き手に手を伸ばし、押す。錆びた音と共に、あっけなくドアが開いた。
室内は思ったより奥行きがあった。横幅はドア二つ分くらいしかないのに、奥行きはその二倍、三倍はあった。それなりの広さがあるのに妙な閉塞感があるのは、物が多いからだろう。
まず、ドアから入ってすぐ、左側手前の壁にはドアと同じく、だいぶくたびれている金属製の本棚が二つ。その奥には横に長い黒板。部屋の中央には長机が二つ、縦に並べてあり、幾つかのパイプ椅子や丸椅子が無造作に置いてある。机の繋ぎ目辺りに放置されてる黒の学生鞄は誰の物だろうか。
まだある。右側の手前には教室で普段俺達が使っているような小さな机が並べられ、その上に幾つかのダンボールが積まれている。右側の奥、窓際の机の上には液晶が。箱型の、かなり古いやつだ。テレビではないだろうし、コンピューターだろうか? にしても、これだけのスペースに、よくもまあこれだけの物を詰め込んだものだ。
「ドアを閉めてくれないか? この部屋には暖房がなくてね。冷える」
そして、中央の長机の奥――いわゆるお誕生日席――この部屋唯一の窓を背にして、女生徒が一人座っていた。右手にペンを持ち、忙しく動かしている。何やら書き物をしているらしい。
「あ、すみません」
思わず謝り、言われた通り後ろ手でドアを閉める。どうやら、さっきのやたらと噛み付いてくる下級生とは違う人らしい。
「生徒会の方かな?」
顔を上げず、俺の方を見ることもなしに尋ねる。
位置は少し離れているのに声は、はっきりと聞こえた。通りの良い声、というのだろうか。女性にしては若干低めの声だ。
女生徒は、ベージュのコートを羽織っていた。コートの間から覗く紺色は、学校指定のブレザーだ。コートの両腕の袖は通しておらず、ブレザーの上でだらんと垂らしている。
「はい、高等部一年生の川井と言います」
言ってから、ちょっと説明不足な気がして、役職も付け加える。
「生徒会部活局に所属してます」
敬語になってしまったのは、目の前の彼女が何年生かわからなかったからだ。華奢な体格から下級生にも見えるが、それにしては妙に落ち着いているように見える。
女生徒の手がピタリと止まった。彼女は「ふう」と満足気にため息を付き、顔を上げた。肩口で切りそろえられた短い髪が、サラリと揺れた。
女生徒の顔は有体に言ってしまえば、整っていた。陶器のように白い肌。すっと走る細い眉。口元は綻び、大きな眼に浮かぶダークブラウンの瞳は恍惚と潤んでいる。喜び、嬉しさがこちらまで伝わってくる。まるで夏休みと誕生日と正月が一度に来たかのような、そんな表情。何でこんなに幸せそうなんだろう、この人は……しかし、このまま放置する訳にもいくまい。
一呼吸おき、話しかける、
「あの、聞いてます?」
「……!? ああ、すまない」
声をかけると、女生徒は我に返った。顔を左右に振り、表情を引き締める。
キリリとした表情。かわいい、というよりはカッコイイ大人びた顔立ち。今しがたのゆるんだ表情とは比べ物にならないくらいしっかりとした印象を受ける。
女生徒は席を立ち上がり、ゴムの上履きとは思えないほど小気味よい靴音を立て、俺に近づいてくる。プリーツスカートから伸びる細い足に迷いはない。ブレザーの上ではためくベージュのコートは、王様の羽織るマントのよう。俺の一歩前で、女生徒は足を止めた。夜空を思わせる暗い瞳が、俺を捉える。
「はじめまして。『元』名探偵の東浦明だ」
「元」にアクセントを起きつつ、女生徒はを自身の名前を口にした。
………………は?
目の前の女生徒の言葉に、目が点になる。バラエティ番組の逆ドッキリの企画を見せられているような気分だ。ドッキリを仕掛けているつもりが、逆にドッキリを仕掛けられていた、みたいな。そんなシュールな驚き。
コイツが? 俺と同じ名探偵?
「今はこの通り、ミスドで部長をやっている。よろしく頼むぞ」
女生徒――東浦明――は、コートに隠れていた右手を差し出し、握手を求める。
「……こちらこそ、よろしく」
差し出された手を握る。室内に負けず劣らず、東浦の手も冷えきっていた。
ど、どういうことだ!? と、とにかく、落ち着け、落ち着け。名探偵? 馬鹿な。そんなにホイホイ名探偵が居てたまるか。
「名探偵、なんですか? 東浦さんは」
「……」
返事はない。というか、東浦の関心は俺になかった。視線はもっと下、腰の辺り。
「おおぉ~」
東浦のキラキラと光る瞳が捉えていたのは。
「えっと、このタブレットがどうかしました?」