概念
昭和××年。という事は十五年前の事件だ。もしかしたら倭先生も在籍していた頃かもしれない。四年三組。僕と同じクラスだ。三島幸兎。ユキト。幸せな……うさぎ?そう考えているそばから、
「もしかして折月君も興味あったり?」
と、穂村がにんまりしながら言った。
「あ、ううん、そういうんじゃなくて」
「じゃなくて、何?」
何と突っ込まれても、僕にはそれ以上の考えはない。穂村相手に言葉尻を間違えた僕は少し後悔した。
「折月は幽霊とか信じる方?」
今度は越智が横から聞いてきた。信じるというか、僕は校舎裏に眠るユキや亀太たちと普通に接している。けれど彼らを見ていると、とても幽霊だとは思えなかった。彼らの感触も温もりも「生き物」としての現実味が感ぜられた。
「幽霊って何なんだろう」
僕は思ったままを口に出した。越智も穂村も不思議そうな顔をしていた。
「そりゃあ、死んだやつだろ。死んだらみんな幽霊になるんじゃないのか、なあ」
越智は同意を求めるように穂村のほうを見た。
「なあって言われても。その正体をつきとめる為に、今いろいろ調べてるんじゃない。私は自分で見たものしか信じられないから、幽霊もこの目で見るまでは信じないわ」
「でも目撃情報は今までもたくさんあったんだぜ。腕を掴まれた人だっていたじゃんか」
「それだって怪しいものじゃない。薄暗い廊下でいきなり人と出くわしたら誰だって驚くわよ。私に言わせれば、幽霊なんてのは人が創り出した幻ね」
僕は穂村の言った「幽霊は人の創り出した幻」という言葉にある記憶を有していた。本家に行った日、父が僕に向かって同じようなことを口走ったのはその日の夜のことであった。僕は二人の言葉を並べて見比べてみた。陰陽道の専門家とごく普通の小学生の言ったそれは、重さは違えども、意味合い的には何ら違いを見出すことはできなかった。
「穂村の言うとおり、人間を見てそれを幽霊だと錯覚することはあると思う。でも逆を言えば、幽霊を見てそれを人間だと思うこともあるんじゃないかな」
僕の言った言葉は穂村たちの耳にはすぐに染み込まなかったらしい。「どういうこと?」と当然のように返ってきた。
「幽霊を見て、例えばそれが完全に人の形をしていれば、それを幽霊だと気づかずにいることだってあるんじゃないかって、そう思ったんだけど」
「ふーん、じゃあ折月君は幽霊の存在自体は否定してないわけね」
穂村の論議は信じる信じないというところから、結局出ることはなかった。確かに彼女の言う通りかもしれないが、僕の言いたいことはもっと別の次元に属していた。けれど彼女にそれを理解しろと言っても無理な話だし、実際僕自身も疑問の全体像を把握できていなかったのだから、漠然と「幽霊とは何ぞや」と問いかけるしかなかった。
そういう問題になると、やはり頼るべきところは由宇しかいなくなる。彼女も父と同様、陰陽道の知識を持っているのだから、幽霊に対する考え方も同じかもしれない。そういう懸念はあったが、僕の拙い語畳から殆どを理解してくれる、それが有難いのであった。つまりどんなに理不尽でも、由宇の言葉であれば信じられたのだ。
「あまり感心できないわね」
由宇が言った。
「幽霊について調べるのが?」
約束どおり、放課後僕は校舎裏で由宇と落ち合った。そこで図書室でのやりとりを彼女に話した。越智たちのやっていることが由宇に受け入れられると思えなかった僕は、彼女の台詞に今言ったような反問をしてしまった。
「アナタのことよ。人に意見を求めて安心を得るのは、あまり感心できないって言っているの」
「でも霊とか神秘的なものについては、ユウ姉に聞くしかないと思ったから」
僕の弁明に彼女は首を横に振った
「安易に他人の知識に依存することほど危険なものはない。私が言いたいのはそういうことよ」
「他人を信用するなってこと?そりゃあ、ユウ姉ぐらいの知識があれば、僕だって自分で答えを考えつくことはできるけどさ」
由宇は樹を背にして腰をおろした。彼女が手の甲を差し出すと、一羽のインコが樹の上から飛び降りてその上にとまった。ユキが僕のお気に入りのように、キセイインコの「コト」も由宇とは特別に仲が良かった。
「信用という判断基準自体を持つな、と言ったほうがいいかしら。それに知識があっても、自分自身の答えを考えられるわけではないわ。知識から導き出したものは、むしろ固定観念として自由な発想を妨げることもあるの」
「そう難しく考えると、誰も確かなことは言えないよ」
「それでいいのよ。どんな事象に相対するときでも、体と心共に自然体でいられることが理想的なの。特に『宿星』の運命を背負ったアナタはね」
由宇の言葉は何処までも不規則な直線を描いていた。広大な思考回路の渦の中で漂流している僕は、そこに漂う薄い雲のような彼女の思想に、覚束ない手つきですがりつこうと懸命だった。宙ぶらりんで落ち着いていられない僕の心持は、由宇の言ったような自然体とはまったくかけ離れていた。
「理由と理屈、そして概念があれば事象は起こる。私がそう言ったのを覚えているわね」
由宇はまた話を変えるように言った。仕方がないので僕は黙って頷くだけにした。
「何もないところから生ずる物はない。物理的現実の基本的な法則は、精神や生命意識の世界でも同じであるし、そしてその種の法則は逆説による新しい理念、すなわち『有から無は生まれない』ということを導き出す」
「……どういうこと?」
「例えば『言葉』というものを考えて。今この瞬間、世界中から『言葉』が消え去るとする。けれどもそれは『言葉』そのものがこの世界から消滅するわけではない。なぜなら『言葉』の概念はなくならないから。人同士のコミュニケーション願望という理由があり、遺伝子の伝播と同じ理屈の組織的文化発展があれば、何百年かけようとも人はまた新しい『言葉』を生み出すはずよ」
僕は何だか論議が問題から遠のいていくような気がしてきた。今存在しているものがまったく消えてしまっても、それは形を変えているだけで、概念まで消えてしまうことはない。簡単に言えばそれだけのことだと思う。けれど僕の知りたいことは依然朦朧として見えてこなかった。もどかしいというよりも不愉快のような感情が湧いてきた。
「ユウ姉、やっぱり僕には難しすぎるよ。結局のところユウ姉が幽霊についてどう解釈してるのか、それだけ教えて欲しい」
実際、僕は問題をここで切り上げたかったのだが、僕から持ち出した以上は体裁上、自分から退くわけにはいかなかった。