理屈
息を切らしながら、僕はその場にしゃがみこんでうなだれた。照りつける正午の暑い日差しが、ごちゃついていた僕の脳みそをまっさらにする。
「まさか…」
そう言って顔を上げた僕が目を移したのはあの飼育小屋だった。僕は立ち上がるとゆっくりその方向に近づいていった。コンクリートの壁で遮蔽されて見えなかった反対側に回り込む。
「来たの」
片手を小屋のフェンスに添えて、中をじっと見たままの由宇がそこにいた。息こそ大分整っていたが、心臓のまだ激しく脈打っていた僕は、彼女の素っ気無い言葉にしばらく何も返せなかった。由宇は僕の方を向いて、
「その顔は何かあったって顔ね」
と言った。
「ユウ姉こそ、いきなり僕の教室に来るから…」
僕がそう答えると、彼女はフェンスから手を放して僕の方に二、三歩近寄ってきた。そしておもむろに言い放った。
「それは私じゃないわ」
僕がその文句に理解できなさそうにしていると、由宇は続けて、
「正確には、私の思念の一部がアナタの『ここへ早く行きたい』という願望を介して幻像を見させただけ」
と説明した。一瞬納得しかけた僕だったが、ふと思いとどまった。
「でもあのとき、僕以外の人にもユウ姉の姿が見えてたみたいなんだけど」
「アナタの術者としての能力が僅かに作用したのか、その人たちに少なからず資質があったのか。若しくはこの若草小学校という特異的な場所の影響なのか。理屈的には一概には言えないけれど」
「…けれど?」
「一つだけ言えるのは、アナタを呼び寄せた私の幻像は、私の『アナタにここへ来て欲しい』という思念に他ならないということ」
「うん、何となく分かるよ。あの時ユウ姉が僕を呼んでいる気がしたんだ。それで何故だか分からないけど、行かなくちゃって思って…」
「アナタが宿星であり私が弦月の後継者であるから。それだけでここに来るべき十分な理由になるのよ」
由宇の理屈は僕の想像の及ばないところにあった。それは分からないということではなくて、むしろ考える余地がないということだった。あるいは、彼女のその存在自体が僕の理解を超越しているからかもしれない。僕の身体は由宇のモノ。それ以外の理由を考えつくことを僕にはできないし、考えようとも思えなかった。
「理由と理屈、そして概念さえあれば、どんな事象も存在できるし起こり得る。…それで、アナタはこの場所に何を見たの」
話を本筋に戻すように由宇は言った。会話の角度を急に反らされて、さっぱりしない塊が脳裏にこべりついたままだったが、僕は二時間目に見た人影のことについて話した。すると彼女は「そう」と言ったきり、また飼育小屋のほうを向いてしまった。僕も同じように何もない小屋の中を見た後、しばらくして彼女に尋ねた。
「どうして僕が何か見たって知ってるの」
「私もこの場所に残っている思念を感じたから。でもアナタの見たものとは少し違うみたいね」
「違う…思念」
「ええ。動物たちが襲われ、そして殺された瞬間に遺した意識。私が感じたのは、あの子達の悲しみに満ちた心の叫びなのかも知れない」
「じゃあ、僕の見た女の子の影とは全然関係ないんだ」
「そうとばかりも言えないわね…」
由宇は何かを考えていたのか、その後また沈黙してしまった。次に出てくる言葉を待っていた僕は、横目で彼女の横顔を覗った。もの哀しげな瞳が動物たちの心情を代弁しているようにも見えた。勿論横顔を見ただけで人の心が読める筈もない。由宇が死んでしまった動物の思いを感じてどうしたいのか、そのときの僕には見当がつかなかった。
僕が何も言わずに視線を小屋のほうに移しかけると、由宇は急に表情を改めて、僕にどう思うのかと尋ねてきた。その聞き方はどうにも不明瞭で、何をどう思うのかと反対に質問してみなければならなかった。それが、何故動物たちが悲しみのうちに死んでいったのかという意味だとはっきりしたとき、僕は当然じゃないかといった風に答えるしかなかった。しかし由宇は否定した。
「ここにある思念はその子達の殺された瞬間のものよ。普通なら悲しみよりも恐怖の方が残るはず。そう思わないかしら」
僕はあるいはそうかもしれないと思った。けれどそれが一体何を意味するのかは判然としなかった。
「つまり動物たちは自分たちのよく知っている、それもかなり信頼していた人間の手によって殺された。そういうことにならないかと言ってるのよ」
「犯人は学校の人間?!」
「慕っている人間に裏切られるほど悲しいことはないわ。自分を世話してくれた人ならば尚更のこと」
「飼育委員の生徒…」
「若しくはその顧問。刃物で刻まれたらしいその傷の深さから考えると、大人の犯行と見た方が妥当ね」
「顧問は山村っていう男の先生だよ」
「知ってるわ。六年一組、私のクラスの担任だもの。けれど飼育委員から聞いた話だと、形ばかりの顧問よりも足しげくここへ通った女の先生がもう一人いたらしいの」
由宇の話し終わらないうちに、倭先生の顔が僕の頭をよぎった。
「ユウ姉はその人が犯人だと言うんだね」
僕の声は少し震えた。
「理屈は揃ってる。でも理由が挙がらない限り断定はできないわ」
「まさか、最初から予想してたんじゃ…」
「見方は違えど、アナタもその人に早くからアクセスしていた。無意識のうちに予覚はあったはず。…そうよね?」
由宇は僕の真相意識を無理矢理引きずり出すような目つきで言った。その結論に落ち着くことを、僕は明らかに拒否していた。しかし明らかでありながら、倭先生の思い出話さえも、もしかしたらどこかで疑っていたのかもしれなかった。僕は急に悲しくなった。
「信じられない、いいえ、信じたくないのかしら。裏切られて悲しくなるのは、動物たちだけじゃないものね」
校庭は給食を食べ終えた生徒たちでにわかに賑わってきた。真ん中に陣取ってドッジボールをしている男子。トラックの外で縄跳びをしている女子。体育館横では一輪車の練習をしている人もいた。けれど飼育小屋に近づく生徒は誰一人いなかった。
「じゃあ、私は戻るから」
そう言うと、由宇は僕の横をすり抜けていった。僕は振り返って後姿の彼女を呼び止めた。
「一つだけ聞かせてほしいんだ。ユウ姉は一体どうしたいの。死んでいった動物たちを」
「前にも言ったように、私はこの手に幸福というものを預かっているの。悲しみに彩られた魂だって、幸せを得る権利を有する。私の成すべきことはそれを現世に具現化するだけ」
終始後ろ向きのままだった由宇は、顔だけ少し僕の方に向けた。そしてこう続けた。
「もうこれ以上あの人に近づかない方がいいわ。次の犠牲者はもしかしたら動物とは限らないかもしれない。だから、後は私に任せて」
僕の軽率な行動を戒めるように言い放つと、由宇は校舎の方へ帰っていった。
死んでいったものの幸せを願うだけなら誰でもできる。由宇が言っていたのはそれを表現すること。死んでしまった動物たちの幸せが何なのか知っていなければきっとできないことなのだ。由宇があのとき何故お墓を作ってあげたいと言った僕をたしなめたのか、ようやく分かった気がした。そんなものは幸福でも何でもない、やはりただの自己満足でしかなかったのだ。
幸せって何だろう。自分の望んだことが叶うことだろうか。僕だって幸せだと感じるときはある。けれどそれは僕だけの感覚であって、世間一般の誰彼には当てはまらないかもしれない。感情や表情を出せない動物の幸せなんて、尚更分かりようもない。自ら幸せを叶えることができないものもいるのだ。ここの動物たちは死んでしまったために。由宇は……彼女はそれ以上の強い信念のために。
そんなことを考えながら、僕は昼放課の終わるまで、飼育小屋の中をじっと見つめていた。そして数日前まで元気に走り回っていた動物たちの姿を、そこに思い描いた。気づかないうちに、僕の頬には涙が流れていた。