先生
市立若草小学校。人口十五万人を抱えるK市の中で、二番目に古い歴史を持つ学校だ。僕がそこへ転校してきてから二週間、未だ親しい友達はできない。それでも、クラスの話の輪には何となく入れるようになった。それというのも、みんなの話している怪奇話の中に、例の髪の長い女の幽霊のことが出てくるからだ。
桜の花びらも半分散りきったある日の午後だったと思う。次の授業の準備をしていた時、
「出たよ、また!昨日、忘れ物を取りに戻った三年生の子が腕を捕まれたって」
教室に入ってきた女子が、誰に向かうでもなく突然叫んだ。それを皮切りに教室中の生徒が話しに加わる。僕は自分の席に座ったまま、耳だけをそちらに向けていた。
「今日で三日連続だよな」
「二組で飼ってたミドリ亀が死んじゃったのも、その幽霊のせいだって噂だぜ」
「本当に幽霊なの?誰かが面白がって悪戯してるだけじゃないかしら」
「じゃあおまえ、確かめてみろよ。放課後まで残って」
「いやよ、幽霊じゃなくったって、変質者だったりしたらそっちのほうがよっぽど怖いわよ」
なるほど、常識的に考えてみれば、あるいは欧米並みに犯罪の増えてきた昨今の日本を鑑みれば、確かにあの女子の言うとおりかもしれない。だがそれは、彼女を含めたこの学校の生徒の大半が、あの少女の存在を知らないからにすぎない。僕が出会った謎の少女、「神篠由宇」やはり彼女がその幽霊の正体なのだろうか。だとしたら僕は幽霊とキスしたことになる。しかしながら、彼女の唇の感触は、その温もりとともにはっきりと、僕の脳裏に焼きついていた。そしてそれは、れっきとしたヒトに在るべき温かさに違いなかった。
僕は無論あの日からもずっと、少女に会うつもりで例の場所へ通っていた。その次の日は日曜日だったと思う。学校は休みだったが、彼女は何者なのかという好奇心が、僕の足をあの場所へ運ばせた。その日の半日はそこで過ごした。だがとうとう神篠由宇の姿を見ることはできなかった。そのかわりというか、その日以来夢の中でなくても、小さな動物たちが僕を迎えてくれるようになった。翌日もホームルームが終わるなり、すぐに教室を飛び出して向かった。そしてその日も彼女は現れなかった。翌日もそのまた次の日も同じだった。
「また、ここで会いましょう」
動物たちの相手をしながら、去り際の台詞を思い出して、僕は訳もなく不満を感じていた。その時の僕の心持としては、彼女とは切りはずせない絆で繋がっているつもりでいた。それがために毎日、根拠のない期待と不満を繰り返し、そして彼女から離れる気にはなれなかった。もっと近づきたくなった。そうすれば彼女が、その存在の「答え」とともに、僕の前にいつか現れるだろうと信じていた。
さてその日の放課後、やはり僕はあの場所へ行くことにした。神篠由宇に会えるとするならば、あそこしかないはずだ。会ったら今度こそ彼女の言葉の真相を確かめなければ。そう思う気持ちと同時に、ただ彼女に会いたいという願望が僕の中に存在していた。後で思えば、願望のほうがはるかに強かっただろうと思う。
足早に階段を駆け下りて昇降口を飛び出す。校門の手前にある理科学習用のジャガイモ畑の右を通って、藤棚の奥にある狭い道をさらに奥へ進む。校舎と壁の間にあの大きな樹が見え隠れしてきた。ここを抜ければもう少しで開けた場所へ出られる。が、その手前である異変に気づいた。人の気配がする。一人ではない。五、六人が集まって、あの大きな樹の下で何か喋ってるのだ。その中に大人の声も混じっている。聞き覚えのある声だ。たしか二組のクラスの担任の、
「倭先生」
校舎で隠れたその奥で生徒が呼びかけた。そう、やまと先生。若い女の先生だから少し印象に残っている。
「先生、なんで亀太死んじゃったの?」
「うーん、寿命だったのかしら、ねぇ」
「でも亀って一万年生きるんでしょ?」
「じゃあ、今年で一万歳だったのかな」
などという話し声と一緒に、土を掘り返す音が聞こえてきた。どうやらさっき僕のクラスで話に上ったあの亀を、この場所に埋葬しに来たらしい。僕はその二組の人たちの声がよく聞こえる近くまで寄っていった。そうして校舎の出張った柱の影に座って、しばらく様子を見ることにした。
「どうして死んじゃったのかな」
生徒たちはまた、同じ言葉を繰り返した。先生は、今度は何も答えなかった。生徒も話はそれきりにして、土を掘ることに専念した。しばらくして、一人の男子が呟いた。
「こんなところで一人ぼっちで、亀太寂しくないかな」
「一人ぼっちじゃないわよ」
先生はそれ以外何も答えなかった。けっして語気が強かったわけではないが、その声は静かな校舎裏のその場所で、異様な調子で響いた。要領を得なかったのか、男子は何故かと聞き返した。すると先生は、
「ここにはね、他にもたくさんの動物たちが眠っているのよ」
と、落ち着いた声で答えた。僕は一瞬その言葉に驚いた。ここが動物たちの永眠の場所だということを、僕以外にも知っている人がいたなんて。
「私ね」
と、先生はまたきりだした。
「私、この学校の生徒だったの。いつだったか、私の友達がこの場所を教えてくれてね。それから数日して、家で飼ってたカナリヤが死んじゃって、それでその友達と一緒にここに埋めようって約束したの。でもね…、その子は来なかった。仕方なく私は一人でカナリヤのお墓を作ったわ。次の日その子は学校を休んでて、それで私は他の友達に何で休んでるのか聞いてみた。そしたら友達は、そんな子知らないってみんな言うの。友達だけじゃない、先生に聞いても同じだった。今思えば私もその子といつ、どこで知り合ったのか全然覚えてなくって…。不思議な思い出だわ」
生徒たちは手を止めて先生の話に聞き入っていた。僕はといえば、なおさら注意を払わずにはいられなかった。この場所には不思議なことを起こす、何か見えない力が働いているのだろうか。神篠由宇のことを考えながら、僕はそう思っていた。先生は最後にこう付け加えた。
「きっとその子はこの学校に住む精で、私のカナリヤが死んじゃうのを知ってて。それで寂しくないようにってこの場所を教えてくれたんだと思う」
どこまでも幻想的な推測に、生徒たちはそれぞれきっとそうだと口々に言っているようだった。そうしてまた安心して亀太の墓を作り始めた。遺体を埋めるときになって、先生が言った。
「さあ、悲しいけれどまた会える日までさようならって。みんなでお別れの挨拶をしましょうね」
生徒たちは両手を合わせ、黙祷をささげた。その様子を見届け、僕は気づかれないようにその場を後にした。
結局今日も神篠由宇には会えなかった。しかし、はからずも倭先生の不可思議な思い出話を聞けたのは、少女の正体を考えるに当たって多少有益に違いない。そう思う僕の家路への足取りは、いつになく軽やかであった。ただ少し気になったのは、先生が最後に言った「悲しいけれど」という言葉。その言葉のうちには、その意味ほど何の同情も先生には起こってないように思えた。それどころか、生徒が祈り続けている間、先生の口元には嘲笑うようなところが見られた気がした。態度は寧ろ沈んでいたので、僕の見間違いと考えてもよかったのだが。
学校から数十メートル歩いたところで、僕は何故だか不快な胸騒ぎがして一度後ろを振り返った。低く沈んだ五月雨雲に包み込まれた校舎が、異様な雰囲気で佇んでいた。時折吹く強い風が、僕の耳元で不気味にわななく。何だか急に恐ろしくなった僕は、少し駆け足で家路を急いだ。