両親
家に着くと意外なことに、玄関の鍵が開いていた。今の時間、両親とも働きに出ているはずなのだけれど。
「あ、おかえり。ごめんなさい、今息子が帰ってきたので、ええ、また後ほど。はい、失礼いたします」
母親はリビングで電話をしていたところだった。受話器を置くとせわしない様子で、和室のほうへ入っていった。
親は自分より遅く帰るものだと、幼い頃から思っていた僕は、今の状況を雲を掴むような気持ちで感じていた。
「早くこれに着替えて」
和室から戻ってきた母の手には、今まで着たことのない真っ黒な洋服があった。そういえば今母が着ている服も、同じく黒一色で統一されている。それは喪服と呼ばれるものであったが、経験のない僕には何の意味があるのかわからなかった。
言われるがままに僕は喪服に着替えた。ネクタイはしたことがなかったので、母にやってもらうしかなかった。そうしている間に、父親も帰ってきた。
「お、帰ってたか」
僕の顔を見るなりそう言うと、父は母に準備はできたかと尋ねた。父は父ですでに着替えていた。二人の間には二言、三言会話があった。それはさっきの母の電話の内容らしかったが、子供の僕には何のことかさっぱりわからなかった。
「じゃあ行くか」
と父が促したとき、要領の得ない僕はここでやっと尋ねることができた。
「どこに行くの?」
それを聞いた父は少し驚いたようだった。そして、まだ言ってなかったのか、という目つきで母を見た。母はその視線に気づいたのか、父のいないほうへ顔をうつむかせた。父はしかたないなといった様子で天を仰ぎ、「ふん」と鼻で息をすると、僕と同じ目線までしゃがんでこう言った。
「お父さんのお父さん、つまりお前のおじいさんが亡くなったそうだ。だから今からおじいさんの家に行ってお葬式をするんだ。わかったか?」
僕はわかったと言う代わりに、二回頷くような素振りで答えた。しかし実際は、頷くのを一瞬ためらっただけだ。
誰かが死んだら葬式をする、それは理解できる。問題はそれが誰なのかということだった。おじいさんと聞いて、瞬時に僕は、それが誰なのか理解できなかった。なぜなら自分のおじいさんのことなど、まったく記憶にないからだ。忘れたわけではない。本当に見たことも会ったこともないのだ。おじいさんに限らず、親戚と呼べる人との付き合いは、全くといっていいほど僕にはなかった。
父親は建設会社に勤める普通のサラリーマンである。その会社は母方の親類の人が経営していて、その人の好意で入らせてもらったらしい。そういった意味での関わりはあるのだけれど、父親のほうの親類とは何の縁もない。父と母は高校時代からの知り合いで、大恋愛の末の結婚だったという。酒が入ると父は、よくそのことを僕に話したがった。だからというわけではないが、僕は両親の恋愛結婚の裏に、或る推測を試みていた。つまり、二人は周囲の(勿論親戚の)反対を押し切って、婚姻関係を結んだのだと。それで今まで、親戚筋に冷たく見放されてきたのだろうと。
おじいさんが住んでいた家のことを、父は「本家」と呼んでいた。本家へ向かう車の中で、僕はその仮定をいろいろ咀嚼していた。さっきから黙して何も語らない母。そこから照らし合わせると、本家と母の間に何かがあったと思われる。運転しながらそんな母に言葉で気遣う父。優しさの中にも筋の通った頑固さを併せ持つ。自分の信じたものは必ず守り通す。そんな父だから、母を守るために家を飛び出したのだろう。
「究作を連れて本家に行くのは何年ぶりかしら」
母がぽつりと言った。
「たしか三歳、いや四歳の時か。本人は覚えてないだろうけど」
そう言うと、父はバックミラーで僕の顔をちらっとみた。僕は何とも言えなかった。
本家に行ったことがある?僕が?記憶の底を探ってみたその時、不意に僕の頭の中に神篠由宇の姿が浮かんだ。
「ワタシはアナタのお姉さんよ」
頭の中の彼女は、そう言うと再び姿を消した。何故急に彼女を思い出したのか、またその声はついこの前の記憶なのか、それとももっとずっと以前のものなのか。流れ去る景色を見ながら、僕はしばらく、ぼーっと考え込んでいた。「アナタの両親も親戚も知らないフリしてるだけ」という彼女の言葉、それも僕の推測に時々働きかけた。僕はそれが両親の「許されざる結婚」に深く関わっていると考えた。また、神篠由宇の正体に近づきつつありながら、近づくことのできない僕は、両親の間に横たわる事象の一部として、その存在を自分の中に置いた。ただこれ以上進むには、本人かもしくは両親に訊問し、告白してもらうしかない。そう思った僕は窓の外から目を離し、前の二人を覗った。
助手席の母はいつの間にか眠っていた。聞くなら運転中の父しかない。僕は詰問の言葉をよく吟味して言った。
「父さん、僕にはキョウダイはいないの?」
しかし父は何とも言わなかった。唐突すぎたのか、運転に集中しているのか、そう思った瞬間、車はガクンッと急ブレーキをかけた。衝撃で目を覚ました母は驚いて、
「どうしたの?!」
と、周りを見回した。
「わるい。赤信号見落とすところだった」
苦笑しながら謝る父。
「悪かったな、起こしちゃって。まだ先は長いから、もう一眠りしておけよ。究作も、今夜は遅くなるぞ。よく寝とけ」
そう言うと、父は再び車を走らせた。母は交代しようかと持ちかけたが、父は大丈夫だと言って運転を続けた。
思いもよらないアクシデントのせいで、僕の質問は置き去りにされてしまった。もう一度聞こうとして口を開きかけたが、同じ質問をしたところで、またはぐらかされるのではと懸念を抱いた僕は、父の言うとおりしばらく眠ることにした。
しかしながら、あの父の反応は、やはり僕の言葉によるものと考えざるを得ない。キョウダイという言葉は父の神経を確かに震わせたのだ。神篠由宇ははたして本当に僕の姉なのだろうか。受け入れられなかった過去への不安と認められない命の謎を乗せ、車は夕闇を切り裂くように走っていった。