少女
あれはもう十年くらい前のこと。桜舞い散る四月初旬のころだった。
僕は自分の通っていた小学校のとある場所で昼寝をしていた。新学年の節目、僕は転校してきたばかりで、親しい友達もおらず、部活動もこれといったやりたいこともなかった。ただ本を読むのが、好きではないが暇つぶし程度にはなった。だから放課後は大概図書室に行って本を借りては、校舎の周りをダラダラ歩いて、最後に今いる場所で昼寝をするのが日課だった。
そのとある場所と言うのは、学校の敷地の北西側にあって、校舎と外壁の間にある、いわゆる校舎裏と呼ばれる場所だ。校舎裏とは言え、乗用車が三台以上は入るくらいのスペースと、暖かい午後の日差し。そして何故か分からないが芝生さえはえていた。僕はこの居心地のいい場所を転校二日目にして見つけてしまった。幸か不幸か、それ以来毎日ここに通った結果が僕を孤独少年にさせたのだった。が、実際それほど僕は孤独を感じているわけではなかった。と言うのも、両親が共働きで、一人でいることには慣れていたからだ。それにもともと人見知りをする僕は、無理に友達を作る勇気もなかった。
さて、その「居心地のよい場所」には一本の大きな樹があった。太い幹から伸びる枝は、壁を越えて敷地の外までもその先端をのぞかせていた。葉桜さえまだ見られないのに、この樹だけは生きる時間が違うかのように、青々とした葉をしげらせていた。僕はその樹の根元を背にして、図書室から借りてきた本を睡眠導入剤代わりに、うとうとするのだった。別段昼寝するほど眠いと言うわけでもなかったのだけれど、僕にはちょっと特別の理由があった。というのも僕がこの場所を見つけてから数日たったある日、その場所で顔見知りになった一人の少女がいて、名前は聞いていないのだけれど、大概は僕が夢うつつとしている間に、いつの間にか隣に座っていたからだった。そうして彼女は、僕が持ってきた本を断りもなく、手に取って読んでいるのだ。最初こそ吃驚したが、僕の慌てふためく様子にもまったく動じない落ち着きすぎた態度に、人見知りする僕の性格もあいまって、口をきくことはできなかった。その後何度か会っているのだが、そのとき見ていた夢(うたたねだったから半夢、半現実のような感覚だが)には必ず動物、殊に学校で飼育されているウサギやニワトリ、インコ、果てはメダカといったものがでてくるのだった。相変わらず話しかける勇気もないのだが、今日あたりまた会えるだろうかと、少し期待したような心持でうとうとし始めると、何やら白いフワフワしたものが、ゆらゆらと僕の目の前を通り過ぎていった。何だろうと、僕はそれを目で追いかけた。きっとその白いモノが、何かしらの生き物に変身するに違いないと、見失わぬようにしっかり、といっても意識の判然としない夢の中の出来事だけれども、見張っていたが、まったく変化は起きない。そのうちに何かが起こるだろうと、僕はじっとして待っているのだった。
だけれど、「白いモノ」はいっこうに変化を見せない。それで、僕は何となく面倒くさくなって、目線を逸らしてうつむいた。そのときだった。僕はふと、僕の名前を呼ぶ声を聞いたのだ。初めは僅かに聞こえる程度だったが、二度三度と聞くにつれ、やはり僕の名前を呼んでいることがはっきりと聞き取れてきた。誰だろうと、また視線を上げるとそこには一羽の白いインコが、羽は広げているが、羽ばたきもせずに宙に浮かんでいたのである。不思議なことがあるものだ(無論夢の中のことなのだが)と、しばらくはそのインコを眺めていると、そのうちそれが、だんだんと人間の顔に見えてきて、なお変てこりんな気分になってきた。するとそこへまた、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。はたしてそれはそのインコから発せられたのだろうか、否、もはやそれはインコではなくヒトの顔となっていた。はっと目を覚ました瞬間、僕の目の前にあったのは、いつもなら隣に座っているはずの少女のそれであったのだった。伸ばした僕の両脚の上に腰を下ろして、あのいつもの落ち着き払った表情で僕を見つめていたのだ。あまりの唐突な出来事に、何事かと考える余裕もなく、僕はただ黙ったまま、僕の名前を囁く彼女の唇の動きから目を移す気になれなかった。爽やかな春風が、彼女の背中まで伸ばされた長い髪の間を抜けていく。つられて揺れ動く髪が、僕の頬をかすめていた。
長い髪の少女で思い出したが、先日クラス中が妙な噂話で騒がしかったのを覚えている。何でも、別のクラスの生徒が幽霊を見たとかで、
「何年か前に交通事故で、この学校の生徒が一人死んじゃったんだって。私、お兄ちゃんから聞いたの」
と、一女子生徒。それを受けて、すかさず男子の一人が話す。
「女のお化けらしいぜ。長い髪の毛だったって言ってた」
そのころは、そういった類の話が流行っている時分で、花子さんやら口裂け女やら怪談怪奇話が、生徒の間で挨拶代わりに交わされていた。長い髪の少女の幽霊も、そういった中での一噂だったので、僕はそのときは深く気にも留めずにいた。だが、今こうして目の前にいる少女が、その姿かたちからして、はたして噂の幽霊のそれと似ているという事柄が、彼女の正体に大きな関係を持っていたことが、後になって分かったのである。
ともかくとして、僕と少女はその体勢のまま一分ほどお互いを見つめあっていた。密着感というか、彼女の「体重」というものは何故か感じられなかったが、乗りかかられている両脚どころか、全身が金縛りにでもあったかの様な束縛間を、僕は抱いていた。目線も逸らすことができないし、何か喋ろうと思えど、激しさを増していく鼓動に、息切れすらしてしまいそうになる。そのとき、少女のほうが先に口を開いた。
「アナタ、寂しいのね」
彼女の声を聞いたのは、無論今日が初めてである。落ち着いた表情を一層引き立たせる声調、その音を発する口元に、思わず視線が吸い寄せられる。僕がまだじっと黙ったままにしていると、彼女は再び僕の名前を呼んだ。はっと我に帰って考えた僕は、ようやくのことで話しかけることができたのだった。
「どうして、僕の名前を…」
名札は付けていなかった。他に名前の書いてあるものもないはずだった。すると、彼女はこう答えた。
「自分の弟の名前を知らないわけないでしょう」
そう言うと、彼女の口元には僅かながら微笑んだような動きが見られたような気がした。僕は苦笑しながら、
「弟・・・って、僕には姉なんていない」
「いるわ」
僕の否定をさえぎる様に彼女は言った。
「アナタが今まで知らなかっただけ。アナタの両親も親戚も知らないフリしてるだけ。ワタシはアナタのお姉さんよ」
と、彼女は僕の顔を覗き込み、僕は思わずのけぞった。だが不意に動かした僕の手に、何か触れるものがあった。それは、僕が図書室で借りてくる、そして少女がいつも読んでいた睡眠誘引道具の本であった。僕はその本のほうを向いてしばらく見つめていると、なるほどそうか、図書カードに自分で記入してあったことに気づいた。彼女もまた、僕と同じくその本を眺めながら、
「アナタが連れてくるのは、いつも同じお友達ね。私は全部読み終わったのに」
と、皮肉の様な呆れた様なことを言い放つ。実際、その本は、僕にとってはただの「寝具」でしかないわけで、それでなくとも、純文学というまったく興味のないジャンルの本なのだ。読んでも大抵二、三ページで睡魔に襲われる。だがそんなことを言い訳したところで、何の意味もないことを分かっていた僕は、ただ黙ってじっと本だけを見ているのだった。
僕たちは、そうして、申し合わせたように同じところを眺めるだけで、ただただ時間だけが過ぎていった。そのとき、僕が頭の中で考えていたのは、今ではもう忘れて覚えていないのだけれども、やはり、彼女が一体何者なのかということを、いろいろと考察していたのだと思う。彼女の言うとおり、本当に僕の姉?それとも噂の女の幽霊?けれども、それを聞いてみるとなると、なぜだかはばかられる気がして、ついぞ話しかけることはできずにいた。だが、いつの間にか少女の視線は、再び僕のほうに向けられ、つい僕も彼女の方を向いてしまった。二人の顔の距離は、さっきより近づいているようだった。
「寂しいのね」
と彼女がまた囁くと、僕は少し間を置いて答えた。
「どうしてそんなこと言うんだよ。そりゃあ毎日一人でここに来てるけどさ」
「寂しいからここに来る、そうでしょう? 否定することはないわ。私も寂しいからここに来ているの。アナタがこの場所を見つけるずっと前から。ほら、アナタだって感じるでしょう。小さな生き物の気配、囁き、温もり」
「そんな! だってあれは僕の夢の中のことじゃないか」
「夢じゃないの。現実にあの子達はここにいるの。アナタが今座っている地面の下で眠っているのよ。あの子達はね、寂しがっているの。生きていた間ずっと人間に育てられて、人間の温もりというものを知っている。死んでしまってもその温もりを忘れられないの。けれど、誰も死んだ生き物の世話なんてしない。ここに来るヒトなんて誰もいなかったの。いなかったのだけど……アナタだけは違った。アナタだけは変わらずに来てくれたわ」
「でも、僕には、そんなつもりはなかった」
「それでもかまわないわ。アナタがいてくれたおかげで、この子達の喜んでる姿が見られて私も嬉しかった」
「……」
僕には彼女の話がにわかに真実だと思えなかった。自分のすぐ下に、死体が埋まっていると聞けば、なおさら不気味である。けれども、たとえ霊魂にしろ、夢に出た動物たちの幸せそうな表情は、たしかに僕の心に多少の温もりを与えてくれていたに違いなかった。そして少女としても、同じ気持ちになっているのだろうと僕は思うのだった。当の彼女は、相変わらずの澄ましたままの表情ではあったのだけれど。
少女へ多少の親近感が沸いたところで、僕はさっきから言い出せずじまいだった質問を投げかけることにした。
「あ、あのさ、今、学校で噂になってる髪の長い女の幽霊って、その、もしかして、君……じゃあないよね」
「私が、幽霊?」
あまりぶしつけなのも駄目だろうと、無理に遠まわしにしたのが悪かったのか、言ってしまってから、ああしまった、と僕が後悔していると、
「ふふふ、幽霊、か。それはおもしろいわね、ふふ」
と彼女からは予想に反した反応が返ってきた。いや、何より彼女の笑った表情を見ることができたのが、嬉しかった。可愛いと思った。けれども、瞬く間にその笑顔は消え、次の瞬間、今まで見たこともないような、凍りついた目つきで彼女は言い放った。
「そう。幽霊と言われれば、そうかもしれないわね」
ゾクッとするような言葉に、一緒になって笑っていた僕は、引きつった笑顔のまま固まってしまった。はたして、少女のいっていることは本当なのか、もはや自分の中の常識だけでは収拾がつかなくて、それでなくとも彼女の、ややともすると僕の精神を侵すような目つきによって、僕の思考は甚だ麻痺してしまっているのだった。
「君は、一体……」
やっとのことで搾り出す言葉も、かすれて、拙い問いかけでしかない。
「ねえ、私のお願い聞いてくれる? そしたら、私のこと全部教えてあげるわ」
幾分かは和らいだ表情で、彼女が不意にそうもちかけてきた。
「お願い、何の?」
僕がたずねると、彼女は僕の首筋に手を回し、グイッと引き寄せて言った。
「アナタのカラダ、私のモノにしていい?そしたら、私のスベテをアナタにあげられる」
少女の妖しさに満ちた眼が、僕の心を魔術によってえぐり出す、そんな感じに僕は襲われたように思えた。一体彼女の言葉が何を意味するのか、僕に分かるわけもなかった。
「アナタが欲しいの。いいでしょう?」
彼女に好意を抱いてしまった男の心理として、もはや拒むべき余地はなかった。彼女の願いに僕はただ頷くだけだった。
時刻はまだ三時を過ぎたくらいだろうか。校庭のほうからは、部活動でにぎわっている生徒たちの声が聞こえてくる。それ以外は、時折吹く風に木の葉が、揺れて擦れる音がするだけだった。「この場所」には勿論僕と少女だけしかいない。おそらく僕よりは背が高いであろう彼女は、小さな生き物のように甘い匂いに酔いしれた僕を、その手でグッと引き寄せた。
「神篠 由宇。それが私の名前よ、折月 究作君」
そう述べた彼女の口元を眺めながら、僕はその名前を呟いた。
「かみしの、ゆう」
「私の唇が欲しいの?」
そう言うと彼女は、その手により一層力を込め、一気に僕の顔に彼女の顔をうずめていった。もとより体の動かせぬ僕は、彼女のなすがままであった。どれくらいの間、唇を重ねていたのであろう、半ば意識の飛んでいた僕の耳元で彼女が囁いた。
「私とあの子達からの、今までのお礼よ。そしてアナタが私のモノになったシルシ。また、ここで会いましょう」
そして、少女は立ち上がり、白いスカートの裾を翻すと、そのまま僕の視界から消えていったのだった。その日のことは、それきりまったく覚えていない。確かあのまま、眠ってしまったのだろうと思うのだけれど定かではない。
けれども、あの日、僕の思ったことには、たとえあの少女が、彼女の言うようにもうこの世には存在しない人間であったとしても、それでも僕はかまわない。彼女が望むなら、このカラダを捧げる覚悟はできているということだった。運命と言うものがあるのなら、僕の覚悟が一助となって、その歯車を回し始めたのだろう。ゆっくりと、確実に。