陰陽
父は何かを思案しているようだった。僕は僕でそれが何かをいろいろ考えていた。こっちに来て座れと父に促されてから何分くらい経っただろう。母は障子で隔たれた部屋の中で、まだ起きているようだった。
「驚いたか」
呟くように父が言った。
「本当は何も話したくない。これからもそのつもりだった。おまえには普通の人生を歩んでほしいからだ。だからすべてを知ったところで、おまえが嫌だと思うなら何もしなくていい。俺が何とかすればいいことだから」
そう切り出すと父は折月一族の謎について話し始めた。
折月家―この国の歴史の闇を貫く秘儀・秘術の系譜。
宇宙を構成し、万物を読み解く神秘哲学・陰陽五行説。平安の末期に大成したその秘法、陰陽道は、鬼神を操り、吉凶を読み、また未来をも見通した。魔の世界を統率した呪術師、陰陽師は前兆が告げる世の災難を防ぐために時代の背後を暗躍していた。
陰陽道の二大宗家、賀茂、土御門家は時の権力者の庇護を受け、時代とともに隆盛し、そして衰退していった。だが陰陽道そのものは国家を離れ、一般に深く浸透していった。民間に普及した陰陽道、そしてその理を駆使する陰陽師は、遷り行く時代の中にあっても、災異を防ぎ、民を守るという使命を帯びていた。そして現在、もっとも勢力の強い陰陽道家、それが折月家なのだ。
「つまり俺たち折月一族は、呪術テクノロジーでこの国を守っているんだ。表には表れることはないが、呪術理論的バランスを守るために結界を張ったり呪をほどこしたり、時には魔を封殺したり。みんなが幸せに生きていくための大切な使命なんだ。もちろん危険が付き纏う仕事だ。だから一族は一人でも自分を守れるよう、力を持つ親族どうしで結婚するのがしきたりだった。しかし俺はごく普通の人間である母さんと結婚した。そのことでおまえのおじいさんと喧嘩して、俺は家を出た。そして究作、お前が生まれた。以前一度だけおまえをここに連れてきたことがある。それはおまえに一族の力があるかどうか試すためだった。だがおまえは、母さんの影響なのか何の兆候もなかった。力なき者が本家に受け入れられるはずもない。だから俺は今まで何も話さずにいた。おまえに寂しい思いをさせたくなかったからな」
僕は黙っていた。自分に待ち受けている運命と、そういった道程を辿った父の葛藤に、言うべき言葉が見つからなかった。
「国中の結界結護を繋ぎとめられるのは、当主だったおまえのおじいさん、折月典正だけだ。だが当主がいなくなって、今その呪術バランスが崩れかかっている。今はまだ表立った兆候は見られないが、近いうちにきっとよくないことが起こるはずだ。それを未然に防ぐために、おまえのおばあさんは俺を呼んだのだろう。今の本家にはそれほど力のある奴がいないからな。だからといって究作にまで手を貸せというのは筋違いだ。確かに一族の直系のお前には『後継者』の資格があるかもしれないが・・・。本家は、親父はいったいどうしようというんだ。究作、今答えを出さなくてもいい。今日一晩じっくり考えろ。だがこれだけは言っておく。自分が信じてその道を進むなら、他のすべてを犠牲にする覚悟を持っておけ」
父は睨むような目つきで僕を見ていた。今まで口を挟む余裕のなかった僕は、ここでふうっと息をして話し出した。
「父さん」
父は「何だ」という代わりに、不意を突かれたような顔をした。
「今僕の通ってる小学校で、何だか不思議なことが起こるんだ。」
「不思議なこと。それはどういうことだ」
「幽霊がいるんだ。髪の長い女の子の」
「それで」
「僕、その幽霊に会ったんだ。校舎裏で」
「うん」
「それで言われたんだ。僕はその女の子の弟だって」
「……」
「その子の名前は、か…」
僕が名前を言いかけたとき、障子の向こうから「あなた、ちょっときて」と母の声が聞こえた。父は何も言わず部屋の中に入った。その時父は障子をしっかり閉めていった。僕には何だかそれが不自然な気がした。故意か自然か、それのために二人の間にどんな用事があったのか、見ることができなかった。僕が覗こうかどうしようか迷っている間に、父は戻ってきた。
「究作、悪いが俺はちょっと出かけてくる」
「父さん、幽霊のことなんだけど」
「おまえは陰陽道のことを少し誤解しているようだ。陰陽五行の理において、霊というものは人の創り出した幻像にすぎない。おまえの見たものは自分で想像した幻なんだ。たとえそれがどんなに現実的に見えてもな。母さんはもう寝るらしいから。ここは冷える、おまえも早く布団に入れ」
そう言うと父は部屋を出て行った。
一人取り残された僕は、そのまま縁側で思慮にふけった。折月家の使命、結界の維持、そんなものははっきり言ってどうでも構わなかった。そのとき僕が知りたいと感じていたことは、父の、父自身の謎だった。
母と結婚したために本家を追い出された。それは僕の想像のとおりだ。しかしながら腑に落ちない。父がそこまでして母にこだわったのはなぜだろう。一族の親戚でもない普通の女性である母と結婚すれば、子孫に遺伝的呪力がなくなる可能性は高い。それだけ一族の力も削がれ、災いを防ぐための力もなくなる。そんなことは父にだって分かっていたはずだ。それほどにまで母を愛していたと言ってしまえばそれまでだが、父は折月家の直系子孫であり、次期当主であり、この国の平穏を担うためのより強い子孫を残すべき立場なのだ。それを忘れ自分のエゴを通した父は、ただの愚か者でしかないのだろうか。
いや、何かもっと深い理由があるはずだ。そしてそれは、「神篠由宇」に関係あることだろう。車の中でのこと、そしてさっきの父の言動、何かを隠しているようだった。父は僕にまだすべてを話したわけではないのは明白だ。
「まだ外にいるの。早くはいりなさい」
母が呼んだので、仕方なく部屋に入った。布団にもぐってしばらくしてから、僕は母に尋ねた。
「母さんは何で父さんと結婚したの」
なかなか返事がないので、もう眠ってしまったかなと考えていると、
「あの人を守りたかったから」
という答えが返ってきた。何かしらの答えを予測してはなかったが、何だか変な矛盾というか違和感を僕はその答えに感じた。僕にとっては守られるべきは母であり、それを守るのは父なのだ。僕はもう少し追及をしたかったが、母も疲れているだろうと思って遠慮した。僕を育ててくれた一対の夫婦は、お互いを思いやる豊かな心を持った尊敬すべき人たちだと、頼もしく思うくらいで留まった。僕はまた父について解きほどいてみたり、考えを巡らしていた。そうしている間に、いつの間にか眠ってしまっていた。