<76>もじゃもじゃのアイツ
水筒を傾けて口内を湿らせば、小瓶から塩を一つまみ取って舌に置く。温くなってしまった水と、体温の唾液が、塩を溶かす。味蕾がそれを検知して信号に変換して脳に伝える。これらの複雑なプロセスを踏んでようやく生き物は味を味と認識するのである。
すなわちしょっぱいだけだと。
セージは無意識に顔を顰めて頬を内側に寄せた。
「腹減った……」
空腹とは耐え難いものだ。特に食料品の備蓄が底を付き、補給の手立てがないとわかりきってしまったときは。
干し肉は既に胃袋の大海に消え、歩けば歩くほど腹が減るが足を止めては仲間の元に辿り着けないという苦行を強いられていた。草の中でも、食べても大丈夫な種類(ヨモギに似た味がする)を拾っては口にしているはずなのだが、一向に空腹感が収まらない。
「なんでかなぁ。最近食欲が止まんない。病気? なわけねーか。寄生虫? 虫下しで治るのかなぁ」
本人は自覚がないかもしれないが、それは育ちざかりであるからだ。
そうぶつぶつぼやきながら道中で手に入れた薬草をぱくつく。主にお腹の調子を整えるのに使われるものであり、あまり食べすぎると下痢をする種類のものなのであるが、お腹が空きすぎて口の中にもぎゅもぎゅと押し込む手が止まらない。たまに塩も舐める。口の中が緑一色なのはご愛嬌である。
全て食べ終えてしまったセージは、ぎらぎらと目を血走らせて周囲を見渡した。
辺りはなだらかな丘を乱雑に並べ重複部分は同化させたような地形であった。単純に上がって下るの丘ではなく、いくつもいくつも重なりあうことで起伏が複雑化しており、木の生え方も規則性が無い。
木を探しても食べられそうな木の実を付けたものは無く、あっても小鳥に食い尽くされた後だったりした。見つけたと言えば草とキノコである。
セージは腐った倒木の横にびっしりとくっついていた茶色っぽいキノコを鞄から取り出すと、睨んだ。鼻をくっ付けずに手の団扇で匂いを嗅いでみる。やや酸味がかった香りがした。
この世界においても一流の魔術師がキノコの鑑定を間違えて死ぬなどありふれた話であり、お腹が空いたから適当に採取したキノコを食べてしまえ、というのは浅はか過ぎる。
頭では理解していたが、お腹が納得してくれなかった。
今すぐにでもキノコを口に入れてしまいたい欲求に駆られた。セージは頭を振ると、キノコを鞄に押し込んだ。猛毒だったらどうする。エルフは森の民であり毒に耐性があるらしいが万が一耐性が追い付かない猛毒だったら、というリスクがある。
諦めが惜しくて鞄を熱い目でちらちらと見遣る。理性を総動員して食欲を押し込めると、お腹を服の上から撫ぜつつ、地面にあった小石を前に蹴る。
「蜘蛛、鹿、兔……いれば………って時に居ない。ふざけんな大自然」
セージは、丘陵地帯から森林へと足を踏み入れていた。というよりもこの世界、人間などによる開拓がほとんど手つかずの場所が多いため、森の割合がべらぼうに高いのだ。少し歩けば森にぶつかるのも道理。
森には多くの恵みがあるというのは、嘘である。恵みとは決して手放しで入手できるものではなく、努力しなくてはいけない。
ため息が止まらない。目的地まで既定の速度で進んでいく一行と、自分の力だけで歩かなくてはならないセージ。どちらが早いかは明白だ。追い付くにはかなりの時間を要するだろう。戦争に参加するつもりが自分でコースから外れたことに自己嫌悪していた。
――もういっそ異世界でのんびり暮らしちゃおっか。何やってもうまくいかないし。
という考えが頭をよぎるも、すぐに考えるのをやめた。
木の根っこを飛び越して着地。体のばねで次の根っこを飛び越すついでに木の枝をむしりとる。枝で木々を叩いて遊びながら前に進む。前方に見える山並みが目印だ。大雑把でも山を目指せばいいのだから迷うことはない。
とはいえ、道のりは長い。食べ物を手に入れないと空腹で力が入らないまま歩くことになるだろう。
枝で木々を叩いて鼻歌を垂れ流しながら歩いてきたのを察知したのか、巨体を誇る生き物がセージの背中をじっと見ていた。厚い皮を毛並で覆った筋骨隆々の獣。爪、牙、目立ち、それらに愛嬌と凶暴性を同居させた、森の生き物である。
セージはまるで気が付いていなかった。仲間と一緒に旅してきたことが逆に警戒心を緩める結果となっていたのである。その生き物はセージと家一軒挟んだ距離にまでにじり寄っている。犬ならば脂と体臭で察知しただろうが、セージはエルフである。
やっと気が付いたのは、その生き物が草を鳴らした音であった。エルフ特有の長耳がぴくんと身じろぎをした。
すかさず振り返ると、腰の二連式クロスボウを腰だめに放つ。カシュン、と軽い発射音。矢が生き物の皮膚を―――貫けず表皮で止まる。その生き物は鼻を鳴らし怒りの一撃を放つ。セージ目掛け爪の生えた腕が唸りをあげた。
「く、おおおおッ!? お、お、おまえ、おまえかよ!」
辛うじて後ろに転がる。もとい、体勢を崩してこける。
セージはその生き物にクロスボウが効力を発揮しないのを悟ると、すぐさま草むらに放り投げて、ロングソードを引き抜き、両手で保持した。相手に有利な体勢を直すべくすぐさま起き上ればじりじりと後退しつつ、相手の顔をじっと見つめる。
その生き物とは、3mもあろうかという熊だった。
セージにとって熊はトラウマの対象である。熱病にもかかわらず追い回されて食われるか川に飛び込むかの二択を迫られ、結局飛び込んだ。もしルエが助けてくれなかったらドザエモンだった。恐ろしいことに今目の前にいる熊は川で遭遇した個体よりも一回り大きい。
剣か、死か。セージは熊が二本足で立ち上がって威嚇するのをじっくり観察して、決断した。
前髪掻きあげ啖呵を切る。ただし声が震えている。
「上等だよ熊ヤロー。皮剥いで上等なコートにしてやる!」
熊が前足を地面につけると突進した。身のあたりの威力は推して知るべし。横っ飛びに回避すると、右手にロングソードを、左手を何か果物を握っているような中途半端に広げて、熊に照準。魔力を抽出。イメージという型に当てはめて顕現させる。そして、言霊をもって射出する。言葉の内容はイメージしやすく。
「〝火炎放射〟!」
手からほとばしる火炎が熊へと降りかかる。それは毛へ引火すると―――あっという間に鎮火した。普通の熊ならば火に包まれ絶叫しただろうが、この熊は違った。毛の質によるものか引火せず消えてしまった。単純な熊なら逃げ出しただろう。この熊は只者ではなかった。ドラゴンのように火に耐性のある生き物がいるのに、どうして火に耐性のある熊がいないと言い切れるのか。
火が効いていない。事実を認識できず、セージが固まる。
「あれ? 火が……」
僅かな隙を見せたセージへ熊が躍りかかった。肉体が脈動する。肉迫。強靭な爪が一閃。
「ちぃ! ひぐっ………」
左手を盾にバックステップ。服が破け血が飛ぶ。熊の爪の威力は肉を裂き内側を深く傷つけた。たまらず顔が歪むも、既に別の魔術を発動させるためイメージを練り上げていた。脚部に纏う靄をイメージ。魔力を集中させて、ぐっと屈む。
熊が今度は伸し掛かって顔面から食らってしまおうと迫る。
魔術が先か、熊が先か。
「〝跳躍〟ッ…………うわぁぁぁあやりすぎたぁぁ! マジかよおおおお!?」
脚部に風が巻き付くや、体を真上に飛ばした。
否、飛ばすなどという生易しいものではない。巨人に放り投げられたかのように木々を眼下に置く異常な跳躍を見せた。セージの体の軽さと瞬発力が存分に発揮されたのである。熊は葉の下に隠れてしまった。上空では、熊から逃れることができたという安堵と共に、どう着地するのかという現実にパニック状態に陥っているセージがいた。
上昇Gが去り、重力が体感できるようになる。肉体が大地へと牽引されだした。
じたばたと無駄に暴れてやっと足を下にすると、別の魔術を唱えるべくイメージを練る。ズキン、と頭の芯が痛む。火炎を得意とするセージが無理矢理風の魔術を行使したからである。
「えー、えー! えっと! イメージ! 〝クッション〟!」
でたらめに単語を吐き出せば、体をふんわりとした風が包み込み、落下速度が低下する。ブロンド髪や服の裾が下方からの風でめくれ上がった。眼下の木々の海が徐々に接近する。そしてなんとか、木の枝に足をつけることができた。
ほっと溜息を付きつつも、枝に跨る。
左腕へじっと視線を送る。熊の爪で綺麗に裂かれていた。幸いというべきか、熊の爪が尖っていたおかげで傷口はナイフで切り裂いたように曲線を描いていた。
腕の痛みと、頭の痛み。
はぁ、とため息を吐くと荷物から水筒を取り出して傷口にぶっかける。耐えがたい苦痛が走り涙がにじんだ。足をばたばた前後に振って、歯を食いしばる。
「~~~~~~~~っ!! くそ………痛い痛いいたいっ………うー、はぁ」
水を止めると痛みが引いた。と言っても水を落としたことで生じた痛みがなくなっただけで、傷の痛みは引いていない。
水筒を仕舞い込み傷口に薬草を潰して擦り付ける。伊達に勉強してきたわけではない。独自で食える薬草を判別したのとは別に、傷口の消毒に使える薬草を学んできた。だが傷口を縫う技術はない。治療魔術も下手糞だ。応急的に包帯を巻きつけきつく縛る。
やっと人心地ついた。セージは跨っている木の下を見遣った。大きい影が獲物を探して徘徊しているのが見て取れる。不意を突いて上に逃げたことで見失ったらしい。ほう、とため息を吐く。
「熊なんて大嫌いだ………」
やがてセージは、しまったという風におでこを押さえた。
「クロスボウ、置いてきちまった」
熊のいる下に取りに行かなくてはならない。
気が遠くなりそうで空を仰ぐ。青い。