覚悟
水島さんはここで一息ついて、遺言が書かれた紙を再びしまった。
「以上が遺言書の内容になります。続きまして大奥様から再びお話がありますが、質問形式で行います。何か質問のある方はおられますか」
「あるぜ。まずは俺からだ」
早速叔父が手を上げた。
「遺産の話がまったく出てきていない。いったい誰が相続するんだ」
「遺産というのは?」
「焦らすなよ。金や土地はどうなるんだ」
「財産と呼べるべきものは存在しません」
「何だと」
「残っているものはこの屋敷ばかりです。後はすべて故人が使い切りました。それもこれも皆、結界を維持するために必要だったからです。あなたは本当にお父様一人で結界を護っていたと思っているのですか」
「つまり、関係のある各方面にいろいろ働きかける必要があった、とわけだな」
そう言ったのは父だった。
「今まで任せきりにしていた者がどうこう言えるものでもないでしょうに」
祖母の手厳しい言葉に、叔父はぐうの音も出なかったが、たちまち息を吹き返し、
「わかった、その話はもうしない。だが兄貴が当主だなんて俺は認めないぞ。しかも協力して結界を張れだなんて。何故俺と兄貴なんだ。分家にもそこそこの術者がいるだろう」
と、不満をさらけだした。
「裕仁、俺たちがやらなければこの国が危ない目にあうんだぞ」
「早速当主気取りかよ。まったく兄貴はいつもそうだ。俺のことを見下したような目で見やがって」
「おやめなさい。裕仁、当主というのは生半可な意志ではできないのですよ。たとえ名目上の当主でもかなりの負担を強いられる。それに加え結界を施す術者も兼ねなければならない。金剛界五如来法は最強の守護網であるが故に最高の難呪法です。強者が二人いて初めて成し得る技。同じ血の流れる二人でなければ無理でしょう」
「おまえに不快な思いをさせていたのなら謝る。力を貸してくれ。この通りだ」
父は叔父に向かって頭を下げた。
「…ふん。べつに俺だって、この国がどうでもいいなんて思っちゃいないさ。ところで俺の娘が関係してるとか言ってたけど、その遺言には出てこなかったが」
「あなたの娘、都築舞子には由宇の援護をしてもらいます」
「つまり封殺要員つーことか」
「そんな、お義母様。舞子はまだ十歳なんですよ。封殺なんてまだ無理です」
叔母が悲痛な表情で訴える。親ならば当然、自分の子供を危険な目にあわせたくはないだろう。
「何のために祭文書や霊符があなた方の家に譲られたと思っているのですか。舞子にはそれを使いこなせるだけの能力があります。神篠由宇と共に前当主の指導を受けてきたのですから。『宿星』を突然言い渡された究作よりは、遥かに優位な立場だと私は考えますが」
「お袋。そのことについてなんだが」
今度は父が口を挟んだ。
「わかっています。究作、遺書の内容は理解してもらえましたか」
祖母は優しい口調で尋ねてきた。反対に表情には微塵も緩んだところはなかった。
「あ、はい。『宿星』になれってことは」
そう言いながら、僕の目は祖母の後ろで鎮座している神篠由宇を捕らえて放さなかった。
「なれ、と言っているのではありません。あくまで遺言には、なって欲しいという願望が書かれているだけです。故人も私も、あなたの意志を尊重するつもりです。『宿星』というさだめは誰にでも全うできるわけではありません。資質と、それ以上の覚悟がなければ、命すら危うい。今まで何も知らなかったあなたなら尚更のこと。だからこそ自分自身で決めて欲しいのです」
父の言った「覚悟」の意味がやっと僕に飲み込めた。
ここにきてようやく、僕は自分のおかれた立場に驚愕した。そうして思い出したようにがたがたと震えだした。周りを見ると、皆が僕の次の言葉に注目しているのがわかった。逃げ出したい気持ちをこらえて、じっと座っているのが精一杯だった。
「無理にとは言いません。あなたの口からはっきりと答えを聞きたいのです」
「あんなに震えちまって。無理なんじゃねえのか」
祖母の声も、叔父の冷かしも、周りのざわつきも、僕の耳には入らなかった。母は心配そうに僕を見ていた。父は黙って目を瞑っていた。重くのしかかる重圧をどうにかして、僕は必死に声を絞り出した。
「あの、僕はその、『宿星』は僕にしか、その、できない…かもしれないけど…」
心臓がものすごい速さで拍動する。今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
「でもあの、今の僕には、な、何もできないから、だからその、むり…」
そのときだった。今まで微動だにしなかった神篠由宇が突然立ち上がり、僕の正面まで来て屈んだ。目の前に現れるまで気がつかなかった僕は、いきなり飛び込んできた彼女の顔に驚いて固まってしまった。その衝撃は、はたしてあの場所で彼女に寄りかかられたときのそれとほぼ同じだった。僕はその刹那にあのときの記憶をすべて掘り起こされた。
少女の唇が僕の耳元に吸い付くように囁いた。
「来てくれるわよね。アナタはワタシのモノだもの。一緒に、来てくれるわよね」
彼女の声は僕の官能を刺戟する。底の方に沈んだ心を躍り上がらせ、あたかも自分が自分でないような不思議な感覚を覚える。そうしてあの日に誓った彼女への忠誠を僕は蘇らせた。
「僕が…やります。『宿星』は僕にしかできない」
僕は祖母のほうをきっと見つめかえした。祖母は口元に微かな笑みを浮かべ、何かを確信したように頷いた。