心裏
先生から逃れるように僕は二、三歩退いた。掴んでいた彼女の手に力はなく、するりと僕の肩から滑り落ちた。
「本当、アナタって人は無茶をするのね」
呆れたような口ぶりで僕に言い放った由宇は、その手に持った刀を天井に鋭く突き立てた。切っ先を見れば、何やら長方形の小さな紙切れが刺さっている。次の瞬間二つに割れてひらひらと落ちてきたそれは、本家で目にした呪符と呼ばれるものに似ていた。
「密教系の護法霊符よ。擬似精神に似た空間を作り、そこへアナタを引き込むための媒体。
呪詛をかける、とも言うわね」
刀を鞘に納め彼女は霊符の破片を拾い上げる。それを何気なく見つめていた僕はハッと我に返り、先生の方をにらめ返した。そうして、こみ上げる怒りと疑念とが混じった感情を、喉の奥で押し殺した。
生ぬるい空気が辺りを包み込み、気味の悪い静寂と自分の呼吸だけが数秒の間、聴覚を支配していた。すると、先生の無造作に垂らした前髪の奥で、
「せっかく真実を教えてあげようと思ったのに」
と、嘲るような声がした。
「虚構の中に真実など在りはしないわ。媒体に頼って構築した世界は必ずほころびを見せる
もの。戯言に付き合ってる暇はないの。正体を現しなさい」
憤然とした由宇の言葉が薄暗がりの廊下に響く。
「こんなガキが術者の真似事か。とんだ邪魔が入ったな。まあいい、今度はおマエごと
取りこンでやろうカァっ?!」
様態に似つかわしくない野太い声でうなった彼女に、僕は目を丸くした。男の雄叫びと先生の金切り声、その両方が混じりあった音であった。ユウは僕の前を遮るように立ち、再び刀の柄に手をかけ身構えた。
「やはり操られているようね」
「操る?!」
「ええ、干渉によって精神だけではなく現実の実体にまで影響を及ぼしていると言うこと。
記憶の奥底で眠っていた心の闇にけしかけて、自分の思い通りに行動を導くの。つまり、
彼女の持つ過去の傷を知り、そこにもっとも近しい存在。それが操りし者の正体だと私は
考えているわ」
由宇が説明している最中にも、先生の中にいる何者かは、次の手を繰り出す準備をしていた。薄ら笑いを浮かべながら、
「おマエらが何をしようともう手遅れサァ。一枚や二枚破れようが、どうにもならナイくらい ココの中に霊符を張り巡らしてオいたからナァっ!」
と強気に吹くや、唱文を唱え始めた。奴の言った通り、床、壁、窓、天井など、あらゆる場所でまだ奴の仕掛けた霊符が目に付いた。
奴の言葉と自分の状況にたじろぎ、それでも僕は精神をまた持っていかれないように
気張った。干渉を受けないためにどうすればいいのかは分からないが、とにかく
自分の周りにある現実をしっかりとつらまえていようと必死になった。その時だった。
ユウは全てを見透かしていたかのように、
「そうね、此処がアナタの知っている物理的な現実なら、そうだったかもしれないわ」
と相手の虚をついた言葉を返した。
「……何ィ?」
何かに気づいたのか、奴は辺りを見回し始めた。すると、それまで余裕とも見て取れた表情が、一転して焦りの色に変わった。
「擬似精神?!い、いつのまにっ……!」
にわかに奴の神経は慌しくなっていた。なぜならば、それまでそこにあったはずのものが無いからだ。確かにそこに存在していた幾枚の霊符が、由宇の言葉に呼応するかのように次々と消えていった。
「分かったかしら。此処は私が創り出した精神現実。取り込まれているのはアナタのココロ」
構えを解き、由宇はゆっくりと奴に向かって歩んでいく。容姿からは想像できないほどの威圧感が彼女の身体から出ている。圧倒された奴の身体は反対に後ずさっていく。
「創られた世界はほころびを見せる。それを見つけられれば干渉を断ち切ることも、
逆手に取ることも無理じゃない。アナタが術者であるなら、言わなくてもわかる
ことだけれど。アナタの創った世界はよくできていたわ。そう、北向きの窓から
差し込む太陽さえなかったならね」
そう言われれば確かに。学校という建物の性質上、教室は南向きに、廊下は北側に
窓が配置されている。それはここでも同じだ。あの時僕の顔を照らし出していた斜陽は
北へ傾く太陽から出ていた。
「くっ……、ならばおマエの精神干渉も打ち返すマで……!」
「アナタは密教霊符を使いこなすかもしれないけれど、私も陰陽道、擬似精神の専門家。
そこが私とアナタにおける術者としての能力差。それが分からないほどまだ狂っては
いないはずよ。媒体を使わない純粋な念呪詛を、何のとっかかりもなしに返せるわけ
ないでしょう。これ以上悪ふざけを続けるのなら、こちらもそれなりの手段を選ばせて
もらうわ」
由宇が言い切ると、奴の後ろ側に深緑色の扉が卒然と現れた。僕が取り込まれた世界に出てきた物と同じだ。それだけに、相手に与える心理的重圧は大きい。
全くもって開く気配のないその扉の前で、奴は縛り付けられたように追い込まれていた。
手段という言葉の指すもの、それが封殺だということを僕は咄嗟に感じ取った。狙いすました目つきで、由宇は刀に手をかける。
「選択の余地なし、か」
観念したのか、奴は少し嘲るようにうなだれた。
「解脱する前にいろいろと吐いてもらうわ。倭先生に呪詛を施し、アナタに凶行を
働かせた人物。そして十五年前の事故の事」
「事故?あれが事故だって?」
奴の声色がすっかり変わっていた。そしてそれが誰の声か、僕に分からないはずはなかった。
「その声……三島幸兎君?!」
驚きを隠せない僕はこだまの聞こえるほど声を上げた。
「……君は、なぜ僕のこと知っている?」
「なぜって、ユキの心を借りて僕に会いに来たのは君の方じゃないか」
「ユキ?そうか、今でもまだ理性を保った僕の意識が他にも残っていたんだな」
そう言うと彼は、嬉しいとも悲しいともつかない表情を浮かべた。それから目をすえて、
「忘れていたよ。常に魔性の気が渦巻いていたこの土地でも、あそこだけは全く侵されない。 僕の思っていたとおり、やはりユキは何か特別な精類なのかもしれないな。それを折月君、
今また君が呼び起こしたのさ」
と述べた。僕には彼の言っていることが理解できなかった。言葉につまり、何かしら
出かかった口元を半開きにしたまま沈黙した。するとまた由宇がその疑問の答えを
教えてくれた。
「意思のかけらはどこにでも残るけれど、その全てが認識を共有しているとは限らない。
同じ人のものであっても時と場所、誰の心に宿るかによって全く違った
性質や形になる場合もあるわ。彼女に宿っていた三島幸兎は悲しみの部分が大きい。
そこにつけ込んで呪詛をかけた者が本当の黒幕。そうよね」
話を元に戻そうとする彼女の目は弦月の先のように鋭く光った。