理由
一体ここは何処だろうか。判然としない意識の中、うっすらと目を開けると見覚えのある天井が現れた。
「ここは……教室?」
僕はある教室の席に座っていた。そしてしばらくすると、他でもない四年三組の教室だと感覚で分かった。しかしながら、その感覚はすぐ否定に傾いた。窓から見える風景はいつもと変わらないのに、教室の中の景色は自分の知っているものではなかったからだ。
「そう、ここは四年三組の教室さ」
不意に声がした。それはどこから発せられたともつかない、あるいは自分の中心から響いて出てきたようでもあった。
「でも君の記憶の中の四年三組じゃない」
僕と同じくらいの年の男の子の声で、それは話しかける。
「誰?」
僕はその声の主を探そうと辺りを見回した。
「この声に聞き覚えはないかい」
問いかける声に、僕は記憶の底を引き上げるように考えた。そしてそれが五時間目の前、僕に言付けをしたあの男子の声だと気づいた。
「そう、あの時君に声をかけたのも僕さ」
「君は一体誰。何処にいるの」
依然姿の見えない彼に僕は尋ねた。
「ここだよ」
そう言ったときのその声は、はっきりと僕の正面から聞こえた。あさっての方向を向いていた僕は、すぐさま視線を移した。僕の眼前、机の上には一羽のウサギが鎮座してこちらを向いていた。
「ユキ?」
見覚えのあるその姿に、僕はついそう漏らした。
「ユキか。君もそう名付けたんだね。でも僕はユキじゃない。ユキの意識を通じて僕の遺志を君の中に送っているんだ。ユキの姿を借りている、と言ってもいいかな。ここはその遺志の中の四年三組さ」
「君は……」
「僕が誰かはその内わかるよ。今までもユキを介してちょくちょく君の意識に働きかけていたんだけれどね」
「じゃあ、ユウ姉の言ってた干渉している者っていうのは……」
「ユウ姉と言うのは、いつも君と一緒にいる女の子のことかい? 君の精神を僕の遺志の世界へ連れて行こうとすると、あの子がいつも君を連れ戻していく。よほど君を大切に思っているんだね。どうだい、自分の中に自分以外の意識や記憶が入り込んでくる気分は」
「気づかなかった内は別に……。でも、今はあまり良い気分じゃない」
「よく分かるよ。僕も君と同じ、人の思念を敏感に感じ取れる人間だったから。でも、もう少しだけ付き合ってもらえるかい。別に君に危害を加えるつもりはないよ。ただ、君のその特別な力を信じて、僕の遺志を君に刻み付けておきたいんだ。その後で君がどうするかは、君自身で決めればいい」
「特別な力なんて、そんなの僕にはないよ」
「あるさ。ユキの姿を見られるということこそ、その証拠じゃないか」
「だったら、ユウ姉だって……」
「見えてないよ」
彼の言ったその台詞は、視線を逸してうつむいた僕を驚かせるのに十分だった。
「ユキはただの動物霊じゃない。何か他の生命のような気がしないかい。十五年前の僕がそうだった様に、君は『ユキ』と名付けたし、ユキは君の前にだけその姿を見せる。そこにどんな理由があるのか分からないけれど、ユキが信じた君ならもしかしたら……」
ユキの姿をしたそれがそう言うと、廊下の方でバタバタと足音が近づいてくるのが聞こえてきた。それが教室の前で止まったと思うや否や、扉が勢いよく開いて、
「あ〜! まだここにいた!」
と耳をつんざく様な高い声が教室に響いた。僕がその声のした方を振り向くと、教室の出入り口に膨れっ面で仁王立ちしている女の子を見つけた。黒い長い髪。一瞬由宇を感じさせたが、その声と表情とですぐに人違いだと分かった。けれどもその姿は全く見覚えがないというわけではなく、むしろ僕の良く知っている人に思えた。
女の子は転じてその顔に笑みを浮かべ僕に近づいてきた。
「ねえ、今日も行くんでしょ?」
机に両手をついてそう尋ねた彼女を、僕は不意を食らった表情で見ていた。
「い、行くって、どこへ」
「どこって、いつもの場所に決まってるじゃない。ほら、早くっ」
そう言うと、彼女は僕の腕を引っ張りにかかる。
「そう、あの日もこんな風にあの場所へ向かったっけ」
男の子の声がした。しかしそれはまた、どこからともつかない場所から発せられた。女の子に気を取られている内に、ユキの姿は机の上から見えなくなっていた。
女の子が連れ出そうと引っ張るその方向、開け放たれた教室の出入り口が異様に光っているのが見える。
「ほら、行こ!」
なお催促する女の子。光は更に強くなってくる。
「ちょ、ちょっと待っ……うっ!」
あまりの眩しさに、僕は手で遮ろうとした。光に包まれること数秒、辺りがまた普通の明るさになると、僕はゆっくり瞼を開いた。
「ここは!」
身体と頭とを回転させながら、僕は周りを覗った。校舎裏だ。さっきまで自分がいたはずの。
「安らかにお眠りください」
僕の背後、大樹のたもと。女の子がしゃがんでそう呟いていた。僕が振り向くと、彼女もまた立ち上がってこちらを向いた。
「偉いよね、幸兎君は。飼育委員でもないのに、動物たちのお墓を作ってあげるなんて。私も見習わないと」
「幸、兎」
彼女の呼んだその名前に僕が反応していると、
「三島幸兎。それが僕の名前さ」
と、再びあの男の子の声が、今度は後ろから聞こえた。顔だけをそちらに向けると、ユキの姿が僕の目に映った。
「あのね、幸兎君」
女の子ははにかんだような表情を浮かべて言った。
「明日、学校休みだけど暇?」
そう尋ねると、今度は少し悲しさを感じさせる表情に変わった。
「あのね、昨日家で飼ってたカナリヤが死んじゃったの。だからね、明日一緒にお墓を作って欲しいんだ。ここに埋めてあげれば、お友達がたくさんいるから寂しくないと思って。…ダメかな」
そういうことか。僕の中でようやく全てが繋がった。倭先生の言っていた友達、それは十五年前に亡くなった三島幸兎その人だったのだ。
「分かってくれたかい」
ユキの姿をした彼は言った。
「そして彼女の言うとおり、次の日僕は学校へ向かった。その途中で……」
「交通事故。じゃあ先生の言ってた学校の精っていうのは」
「忘れたいつもりなのさ。軽薄な物理的現実の極端に生じた歪み、遠い記憶のその全てに虚構を求めて。彼女は今でも僕の夢を見続けている。自身を追い詰めているとも知らず、他個を破壊し続ける。……あるいは僕が死んだのを、自分の所為だと責めているのか」
静寂の中、ユキ、いや、三島幸兎の声がそこに響く。真横から差す西日に、二人の影が細く伸びていた。それがグルグル回りだすと地面一体が影に覆い尽くされ、僕の身体はズブズブと沈んでいった。押し黙ったまま下を見ると、もう一人の自分が見えた。目を瞑り、静かにそこへと下りていく。気がつくと、僕は校舎裏の樹の下に座っていた。再び現実の世界へと戻ってきたのだ。
目の前にはまだユキの姿があった。
「伝えたいことはこれだけだ。僕がユキに遺した意識を、ユキが自身の判断で君に見せただけのこと。ユキは今から彼女に僕の遺志を伝えに行く。君という存在に出会えたおかげで、ユキは自分という存在を実現できるようになれたからね。お礼を言うよ」
「行くのかい、先生のところへ。まだ僕にできることは?」
「彼女を夢から覚まさせてあげられるのは僕だけだ。君のお姉さんの言い草じゃないけど、君を危険な目に遭わせたくない。君はいい人だ。だから、これからもっと長く生きて、たくさんの人と出会い、そしてその人たちを幸せな気持ちにしてあげるべきだと思う」
そう言うと、ユキは僕に背を向けた。
「長かったよ、ただ望むだけの時間は。でもようやく全てを終わらせられる」
そう呟いたのを最後にユキは駆け出すと、校舎裏を出るあたりで吸い込まれるように消えていった。
独りになった僕はしばらく呆然と立っていた。三島幸兎の精神が解脱した今、僕の中には倭先生に対する執着するような感情はもはやなくなっている。だが、自分が今どうするべきか、由宇の言っていた「自然体」で判断出来得る立場にようやくなれたのだった。