授業
二時間目、国語の授業。漢字の書き取りを指示され、生徒は皆黙々と筆を持つ手を動かしている。かつかつと鉛筆の芯が机を叩く音だけが教室に響いていた。
少し早めに終わった僕は、「ふうっ」と一息ついて筆を置くと、右掌の側面に付いた汚れを左手でごしごしと拭き取った。そうしてそのまま肘をついてしばらくその教室からの景色を眺めるのだった。
「人の思念はどういう形であれ残るものよ」
その朝由宇が話していたことを、僕はぼんやりと思い返していた。
僕は生命上のあらゆる思想において由宇から多大な影響を受けたと思っている。今朝の言葉はその最初のものであり、今でもとりわけ印象に残っているものでもある。とは言っても、そのときの僕としてはそれほど深く考えてはいなかった。言わずもがな、「思想」と言うものは自分自身の経験から生み出されるものであり、他人から聞いたものはただの「知識」でしかないからだ。
由宇がどういった経験からそこへ辿り着いたか。僕はそればかり考えていた。彼女は人の思念が心を惑わせるとも言っていた。彼女の「人の想い」というものに対するこの断定的な意見は、一体何処から来るのだろう。ただ生前のおじいさんの意思を通じて、「弦月」の後継者に育てられた結果なのだろうか。
由宇は理屈で物事を考える人だった。彼女の陰陽道の知識と能力さえあれば、自然とそういった結論に落ち着くものだろうか。僕にはきっとそうだと言えなかった。現に僕が今授業で書いていた漢字でも、使う機会がなければいずれ忘れてしまうだろう。それと同じく陰陽の理も何かしらの事象に遭遇しなければ、神様でもない限り理論づけられるはずはない。由宇は人間だ。たとえ幽体離脱が任意にできたとしても、僕の目に映る彼女は確かに僕と同じ人間に違いなかった。
校庭は存外静かなものだ。この時間はどこのクラスも体育の授業をやっていない。ひっそりとしたグランド。普段なら不定期的に吼え猛る雄鶏の声が聞こえるのだけれど。
左手前に目を移すと、今は何もいない飼育小屋が半分ちょっと見える。あれから一週間近く経って、事件が少しずつ過去のものになっていく、そんな雰囲気も流れはじめてきた。警察らしき人影も最近は見られなくなって、別段取るに足らぬ景色が広がっているだけだった。窓枠に収められた風景画のように、揺らぐことのない空間。しかし静寂の時間は突然に崩れた。
額縁の右上からツバメらしき鳥が一羽、サッと滑るように額面を横切っていった。それを追いかけようと視線を上げたその時、不意に飼育小屋の中で黒い影が動くのを見たのである。何だろうと僕はまたそちらに目をやった。その影は人のように見えなくもなかった。もしくは警察の人だろうかと思ったが違うようで、背格好からして女の人みたいである。それも僕と同じくらいの年齢の。
注意深く観察していくうちに、僕はまさか由宇じゃないだろうかと思えてきた。無論今は授業中だし、この四階からでははっきりとは確認できない。けれどもあの見慣れた長い髪は確かに僕の記憶認識に訴えかけるのだ。次の瞬間その人影はしゃがんだのか、ふっと校舎の陰に隠れてしまった。構わず僕は席から腰を浮かせその姿を追いかける。
「こらっ」
ペシンッと頭を叩かれ、僕はしりもちをついた。振り向くと出席簿を掲げて仁王立ちする倭先生がそこにいた。
「自習だからって勝手に席を立ってはいけませーん」
先生はおどけるように戒めた。クスクスと声を殺して笑うクラスメートたち。恥ずかしさから縮こまる僕を尻目に、
「ほらっ、みんなも静かに。終わった人には新しいプリントを配るからね」
と、先生は生徒を黙らせるための次なる手段を繰り出した。プリントを取りに教壇へ戻るその隙を見て、僕はまた飼育小屋を上から覗いた。しかしながら、そこにはもうあの人影はなかった。
この日、担任の先生が急病ということで、他のクラスの先生が交代で監督しに来ていた。そういう訳でこの時間は倭先生に受け持ってもらっていた。噂では少し厳しい先生だと聞いていたが、成程、確かに教師的な立場を全うしているに違いなかった。それでも生徒と連れ立って亀太の供養をしていたというかねてからの記憶が、僕に先生の違った一面の印象を与えていた。そして先生の思い出のことも、由宇の言っていた「何か」と関係がありそうで気になった。僕は使命感から、倭先生を調査対象として追いかけることにした。
終鈴の後、僕は課題で分からなかった所の聞くフリをして先生に近づいた。唐突な訪問に少しだけ驚いた顔をした先生だったが、持ち前の気さくさから特にためらう素振りもせず対応してくれた。適当に質問を済ませてから、それとなく聞きだしてみた。
「先生ってこの学校の生徒だったんですね」
「あら、よく知ってるわね」
「先生のクラスにいる友達に聞いたんです。先生の思い出のことも」
無論僕には他のクラスに友達などいるはずはない。話の内容の半分はおよそ嘘で固めていた。嘘をつくことに慣れていない僕の声色は、自分でも分かるくらい終始強張っていた。それが先生にどう映っていたかは分からないが、目上の人に対する緊張だと判断されていてもおかしくはなかった。
先生から新しく聞き出せたのは、この学校の生徒だったとき飼育委員だったこと。カナリヤの一件以来、動物が死んだら必ずあの場所に埋めていたこと。そして去年まで飼育委員の顧問だったこと。それだけだった。これでは少し物足りないと思った僕は、
「実は僕も、そこで不思議な女の子に会ったんです。もしかしたら先生の言う学校の精なんじゃないかなって思うんですけど」
と由宇の虚像をちらつかせてみせた。先生は笑って、
「あら、そうなの。私の会った精は男の子なんだけど。でも精っていうのはいろんなものに形を変えるしね」
と言った。先生はあの時ただ「友達」と言っていただけなので、僕はそれが女の子だと即断していた。だから男の子だと知ったのは意外な発見だった。
「また何か分からないことがあったら聞きにきなさいね。学校の精のことも気になるし」
そう言うと、先生は教室を出て行った。