祖母
僕の仮定はえてして外れてはいなかった。ただ真実は、僕の思い描いていたものよりも、もっとずっと深く悲哀につつまれていた。それが両親にとってどんなに辛く、苦しかったことか。そのときの僕には知る由もなかった。両親は僕の歩むべき人生を考えて、折月家のことや、その家に古くから継承され、課せられてきた使命や呪縛を知らせずにいたのだ。祖父が亡くなったそのときまで。
本家に着いたのは午後八時を過ぎた頃。僕が目を覚ました時、辺りは人も町の灯も見えない森の中だった。車は暗く細い道を静かに走っていた。座席から乗り出して前を覗くと、数百メートル先に古風な門構えが、闇の中にぼうっと浮かび上がっているのが見えた。その奥にかなり大きな御屋敷の影が、夜霧に霞んで佇んでいた。
「起きたか?あそこに見えるのがおまえのおじいさんの家だ。と言っても、もう三十分前もから本家の敷地の中を走ってるんだけどな」
そう言った父の言葉は、滑稽と捉えられなくもなかった。ここら一帯が折月家の所有地。僕は何だかうやうやしい気持ちになった。
門の手前で車を降り、そこから歩いて行く。中へと入ると、その屋敷の全体像がはっきりと見て取れた。何時代か前の古びた平屋の造りではあったが、その広さに思わずため息がでる。それをかがり火で照らしているのが、幻想的雰囲気をさらにかもしだしていた。それに対して建物までへの道は、明かりもなく、進むのに少しためらうほど寂しかった。それを眺めて母は、
「やっぱり歓迎されてないみたいね」
と漏らした。父はすぐ、
「そんなことはないさ。案外茶菓子とか用意して待ってるかもよ」
と答えた。僕はただ二人の間で神妙に立っていた。
植え込みの間を通って、母屋へと進む。開け放たれた玄関の前で立ち止まった。中はそれほど明るくなく、玄関から続く廊下の五メートル先はまったく見通しがきかなかった。まるでブラックホールのように吸い込まれそうで、少し不気味を感じた。
「誰も出て来ないな。ま、元々自分の家なんだし、勝手に上がってもかまわないだろ」
そう言うと父は、ずかずか入っていく。僕と母もそれに続いていった。靴を脱ごうとしたところで、薄暗がりの廊下の奥から一人の女性がフェードインの如く出てきた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
簡単に挨拶を済ませると、使いの女性は僕たちを屋敷の中へと案内した。
どこまでも果てなく続きそうな廊下。壮大な外観とは裏腹に、中は存外殺風景だ。が、一つだけ注目するとすれば、廊下のその所々に、長方形の紙でできた札のようなものが貼ってあるというところだろう。札には漢字や記号のようなもの、図形など意味不明な文字が書いてあった。しかしその訳のわからなさに、何処となく僕は懐かしみを感じていた。
幾つもの部屋を通り過ぎて、案内されたところは七畳ほどの小部屋であった。
「大奥様がおみえになられるまで、しばらくこちらでお待ちください」
そう言うと、使いの女性は部屋を出て行った。床の間のあるその部屋の下座に、座布団が三枚敷かれていた。
「仏さんとはまだご対面させてもらえないようだな」
と、父が言った。そして父を真ん中にして、僕と母はそれぞれ両側に座った。その後しばらくの間は沈黙が三人を包んでいた。
大奥様、という人は僕のおばあさんなのだろうか。両親の言っていた通り、僕がここに来たことがあるなら、そのおばあさんにも会っていたはずだ。けれど本家についての記憶に関しては、はっきり言って空虚である。空虚ではあったが、辺りの風景のどこか一点を見ると、きっと懐かしさを覚えるのだった。この部屋について言えば、目の前にある掛け軸だろう。
「六承転生迅兎如即雷」
この九文字がそれに書かれていた。ろく、しょう、てん、せい、じん…何と読むのだろうか。だが読めたところで意味がわかるわけでもない。僕は考えるのをやめて、ただじっとその文字を眺めていた。
「大奥様がおみえになられました」
襖の向こうからさっきの女性の声がした。僕は掛け軸からそちらに目を移した。それがすっと開くと、そこに立っていたのは使いの女性ではなく、もっと年配の、六十歳くらいの女性であった。
女性は差し向かいに座った。その座り方は、いかにも作法にのっとった隙のないものだった。いでたち、立ち振る舞いとも、古風な匂いを漂わせていた。この人が大奥様、僕のおばあさんか。
「久しぶりですね、栄作。それから芙美さんも」
祖母は両親のそれぞれの顔を見て言った。
「お義母様もお元気そうで何よりです」
と、母は返した。その再会を懐かしむ言葉は、雰囲気的にはぎこちないものだった。父は何も言わず、超然と座っていた。たまりかねて母が切り出した。
「この度はお義父様のご不幸、真に心痛み・・・」
「形ばかりの挨拶は結構。こちらも慰めてもらうために呼んだのではありませんから」
祖母の言葉は少し手酷かった。しかし口調からいうとそれほど強いものではなかったので、会話は停滞なく進んだ。次に口を利いたのは父だった。
「何故俺を呼んだ」
「父親の葬儀に顔を出さない長男がありますか」
「俺はその父親に勘当されたんだ。死んだところで俺には関係ない」
「勘当はあの人の一存です。本人が亡くなった以上約束などないも同然。私を含め他の親族も承知の上です」
「どうだか」
父はどこまでも本家と自分を切り離したがるようにみえた。単なる子供っぽいわがままのような、いつもの父らしくない態度だった。勘当と言う言葉の意味を何となく知っていた僕は、それみたかと自分の直覚の正しさに多少の喜びを感じていた。
「私の言葉の真偽は、後で分かるでしょう。とにかく、当主の亡くなった今、結界結護の力の衰退を止めるのは至難。率直に言います。栄作、力を貸してくれますね」
祖母は父の顔をじっと見守った。父の表情は少し曇った。不快とも嫌悪ともとれないその表情を見たとき、僕はさっきの車の中での出来事を思い出した。あのときの父の表情と全く同じだったのだ。
「何を今更。それに親父のことだから、ただ死んでいったわけじゃないだろう。俺の手まで借りずとも・・・。とにかく家族には迷惑をかけられない」
そう言うと、父は僕のほうを見た。父の視線が僕に向けられたとき、すでにその曇りは解かれていた。
「まだ話していないのですね」
祖母が言った。父は前に向き直った。
「究作には関係のないことだ」
「いずれは話すべきときが来ます。それが早いか遅いか。遅ければ危険が増すだけ。あなた一人の力ですべてを守れるはずはないでしょう。究作には折月家の一人として、私たち一族の成すべき宿命を知ってもらわなければなりません。それが亡き当主の所存でもあるのです」
「親父の、望んだことだと言うのか」
「あの人は無論、死に臨むに当たって、何も講じていなかったわけではありません。これから起こりうる厄災を如何に鎮めるか。それにはすべての一族の力を集めなければなりません。詳しい話は明日、遺言状の公開の席でするつもりです。ですが一つだけ言っておくとすれば、鍵を握るのはあなたの息子、究作なのです」
「だから全てを話せと?だがこいつに力の兆候がなかったのは、あの時わかったはずだろう」
「そう、あの時は」
そう言いかけた祖母は、その後に繋ぐべき言葉を飲み込んだ。
「どういう意味だ」
父は渋い顔をして聞いた。
「とにかく、詳しいことは明日にしましょう。遺言状にすべて書いてあります。折月家について究作にどこまで話すかは、あなたに任せましょう」
僕は一連の会話をただ呆然と聞いていた。折月家の宿命、厄災、結界。耳に入った単語をかいつまんでも、知識も経験もない僕にはきっと分かるはずもなかった。僕が鍵を握るとはどういうことだろう。そうこう考えているとき、不意に祖母が話しかけてきた。
「究作。おおきくなったねえ。あなたはもう憶えてないでしょうけれど、わたしはあなたのおばあさんですよ」
そう言った祖母の顔は、ごく普通の、孫に相対するときの和らいだ笑顔であった。急に見つめられた僕はこそばゆい気がして、あてもなく目を泳がせた。
「あなたにはこれから、折月家の運命を背負ってもらうことになります。何も知り得なかったあなたは、今まできっと感じたことのない苦しみを、これから幾度となく経験するやもしれません。それでもあなたにはやってもらわなければならないのです。『白き闇』の力を受け継ぐものとして」
そう言うと、祖母は席を立ち僕の目の前へ座った。
「蒼碧という名の血、白き闇の血統、すなわち『宿星』の正統なる後継者。眼元があの人によく似ている。きっとすばらしい資質を持っているでしょう。栄作、後はあなたの覚悟だけです。東の離れを用意してありますから、そこでゆっくり話し合いなさい。芙美さんには窮屈な思いをさせてしますね」
「いえ、そんなお義母様。お気遣い痛み入ります」
「親父を拝ませてもらえるか」
「故人には明日でも会えましょう。今はあまり屋敷を歩き回らぬほうがよい。あなたの感じているとおり、あなたたちを快く思わぬ人も少なからずいますから」
それから祖母と両親の間で、葬儀の次第のことなど二、三話があったが、どうでもいいことなので省いておく。七畳の部屋を出て離れへ通されたときは、すでに十時を回っていた。眠い目をこすりながら、僕は父と縁側に座った。月のほのかな光が、庭の池の水面をきらきらと反射しているのを、二人ともじっと眺めていた。